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大都会のビル群に囲まれた国民公園、新宿御苑

ファイル 267-1.jpg 大型連休のはじめの暑い日、簡単に行けるところとして新宿御苑を選んだ。新宿駅西口からトコトコと歩いて15分、大勢の観光客に交じって1枚目の組写真右上にある新宿門から公園に入った。入ってしまうと広いスペースの中で込み合っていた感覚は消え、ゆったりとした気分になれた。外周3.5キロ、面積58.3ヘクタールの広い公園である。
 その入り口にあった簡単な公園のチラシ(右下)を見て驚いた。この御苑は名前からして宮内庁関係のものかと思っていたが、このチラシには新宿御苑は“環境省 国民公園”と書いてあったのである。Wikipediaに尋ねてみると次のように言う。「国民公園(こくみんこうえん)とは、環境省が管理する公園の一つ。国が設置・管理する公園で、都市公園・自然公園以外のものを指す。旧皇室苑地である皇居外苑・新宿御苑・京都御苑の3箇所が国民公園であり、これと無名戦没者の遺骨が納められている千鳥ヶ淵戦没者墓苑と戦後強制抑留及び引揚死没者慰霊碑苑地を合わせて国民公園等という。」ファイル 267-2.jpg宮内庁が絡んでいたことは正しかったが、元は武家屋敷跡地であったらしい。
 そして、このチラシは次のように言う。「新宿御苑は、徳川家康の家臣、内藤氏の江戸屋敷の一部がそのルーツと言われています。明治に入り、農事試験場を経て、明治39年(1906)に皇室の庭園となり、戦後昭和24年(1949)に国民公園として一般に公開されました。園内には、イギリス風景式庭園、フランス式整形庭園、日本庭園が巧みにデザインされ、明治を代表する近代西洋庭園といわれています。」
 この公園を散策して感じることは、大きな木々が茂り、多彩な形式の庭園に多種類の花が咲く心休まる場であり、広い芝生の空間で大人も子供も走り回ることのできる都会での貴重なスペースであることである。でも、それにもかかわらず多種類の木々や草木、その花などの名前の名札などは、ごくわずかを除いてほとんど付けられておらず、私たちの知りたい欲望を満足させてはくれない。どうしてそんな簡単なことができないのかといつもいわゆる公園などに行くと不思議である。ファイル 267-3.jpgまた、広場や木陰で食事をしたり手持無沙汰な家族などの周りには持参したサッカーボールなどが使われないままに置かれていた。よく注意事項の看板などを探して見ると、道具を使った遊びは禁じられている。要するに、ただただ走ることしかできないようになっていて、球技などは一切ご法度である。いま頃になって子供の体力が落ちたなんて言ったって後の祭りである。
 日本ではどうしてこうなってしまうのだろうか。ちょっと脱線だが書いておきたい。確かにあまり広くない公園などで野球をやったりサッカーをやったりすればケガなどが起こりうることはよくわかる。楽しく時に激しくスポーツをすればその延長線上にはケガが起こることは確かだろう。では、そんな危なさを感じなくてよいような広いスペースを、遊びやスポーツをやりたい人たちになぜ提供しようと考えないのだろうか。
 日本は狭くて人口が多いからそれは無理だと誰しも言う。ファイル 267-4.jpgでも、私は以前計算したことがある(そのデータを無くしたのは残念だが)。それはひとりの人間が遊ぶ時のスペースの計算である。たとえば、この狭い日本にもなぜか無数と言ってよいほどのゴルフ場がある。そこで一日に何人のゴルファーがプレーしているか、子供が安全に遊べるスペースだと何人にあたるかを計算したことがあるが、驚くべき数値だった。この狭い日本でゴルフ場が開発できるのなら、子供のためのスペースなんてやる気があれば開発できるはずである。いまここでは机上の空論なのでこれ以上は書かないが、なぜとりあえず安全策の一つとして“安全管理人”などをおいて公園を安全に使う方策を考えないのだろうか。海水浴場やプールには置いているような人材を公園に置けばよい。それをボランディアでやれる人は私を含めて沢山いるはずである。子供たちを狭い場所に押し込めておいて、子供の声がうるさいと文句を言うような大人が増えてほしくないのである。もう止めておく。
 以上のような不満はあるが、なかなかの公園である。私はあまり木々や花などのことは詳しくないので、組み写真で皆さんにこの公園の雰囲気を感じてもらえればとだけ思う。ファイル 267-5.jpgその写真を撮るときに心掛けたことは、どっちを見てもビルに囲まれているので、それをあえてすべての組写真に取り込んである。ビルに囲まれているが立派な公園である。
 1枚目の組写真の右下にはチラシの写真を入れてある。拡大していただければ公園の全貌を知ることは可能である。この地図の11時の方向が北であり、8時の方向に見えている鉛筆のようなビルは“NTTドコモ代々木ビル”で原宿あたりからもよく見えるが、携帯電話などの電波塔だと聞いている。この電波塔はすべての組写真に取り込んである。2枚目の組写真はサツキとツツジだろうと思われる。3枚目の組写真の花はホウノキの仲間のタイサンボクの花と蕾で、私は初めて見た。大きくて大変きれいで優雅な感じの花である。4枚目の組写真はフランス式整形庭園にあるプラタナス並木(スズカケノキ)である。5枚目の組写真にはメタセコイアも見えている。
 とにかく、一度訪れて楽しむ価値は大いにあるとお伝えしておきたい。ここまでには全く触れなかったが、この公園には大きな温室があり、多彩な植物の名前や特徴などがはっきりと記されていて教育的価値に優れている。

