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巷にあふれる「差別化」という言葉、私は大嫌いだ!

ファイル 272-1.jpg 1枚目の写真は、7月27日の読売新聞朝刊の記事である。それは神奈川県相模原市で起こった、まだ忘れることのできない悲惨な事件から1年目の記事のものである。その事件は現場となった知的障害者福祉施設「津久井 やまゆり園」の26歳の元職員による殺傷事件で、19人が死亡した戦後最悪の殺人事件である。そして報道によれば、容疑者の口からは想像を絶する差別の言葉があふれ出ている感じがしている。
 この国における職業や身体的特徴などに基づく差別の歴史はきわめて古いことはそれなりに承知しているし、子供のころ私が育った田舎でも差別があったことは薄々知ってはいた。それでも、それを表現する“差別用語”を口にすることのおぞましさは、なぜか気になっており、一切口にすることはなかったと自信がある。そのようにさまざまな“差別用語”を口にしたくない、あるいは口にした時のうしろめたさは今の年齢になるまで変わらない。
 そんな私を悩ませているのは、巷に氾濫する「差別化」という言葉である。たまたま7月25日の読売新聞の記事(2枚目の写真)にその言葉が出ていたのでここに使うことにした。この読売新聞のこの記事の目的はすでに多々問題になって安倍内閣改造につながったことであり、ここで特に問題とはしない。ファイル 272-2.jpgこの記事写真の左側の傍線を引いた部分の記事を拡大したのが3枚目の写真である。そこには、『差別化できるよう、よく検討していただきたい』との言葉が躍っている。
 なぜか「差別」という言葉が気になって口にできない私にとって、「差別化」も同様である。ブリタニカ小百科事典によれば、差別という言葉は英語では"discrimination"で、「特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為をさす。その差別的行為の対象となる基準は自然的カテゴリー (身体的特徴) の場合もあれば,社会的カテゴリー (所属集団) の場合もあるが,いずれにせよ恣意的な分割によって行われる」とある。このことが行われて問題が発生するのは、単純に言えばその対象に対して「優劣」をつけることからくる、と私は思う。
 一方「差別化」であるが、英語では"differentiation"で、コトバンクによれば「一方を高く、一方を低く取り扱うこと。あるいは、同類の他のものと違いを際立たせること」とあり、どちらかといえば企業戦略において頻繁に使われ、「違い」を明確にする意味が強いと思われる。したがって、「差別化」は「差別」のように恣意的に優劣をつける、あるいは分割するなどのニュアンスを元々持たないが、「差別」という言葉の強い影響を受けて私などが“口にするのもはばかる”という状況が生まれてくる。
 しかしネットでこの「差別化」を調べてみると、私のように「差別化」そのものが「差別」というニュアンスの延長線上にあると感じる人が多いのが実情のようである。実はこのことが大変私には気になっている。つまり、多くの人々がグローバル化の波の中での企業戦略で「差別化」という言葉を無自覚に頻発することで、ファイル 272-3.jpg「差別」という慎重でなければならない感覚が、若い世代も含めて麻痺が進んでゆくのではないかと心配するのである。あえて言えば、そのような自覚できない麻痺が止むことのない学校や社会でのいじめや、障害者施設での思わぬ凶悪な事件の底流になっている可能性を否定できないのである。
 それはともかく、私は「差別」はもちろん「差別化」という言葉を、たとえ企業戦略の一つであっても、日常的に聞きたくない。これは私の個人的な感覚だけではないと思うので、あえてこのブログに書かせていただきたい。きっと誰にでも、ある種の言葉は使いたくない、口にするのもおぞましいと思うものがいくつもあるに違いない。私の育った環境がこのような“差別”という響きを持つ言葉に対して嫌な感覚を私に植え付けてくれていたことに心から感謝している。それを維持することがとりあえずの私の責務である。
 是非、新聞やテレビなどのマスメディアもこの「差別化」という言葉を嫌な感じで受け取る人間がいることを考え、安易に使わないでもらいたいと切望する。