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夢から引き出されてくる遠い昔・・・

 歳をとるといろいろ困ることが出てくる。目は白内障が出てきてまぶしくなってきたし、耳も怪しげで聞き直すことが多くなっている。また、ものをよく落とすようになってきている。薬の錠剤のような小さいものはもちろん、特にこの時期も関係するが箸が指から滑るし、茶碗も滑って困る。明らかに身体の分泌機能が落ちてきて指先の湿り気が無くなっているためのようである。熱い汁ものが入っているお椀を持つときにはずいぶん気を使う。静電気で動くタブレット端末などの指での操作も、呼気で湿気を指に与えたほうが操作は一段とやりやすい。同様のことだろうが、夜中には口が渇くし、朝起きた時に目がねばねばして瞼を開くのに苦労することも多い。また、ふとしたことからわかったのであるが、若いころのように口笛が吹けない、というかまるで音が出せないのにはびっくりした。ただこれについては唇を濡らすことと、歳をとると下顎が後ろに下がることから下顎を前に出し気味に吹くと音が出やすいことが徐々に分かってきた。
 さて、今日の話は夢から出てきた自分の弱点?についてである。最近夢をよく見るような気がする。楽しい夢なんてほとんどなく、どちらかと言えば、うっとうしい話ばかりである。数日前の朝方にもある夢を見ていた。それはこんな話である。ある若い人で、大阪で私と共同研究していた人がなぜか夢に出てきて、いろいろな話をしていた時に突然次のようなことを言い出したからびっくりした。彼は、「ある人が私にね、あなたの仕事には三重県の匂いというか、三重県にいた背景が感じられないんだよ」と言い出した。ただそれだけのことであるが、そこで私は、彼は三重県人ではないのでその話は私のことを言っているな、と感じることになった。
ファイル 259-1.jpg それからさまざまなことを夢の中で感じ始めたような気がしつつ覚醒してきた。そして徐々に頭が鮮明になりその後の展開を記憶した。確かに長い間住んだにもかかわらず私は三重県のことをほとんど知らないことに引け目を感じていたことを思い出した。三重県の地図(1枚目)を出してあるが、私が5歳から17歳まで住んだのはちょうどほぼ真ん中にある多気郡大台町(かっては三瀬谷村)で赤い“多気郡”の字の下あたりである。地図の左下から右上に細長い多気郡は大台町、多気町、明和町からなり、私が住んでいたのは大台ケ原への入り口の三瀬谷駅からわずか200mほどのところであった(拡大版である2枚目の写真の左下の、JRが南に急カーブしているところに三瀬谷駅が記されている)。そして近くには大杉谷(大台ケ原)などを水源とする美しい宮川が深い渓谷を形成しつつ西から東に流れ、それが伊勢湾に流れ出していた(今はダムがそばにできて昔の面影はない)。その三瀬谷から大杉谷のあたりは父方の出身地で父の親戚はその宮川の流域に分散していた。したがって子供の時の夏休みなどに動き回るのはもっぱら大杉谷方面の親戚を目指すだけで、日常的には自分の家の周りの田んぼ、畑、山や川に限られ、学校や家では暇があれば野球、また昆虫採集に没頭していた。愛知県、岐阜県、滋賀県、京都府、奈良県そして和歌山県など多彩な地域に接する三重県に居ながら、その利点はさっぱり生かせなかったのである。
 後に高校に進んだ時には高校の野球仲間から「康っさんよ、あんたホンマに山猿だな」と言われたほど山奥から一歩も出ずにいたのである。そんな私を気遣ったか、あるいは父の出身中学であり、かつ一番上の姉の出身女学校がその前身であったからか、あるいは確かにレベルの高い高校に入れて医者か薬剤師にしたかったのかはわからないが、父の一声で“山高に行け”となった。そんな訳で当時の汽車で朝は6時前には駅にかけ込まなければならないほど遠い宇治山田高校に進学する羽目になった。2枚目の地図の左下の紀勢本線三瀬谷駅から毎朝汽車に乗って東北東に向かい、多気駅から参宮線で東に向いて宇治山田駅(今の伊勢市駅)までの旅である(松阪駅は多気駅の北2つ目の駅である)。当時は厳しい学区制があり越境入学になるので、幸い宇治山田市に嫁入りしていた姉の家に寄留という小細工をしたのはもちろんである。また越境を正当化するためになんと中学3年の冬の3学期から市内の厚生中学校に転校までした。おかげで、あのアテネオリンピック女子マラソンの金メダリスト野口みずきの先輩になったのである。