追記:
 3枚目の写真の花の説明で「ホウノキの仲間のタイサンボクの花」と書いたが、知人から指摘があり、「ホウノキの花」と訂正したい。なお、同公園には別の場所にタイサンボクもあるとされる。

緑道の春の花トンネルを走る気持ちよさ!

ファイル 265-1.jpg 5月となれば花の種類もガラッと変わってしまったが、それでも今度は緑に映える緑道は素晴らしい。私はかって、この相模原台地の緑道緑地のかなりの部分はかって水田開発のために作られた給水路が、市街地への転換で役割を終えて市民のためのウォーキングやランニング、そしてまたサイクリングのための道に成り代わったものだと書いた(http;//www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=254 )。ありがたいことにその緑道を私は週に数回トレーニングやリフレッシュのために使わせていただいている。
 そして上のタイトルに書いたように、春になるとこの緑道の脇には様々な美しい草木が一斉に花を開き、私たちを楽しませてくれる。自治体がきちんと管理している部分もあるが、その多くは市民の皆さんが自主的に管理されているものが多く、また、その緑道の傍に住まいを構えておられる方々が様々な草木を植えてそこを通る私たちを楽しませてくださっているらしい。ただただありがたいと思う。今回は4月のはじめ2日にわたってカメラを担いで自転車で走り回って写真を撮らせてもらった。写真の整理の仕方が難しくて撮影した写真の一部分しか紹介できないのが残念であるが、そのわずかでも楽しんでいただければ幸いである。
ファイル 265-2.jpg さて、どのような道筋を走っているかを簡単に説明したい。私は国道50号線に近いところに住んでおり、そこから50号線を西に1キロ走り、そこから北に向いて小田急相模原駅(いわゆる“オダサガ”である)そばを通って国立相模原病院に向かう。1枚目の組写真の上2枚の左1枚は、私の窓から見える聖セシリア学園の大きな満開のソメイヨシノの木で、右の黄色い花は道路際に咲いている、私の大好きなキイロハナカタバミである。国道を離れてオダサガに向かう右側には、高校のスポーツ界で名高い東海大相模高校がある。下の写真は、その野球部が練習する室内練習場で、絶えず金属バットからの快音が聞こえている。
 そこから1.5キロほど行くとオダサガである。その交差点には面白い標識があり、“サウザンロード入口”とある(2枚目の組写真)。これは1キロの直線の商店街で、だからthousandという、大変人通りの多い元気な商店街である。私はいつもそこを走り抜ける、と目の前に国立相模原病院が目に入る。そこまでおよそ4キロで、ファイル 265-3.jpgそこで少し休憩してから東に向かった一般道を2キロ弱走ると右下の写真にある相模大野の御園二丁目の交差点に出る。ここが私が走るつきみ野に至る約5キロの南行き緑道の入り口である。
 あとはもうただただきれいな花いっぱいの幅2-3メートルの緑道を気持ちよく走るだけである。この台地は南行きは必ず少しだけ下っているから何とも快適である。3枚目の組写真は、その緑道が花のトンネルのようになっている写真である。何種類かのサクラやシダレザクラ、それにツバキの大きな木もたくさんある。4枚目の組写真は、少し雰囲気の違うシダレザクラと緑道傍の民家のおじさんが栽培しているかわいいシキザクラ(四季桜)の写真2枚である。この四季桜のおじさんはいろいろ楽しい話を聞かせてくれた。
 最後の5枚目の組写真は、迷いに迷ってこのような構成になってしまった(実はこのブログは写真は5枚しか掲載しないようになっているので・・・)。左上の2枚はいずれもモモの花で、この界隈には濃い赤色や白のモモの木が非常に多いのが印象的である。ファイル 265-4.jpgきれいなシダレモモの花もあったがなぜか選んでいるうちにはずれてしまった。それはともかく、左上の2枚目の写真には白い花の中に赤い花が混じっているのが面白い。モモの花はもともとはアントシアニンの赤い色素を持つものが普通であるが(左上の写真のように)、時にはその色素の合成がうまくいかない突然変異が起こり白い花をつけるものが現れることが知られていて、それはどうやらトランスポゾンと呼ばれる“飛び回る遺伝子”が原因となっていることが分かってきている。
 このようなことがモモでどこまでわかっているかは遺伝子に詳しくない私はよく知らないが、ウメなどではそう言われているように思う。もともとこの遺伝子ははるか前の1940年代にトウモロコシでマクリントックが発見し、1983年にノーベル医学・生理学賞を受賞して知られるようになったものである。このタイプの遺伝子は染色体内を飛び回ることで知られ、それが飛び込んだ領域の遺伝情報は改変される可能性が高く、モモの場合には赤い色素を作る遺伝子がダメになってしまったと考えられる。ファイル 265-5.jpgこの種の遺伝子は人などの遺伝子にも大量に含まれていることが知られ始め、ヒト遺伝子の解明が進んでいると喜んでいるが、むしろ私たちの遺伝子にはわからないことが山のように存在していることが分かってきたと考えるべきなのであろう。分かってくるとヒトの遺伝現象に何が起こるか分からない戦慄さえ覚える。
 さて、そんな話はいい加減にしておかないと話が終わらなくなってしまう。要するに、花いっぱいの緑道を走るのは本当に気持ちがよいという話である。写真の左下と真ん中下はツバキの花である。また、右上の写真には左側にコブシ、そして右側にはちょっと見にくいがシモクレン(紫のモクレン)が緑道の両側に咲き誇っている。右下にはシモクレンの一輪だけをクローズアップした。
 実はこの何倍もの写真を撮ったのにもかかわらず、ここに出すことができないのは残念である。この近くにお住まいの方はぜひ一度この緑道を訪ねられることをお勧めしたい。

