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私に新しい何かを迫った京都マラソン2017

 私にはこれまで京都でのハーフマラソンは縁起がよかった。実は京都で最初のハーフを走ったのは2001年で、それまではこのレースの2時間という制限時間の壁がとても恐ろしく出られなかったのである。そして64歳時の2004年3月に今でも破ることのできない私のハーフの最高タイム1時間41分13秒を出すことができた。いまから考えてもどうしてこんなタイムが出せたのかはわからないが、この京都では何度か40分前半のタイムを出せ、私に自信を持たせてくれた京都はとても相性が良いのである。
ファイル 263-1.jpg そんな京都をフルマラソンで走る機会はこれまで2度あったがいずれも故障でキャンセルしており、今回3度目の正直と勢い込んで京都にやってきた。昨年11月神戸マラソンを走った後は順調に調整できたと思っていた。ただ、こちらに引っ越してからはなかなかジムでのトレーニングになじめず、ほとんどロードを走るだけとなり、筋トレなどが極端に不足していることは気になっていた。しかし、一応目標とした月間150キロほどは走って調整してきたつもりであった。
 レース当日の早朝7時過ぎ、西京極の野球場のネット裏スタンドに入って着替えをすることにした。この野球場は、私が西京極に近い大阪・高槻にいた時に夏の高校野球・京都大会の試合を何度か観戦に来たこともあり、落ち着いた気分でグランドを眺めていることができた。ただ、前夜の小雨の後相当冷えたらしく、シートに溜まった水がカチカチに凍りついていたこともあり、朝日を浴びてはいたが底冷えのする朝であった。着替えてから荷物をトラックに預け、トイレで用を足してからウォーミングアップをしてスタートに備えたが、残念なことにトイレの数もかなり不足気味で、さらにアップのためのオープンスペースが少ないことから他のレースの会場に比べて少し窮屈な感じを受けた。
 陸上競技場のトラックに整列して9時にスタートしたが、トラックも氷の解けた水で濡れており、競技場を出てしばらくの石畳も濡れていて用心深く走ったのを覚えている。転倒が一番怖いからである。1枚目の写真は今回のコース図の写真である。写真はかなり拡大してご覧いただきたい。競技場を出てから嵐山方面に向かい桂川の堤防道路を北西に向かい渡月橋を左前方に見ながら右折して天龍寺の方向に向かうコースを取った。このあたりでは、前方に見える山々に霧がかかっていかにも京都と思わせる雰囲気を感じることができた。
ファイル 263-2.jpg その後、一条通を東に向かって広沢池、仁和寺、龍安寺を左に見て走るにしたがってアップダウンの厳しさを実感することになった。実はコース図の写真の左上の方に黄色で高低差が表示されています。私がこの図を見て感じていたことは、いったん10キロ手前までで坂を上りきってしまえば、あとはだらだらした比較的平坦なコースと勘違いしていたことでした。よくよくその図を見ると、決してそんなことはなく、25mほどの高低差のあるアップダウンがいくつも続いていたのです。その時点ではそんなことを考えてる余裕は最早ありませんでした。14キロ時点の馬代通から上立売通へ曲がって入る地点で、あらかじめ示し合わせたかっての職場の先輩を見つけることができ、ほっとして上りを意味する北に向かって順調に走っていきました。その順調さは、2枚目の写真の5キロごとのラップによく表れています。このあたりの賀茂川沿いの道路は、かって京都ハーフマラソンを走った時のコースのはずで、十分なじみがあり、穏やかな気分で走れたように思います。
 その後、賀茂川沿いを下りながら北山通りに入り、さらに府立植物園の中を巡って再び賀茂川の右岸を走ることになりました。実はこの29キロあたりからの賀茂川(鴨川)河川敷コースは私にはかなりきついコースでした。その理由は、狭く、またコンクリートの石畳や土の部分が混在していたことや小さな起伏がたくさんあることでじりじりと疲れを感じ始めてきました。また、目がしょぼしょぼし始めたことと、非常に疲れると身体が左に傾いて左に斜行する癖が出始めたので、あまり無理をしないようにとどこかで歩くことを決め、30キロあたりでしばらく歩き始めてしまいました。