冬の出雲を旅する (2)出雲大社とその周辺

ファイル 262-1.jpg 出雲大社には10年ほど前に一度訪れたことがあるが、今回のように出雲大社やその周辺の神社をいくつか訪れたことは初めてで、いろいろなものを見学し、帰ってきてからも様々な書き物を読むチャンスがあって収穫の多い旅ではあった。今回はそのあたりのことを書いておきたい。まずはその出雲大社についてのWikipediaの記述を簡単に紹介したい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE )。
 「出雲大社(いずもおおやしろ)は島根県出雲市大社町杵築東にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は『いずもおおやしろ』(歴史的仮名遣いでは『いづもおほやしろ』)であるが、一般には主に『いずもたいしゃ』と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一『大社』を名乗る神社であった。」
 また、この出雲大社の「祭神」については次のように言う。
「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。1142年(康治元年)在庁官人解状に『天下無双之大廈、国中第一之霊神』と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。ファイル 262-2.jpgそのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。」確かにこの出雲以外では11月は“神無月”であるのに対し、この出雲では“神在月”と呼ばれるようである。
 私のように自然科学を仕事としてきた人間にとっては、この出雲地方の神々の正体をどう感じたらよいのかがなかなか問題で、そう簡単に入り込むことは難しい。旅から帰って様々な資料を読んでは見ても、出雲大社の創建についても、また何を祭っているか、つまりは「祭神」についてもその移り変わりが激しいことが分かった。たとえば、平安時代前期までは大国主大神であったが、神仏習合の影響下で中世のある時期から17世紀までは八岐大蛇退治で名高い素戔嗚尊(須佐之男命)、その後、また神仏分離・廃仏毀釈政策の影響下に古事記や日本書紀の記述に沿って大国主大神に戻ったとされる(Wikipedia)。そのように歴史的にも様々な見方が挙げられていることが分かってきたが、考えようによってはそれはきわめて当然のことで、近世から現代においても、いや第二次世界大戦以降においても神話ならずとも歴史(歴史書も)は常に為政者によって都合よく主張され、書き換えられてきているからである。ファイル 262-3.jpgしたがって神社・仏閣などの創建以降の歴史もそう見るのが健全であると私は思う。
 そうは言っても、この出雲地方に伊弉諾大神、伊弉冊大神、天照大神、月読命、素戔嗚尊(須佐之男命)などの兄弟とその子孫とされる大国主大神などを祭神とする神社が多数存在することは事実である。出雲大社とともにそのいくつかを今回めぐることができた。最初の写真は、私が最も気に入っている写真で、早朝と夕刻の境内に入ったあたりから南に向いて最初の大鳥居の方向を見たものである(拡大してご覧ください)。手前が境内である。三瓶山は見えていないが右の方にあり、遠くの正面に見えているのは多分比婆山連峰かなと思うが正確ではない。その山々から霧、あるいは雲が立ち上がるようにも感じられ、この出雲の枕詞でもある“八雲立つ…”雰囲気を感じることができる。このようにきれいに見えるのは、ここが島根半島の西端に位置するからであろうか。
 2枚目の写真は、出雲大社の社殿群を集めたものである。私が今回学んだことの一つは、屋根の上にたすき掛けの形で乗っている“千木”の尖った先が上を向いているのが男性の神を祭っている証で、横を向いているのが女性の神の場合であるということである。でも、祭神が変わることがしばしばあるのですべてそうであるとは言い難いようである。
ファイル 262-4.jpg 3枚目の組み写真では左上が佐太神社、右上が八重垣神社、下2枚は神魂神社(かもすじんじゃ)のものである。佐太神社には社殿が3つ並立しており、極めて珍しいとされる。祭神も12柱(神の数は柱と呼ぶようである)、猿田彦命と関係があり、出雲大社と並ぶ品格という。八重垣神社については、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで姫と住居を構えた地に須我神社が創建され、そのご幾度かの変遷を経てこの神社となったと言われる。縁結びの神とされる。下2枚は神魂神社であるが、上に述べた千木は尖った先が横に向いていて女性の神を祀っていることを示している(拡大してみていただければ分かると思います)。社伝によれば伊弉冊大神(イザナミノオオカミ)が主神である。
 4枚目の写真は、左上が上に述べた和歌を詠んだと言われるところでそのため和歌発祥の宮と言われる須我神社である。左下は素戔嗚尊(須佐之男命)がこの出雲の最後の開拓地であるからと地名にしたとされる須佐の神社である。右上は、出雲大社の海寄りを10分ほど車で走ったところにある日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)で、ファイル 262-5.jpg写真が少ないが山の傾斜を巧みに使った大変美しい神社で、その少し奥に日本で一番高いと言われるきれいな灯台がある。それが右下の写真で、建設後100年以上経つがいまだに現役である。
 最後に、出雲の神話の中心にいる素戔嗚尊が悪さをして高天原から追い払われてこの地に降り立ち、心を入れ替えたか八岐大蛇に食べられそうな娘櫛名田比売(クシナダヒメ)を救う活躍をする石見神楽を宿舎で演じられるのを観ることができた。主人公が八岐大蛇に強い酒を飲ませて酔わせ、それを太刀で退治した時その尾から出てきた剣を得た。それが後に草薙の剣と言われるものである。その5枚目の組写真は十分ではないので、その雰囲気だけでもお楽しみください。
 今回の旅の後、多くの方が書かれたレポートを読ませていただき、勉強させていただいた。そして、神話の世界と現実の姿とのすり合わせの難しさと、時にはそのロマンも感じることができた。その神話に様々な説が存在すること自体は健全であると最初に書いたが、2000年に発掘された巨大な柱も「島根県古代文化センター」で見ることができた。これは巨大な古代社殿の柱であるとも報じられたが、いまはどちらかと言えば中世1248年造営の本殿の遺構だと考えられているようである(前傾のWikipedia)。これからも建設的な議論が積み重ねられることを期待したい。
 最後に、出雲でいただいたカニとのどぐろとそばは美味しかった。

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