3枚目の写真は、私のGPS時計でのデータで、黄色いペース(分/キロ)の線が上に向かって急に上がっており(ペースが落ちている)、紫色の心拍数が急に下に向かって下がっている(スピードが落ちている)地点が最初に歩いた地点を表しています(なお、11キロ手前の同様のデータについては思い出せない)。その後32キロ地点とそれ以降に何度か歩き、40キロまでの10キロが私にとっては地獄のような時間でした。ファイル 263-3.jpgこの間、元気を出すために給食として用意されているミカン、パン、好きな生八つ橋などに手を出すのですが、それらを一口口に入れるだけでまともに食べられず、手に持っているだけで口からもぽろぽろこぼしている有様でした。こんな自分を情けない思いで見ていました。疲労の極致とはこんなことを言うんでしょうね。
 今出川通の最後の折り返しで、係の人に“あと3キロ、下るだけやで!!!”と大きな声で励ましを受け、最後まで間違いなく行けることを確信して気を取り直し、走り始めました。それでも、京大に近い東大路通で一度歩きましたが、あとは我慢し続けました。そして、東大路通から何度か左右に曲がって平安神宮の大鳥居の真下に入ってゆくのですが、まっすぐに走れず、左に斜行してやっとゴールの左端に入ってゆくことができました。ゴール後、荷物を受け取り更衣場の床に座り込んだまま貰ったドリンクも飲めず持っていたバナナも食べられず、一緒に走った仲間や応援に来てくれた方々とメールで連絡を取るだけで1時間半何もできませんでした。でも、2時間半後にやっと三条京阪まで歩き、その方々とおいしいビールを飲み“給食”を食べ、やっと生き返りました。タイムは4時間52分25秒。目標には10分以上届きませんでした。
 一昨年の神戸、昨年の長野と神戸、そして今回の京都マラソンを振り返ると、加齢が進む中4時間後半のタイムを脚力で押し切れる時代は終わりつつあるのかもしれないと感じている。もちろんトレーニングを積んで脚力を維持・強化することを考えているが、その努力で42.195キロというマラソンのなが~い距離を克服するのはとても難しい。それよりもどこまで精神的に頑張れるか、我慢できるにかかっているようである。その意味からすると、この4つのフルマラソンでは、必ずしもタイムはよくないが、しかし最後まで走り切りたいという精神力に支えられている、つまり、我慢する力は失われていない、そんなことを感じている。もうしばらくはがんばれそうである。
 しかし、問題は今回思いのほか早く“斜行する”悪い癖が出てきたことである。つまり、体の軸が不安定化しているのであろうか。私はこのブログの最初に、最近筋トレが不足していると書いた。今回早い段階にそれが表れたことが何によるのかはわからないが、脚力ではない筋力、特に体幹の筋力が不足しアンバランスになっているためと考えることもできる。これから1か月半、それを明確に意識して強化し長野に臨んでみようかといまは考えている。

神戸マラソン2016、加齢の先を見つめて

ファイル 255-1.jpg ここ2、3年、日常のトレーニングでもレースにおいても頻繁に故障や故障に近い状況に追い込まれてランナー寿命もそう長くはないと思い始めていた。それはただ走ることだけの問題ではなく、日常生活の活力、集中力、知的好奇心にもマイナスの影響を与え始めていると感じていた。私が大学での仕事を終えた後の目標のひとつは、50歳過ぎてから覚えたランニングを通してこれらの問題、つまり肉体の再活性化にチャレンジすることであったので、故障の多発は私にとっては重大な問題となっていた。
 今年の11月20日の神戸マラソンには、昨年歯を食いしばってよくないタイムながらゴールしたご褒美だったか、75-79歳の年代別クラス9位となってシード権を戴き、幸運にもまた参加することができた。そして、その結果の先に確かな希望を見出すことができたので、ここに記しておきたい。
 日常的に感じている私の身体についての問題点は、右腰の重さである。特に腰の痛みがひどいということではなく、広い範囲で今日はここ、昨日は別の部位と動く感じで、神経的な原因というよりは筋肉部位の問題だと感じている。しかしそれを日常生活が困難になるほど悪化させないことが重要と考えてきた。そのためランニング姿勢を前傾過ぎないように強く意識し、骨盤の上に上半身をきちんと載せて走ることを心掛けた。また左右の歩幅のアンバランスを是正し、ストライド走法に近かった走法からピッチ走法に変更することをここ数年努力してきた。さらに、腰に与える衝撃を和らげるため、好んで履いてきたアシックスのスカイセンサーなどの軽めのシューズを見直し、衝撃吸収性と反発力に優れた少し重めのスピードライバル4などのナイキのシューズに変更した。
 しかし、故障の発生を抑え込むことには成功したものの、ファイル 255-2.jpg今夏の終盤徐々に気温が下がり始めてもなかなか思うようなペースで走れなくなっていて焦りを感じていた。そんなとき久しぶりに会った甥から思いがけないことを聞いた。それはプロテイン(タンパク質)をトレーニング後に補給するということであった。彼によれば、それによって肌の感触や体の動きが全く違うと言うのである。私の感覚からいえば、プロテイン利用はボディビルダーが筋トレの後に摂取することでたくましい筋肉を持った身体を作り上げるためという考えしか持ち得ていなかったし、私にとってのプロテイン(タンパク質)は私の専門でもあった生化学研究の対象でしかなかったのである。
 どうも私の頭の中は古色蒼然としていたようで、甥からその話を聞いた1か月後にやっとそれを試してみる気になっていた。私が手に入れたプロテインは、ウイダー(森永)の“muscle fit protein”と称するものでバニラ味が付けられており、ホエイプロテインとカゼインを含んでいる製品である。最初に飲んだのはロードを11キロ走った直後で、簡単に水に溶かしたものをおいしく飲むことができた。驚いたのはその2日後のことで、歩いても自転車に乗っても脚の“力”がそれまでの感じとは全く異なり、凄く力強いと感じた。これがプロテイン摂取の始まりであった。
 私は若干太り気味で70-71キロの体重があり、そんな私が走ればその約3倍の重量が一歩一歩にかかり、関節、脚の筋肉や骨に多大な負担がかかることになる。それによって筋肉繊維に損傷が発生し、それを日常的には食事によって摂取したプロテイン(消化酵素による分解でアミノ酸になる)を用いて修復することになる。これが筋肉に負荷をかけて運動するときには当たり前に起こることである。
ファイル 255-3.jpg 市場に出回っているプロテイン製品は消化吸収しやすいたんぱく質が使われていて、それを運動後急速なたんぱく質合成が起こるとされる少なくとも1時間以内に摂取することで、損傷の起こった筋肉細胞内で高い効率でタンパク質の合成が行われていると考えてよいと思われる。それによって傷ついた筋肉の回復を果たし、さらに“超回復”と呼ばれる“損傷以上の回復”をもたらしてくれるものと思われる。
 以上のような状況を1か月ほど続けた後に神戸マラソン2016に参加した。残念なことにこの日は11月後半にはめったにないような暑さで、スタート時点ですでに18.5℃とアナウンスされ、途中24℃とテレビで放送されたという(神戸気象台のデータを調べると、午前9時に18℃、11時から15時まではおよそ21℃であった)。この暑さが後半のタイムロスを招いたと思われる。
 1枚目の写真はコース図とその高低差を表している。私の予想とは別に、スタートして西に行くほど上っている感じで、とくに折り返し点近くで神戸海峡大橋のある舞子公園を挟んで27キロまでには10m近くのアップダウンが10回ほどあり、最後の35キロ先には30m近い急坂が待ち構えていた。2枚目の写真は公式の5キロごとのラップタイムであり、3枚目の写真は私のGPS機能付き時計の後半部分1キロごとのデータである。もちろん25キロあたりからじりじりタイムを落としているが、いつもフルを走って感じる“脚が出なくなる”と苦痛とも言える感覚は特になく、ただ走れるままに走るという不思議な感覚で走っていた。それでも熱いこともあって疲労感はあり、30キロ以降のすべての給水所で頭、首筋から背中、脚の表裏に水をかけることを繰り返していた。
ファイル 255-4.jpg そんな水をかけて身体を冷やすことの他にいつもと違うこともしていた。それはものを食べるということである。私はめったに食べることをしてこなかったが、今回は走る前からチョコパンなどを食べようと目論んでいた。実際に、バナナ以外に(バナナは手がべたべたになるので好きでない)チョコパン、どら焼き、ミカンなどを食べて走っていたのを覚えている。要するに、食べる元気がないのではなく、食べる元気があったのが不思議であった。そんなことにも時間を費やしてタイムは35、40キロとよくないが、3枚目の手元の時計データの後半部分でもわかるとおり(左から3列目はキロ数、5列目がキロ当たりの時間、分秒、7列目は平均心拍数、8列目は最高心拍数。0.2キロほどの距離の誤差がある)、キロ8分に落ちているのはわずかで、結構7分台前半で、特にあの急坂でも走れているのである。また、ゴール近くのデータでも余力は残っていた。速報タイムは4時間48分37秒であった。なお、状態の良さを示す数字としては、3枚目の写真の左から7列目の平均心拍数は145で、8列目の最高心拍数も160までしか上がらなかったことである。スピードが下がれば心拍数もきちんと下がっていて全く問題がなかった。
 今回不思議なことだが、ラップタイムを戻そう、ペースを維持しようなどとはほとんど思わなかったし、給水所での給水や給食の時を境に“歩こう”などとはほとんど考えもしなかった。それほど体力がついていたのかもしれない。その原因はと言えばプロテイン以外に考えられない。このことについてはこれから時間をかけて判断していこうと思っている。また技術的なことを一つ書くとすれば、走っているときにふくらはぎなどに違和感を少し感じたら、その部分に強い付加がかからないような着地の仕方に変更してそれをやり過ごすことがうまくできるようになったことである。ファイル 255-5.jpgこれは昨年の神戸マラソンでの教訓から得たことで、私の財産になっている。いろいろなことがあってバンザイしてうれしくゴールするが、その3秒後には疲労困憊でがっくりと頭が下がる。そんな姿をテレビ画面で撮影してくれた友人の畑野勝義氏に深く感謝する(4枚目の写真、左側に注意)。なお、チョコパンをほおばりながら元気に走る写真があるので、手に入り次第追加掲載したい。
 それにしてもスタートしてから舞子公園で折り返してゴールまで、熱い応援は途切れることはない。大いなる力を与えてくれ続けた。今年の私の2枚のゼッケンには大きな字で私の名前が印刷されており、それを見た沿道からの大きな声援には、びっくりするとともに大きな刺激になり、うれしかった。とにかく一所懸命に走っているときに名前を呼ばれると不思議な感覚になって涙が出る。ただただ沢山の神戸市民応援団に感謝したい。
 最後に、私の身体状態の維持・管理に力をくださいました「ちあき接骨院」と「佐藤治療院」の皆様には心より感謝を申し上げたい。

追記:珍しい写真が手に入りましたので、5枚目の写真として追加いたします。上はたしか30キロあたりで初めてチョコパンを食べて元気を出している私と、下はゴール直後で憔悴はしていてもまだ元気のありそうな私です(2017/01/05)。

アンプティサッカー(Amputee Soccer)、その凄さを知る

ファイル 253-1.jpg 先週10月1日、息子の誘いを受け川崎市の「富士通スタジアム川崎」で開かれていたアンプティサッカー(amputee soccer、amputeeは足や腕などの切断者の意)の第6回日本選手権大会を観戦に出かけた。そこでの試合を観て、思いがけない素晴らしい感動と人間の途方もない能力の一端を垣間見ることができた。
 まず最初の写真を見ていただこう。この写真は試合後のあいさつ時のものであるが、見ていただきたいのはフィールドプレイヤーはすべて片方の下肢を切断しており(あるいは障害がある者)、2本の“つえ(クラッチ)”、つまり医療用によく使われているロフストランドクラッチとよばれるものを使用し、左端右端に立っているゴールキーパーは片方の上肢を失った者(あるいは機能を失った者)が務めている。そんな方々がたくましいサッカーをするのである。それを語る前に、その会場でいただいたいくつかのパンフレットから、私が初めて知ったルールの数々をまずお知らせしたい。
 試合の人数は7人、試合時間は25分ハーフの50分、ピッチサイズは60mx40m、ファイル 253-2.jpgゴールサイズは5mx2.15m(少年サッカー用ゴール)である。用具は、フィールドプレイヤーは2本のサッカー専用ではなく医療用のロフストランドクラッチと呼ばれるものを使用し、これはプレイヤーの手にあたるため意識してそれでボールを操作すればいわゆる“ハンド”の反則となって笛が鳴ることになる。このクラッチを軸足にして振り子のように体を揺らしてパスやシュートを行う。また、フィールドプレイヤーは転倒した状態でボールを蹴ることはできない。なお、普通のサッカーと異なる点は、ゴールエリアなし、オフサイドなし、ゴールキーパー以外は自由交代で、スローインはなくキックインとなる。また、ゴールキーパーはペナルティエリアから出ることはできないなどであるが、あとは激しいボディチャージなどすべて普通のサッカーと同じである。
 このようなルールで運営されている大会を報じた小さな記事を10月2日付の読売新聞に見つけた。その記事の写真が2枚目である。そこにも書かれているが、2本のクラッチと片足で想像以上のスピードで走り回り、ファイル 253-3.jpg激しくチャージし、ドリブルを仕掛け、素晴らしいシュートを放つなど驚かされることばかりという私と同じ感想であった。3枚目と4枚目の組み写真は、ゲームの写真を組み合わせたもので、様々な形で攻撃を仕掛ける姿が垣間見えるはずで、自由な想像にお任せしたい。写真に見えるバックスタンドには人は入っていないが、私たちがいたホームスタンドにはたくさんのファンが声援を送っていたことを指摘しておきたい。そんな多くのファンを引き付ける理由は、ただひたむきなプレーと高い技術力かもしれない。現在のアンプティサッカーのプレイヤーの7割はサッカー経験者ではないと言われている。思いがけず自分の身体を動かしてスポーツを楽しむことができるサッカーに出会えた喜びが、高い技術とひたむきさを支えるのであろうか。
 観戦に行ったときに戴いたいくつかのパンフレットから私は様々なことを知ることになった。その一つのパンフの表表紙と裏表紙の写真が5枚目の写真である。実は障害を持つ人たちがプレーすることができるサッカーには7種類もあるとのことであった。アンプティサッカーはその一つに過ぎず、最も最近になって日本で展開が始まったスポーツなのである。ファイル 253-4.jpgその対象者によって知的障がい者サッカー、聴覚障がい者サッカー、脳性まひ者サッカー、視覚障がい者サッカー、電動車椅子サッカー、精神障がい者サッカー、そしてアンプティ(切断者)サッカーで、まだ全国で9チーム、80名ほどの競技人口である。
 現在この中でパラリンピックで行われているのは視覚障がい者サッカーのみだろうと思われるが、それ以外のサッカーの多くもアンプティサッカーを含めてワールドカップや国際大会が開催されるようになってきて、その発展が急速に広がっている。そのような状況が、5枚目の写真の右側の裏表紙に書かれているような言葉“サッカーなら、どんな障害も越えられる”を生み出しているのであろう。
 そして最後に、アンプティサッカーのパンフに挟まれていた1枚の紙に書かれた次のような印象的な言葉を紹介しておきたい。「ある選手はそれまでの俯きがちの日々から前向きな姿勢を取り戻し、ある選手は義足を隠すため躊躇していた半ズボンを履くようになり、ある選手は再びサッカーができる喜びで生きる希望を取り戻し、ある選手は自らの命を絶つことがいかに愚行であったかを思い知る。 ファイル 253-5.jpgそして選手の全員が気付く。五体不満足は障がいではなく個性であることに」。そしてもう一言、「最後にある選手の言葉をここに紹介します。あなたにとって『アンプティサッカー』とは何かとの問いに対してこのように答えました。『あの日失った私の脚です』」。
 こう書きながら、紹介しかできない私がいるのは残念である。なお、当日協会の最高顧問であるセルジオ越後氏が来場されていた。また、すべての写真はクリックで拡大してご覧ください。

追記:
 このブログを書いていた10月5日に日本経済新聞のコラムにアンプティサッカーのことが書かれていることを息子から知らされた。そこには私が感じた驚きとともにもっと踏み込んで、「アンプティサッカーの選手は備わっているものを磨くことで、障害をマイナスにしない。健常者の選手とは全く別の表現方法で見る者の心を動かす。そこに自らの喜びを見出し、誇りを抱いている」と記されていた。

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