 そんなことで往復に汽車で4時間近くを毎日費やし、後に野球部に入ったこともありほとんど宇治山田市(今の伊勢市)から外に出ることはなかった。だから、伊勢神宮には何度もお参りはしたが、なんということはないが、圧倒される存在ではあった。というわけで、三重県の中部の東西の狭い地域だけは知っていても、南部の尾鷲方面や中西部から北はほとんどまったくと言ってよいほどノーマークであった。
ファイル 259-2.jpg さて、大学はどうするかと考えた時、3歳年上の兄が大阪に居たので大阪の大学を受験したが、案の定落ちた。名古屋や東京の大学も受けたがことごとく落ちた。勉強せずに野球ばかりやって遊んでいたのだから当たり前で、1浪である。そこでやむなく予備校入りであるが、兄が薬剤師になって名古屋にいたり、姉が結婚して名古屋にいたこともあり、いまや大手だが大手になる前の河合塾に入ったのである。上手に教えるものだと感心しながらそこで一応勉強はしたが、それは午前中だけで、午後には下宿の近くにあった大学のグランドを勝手に使ってランニングをして体調を維持した(ここまで書いてきて、昔も自主的にランニングなどをしたことがあったんだ、と納得!)。要するに、いつまでも親兄弟の後について歩いていただけだったんだ!
 翌年、幸い名古屋の大学に合格した。いまでも覚えているが、8科目の試験があって1,000点満点の621点だったように思う。昔はその程度で合格できたのである。入学後それなりに努力して大学院にも進み、職員になることもできた。思い出すのはその頃のことだ。その時代は世界的な科学技術の発展を謳歌したと言われていたが、一方世界的に見て大学が本当に大学の果たすべき役割を果たしているかと厳しく断罪されていた時代であった。また、同時に日米安全保障条約も絡んで社会全体が厳しい雰囲気に包まれていた。
 その時期にはいろいろなことがあった。その最たるものはアポロ11号によってニール・アームストロング船長が人類最初の月への一歩を記録したことであった。あるいは筑波での科学技術博覧会や大阪万国博覧会も行われたが、私は月面着陸のライブのテレビ中継も断じて観ることもなく、博覧会へ子供を連れてゆくこともなかった。私としては「いまはそんなことをしている時期ではない」との強い決意を持っていたことを思い出す。
 この時期にもう一つ私がかたくなに拒絶し続けたことがあった。それは外国留学の勧めの拒絶であった。当時外国留学は将来の昇格にハクをつけるという意味が強く意識されていて、若手を売りに出す際に海外留学経験は効果的なほめ言葉にもなりうるものであった。しかし、私の頭の中は“今はその時期ではなくやるべきことは他にある”という考えがあり、同時に、“留学する必要があるときには自腹を切ってでも行く!”という決意のようなものがあった。当時は確かに難しいことを言わなければ外国の相手研究室から十分な生活費を得ることはそれほど難しいことではなかったし、またフルブライト奨学制度もあった。こちらを現職のままで行けば、帰国後は家の一軒も建つなどとまことしやかに語られることもあった。この留学拒否は、私が山猿で外に出るのを怖がったのでは?というような側面とは全く違う理由のためであった。
 しかし、私が40歳代に入ったころ最初で最後の仕事の方向転換を強く望むようになり、ついにアメリカの研究室に留学する腹をくくった。しかし残念なことには相手側が計画していた私への給料支払いのためのファンドが下りなくなり、私は自腹を切らなくてはならない羽目に陥った。でも、“留学する必要があるときには自腹を切ってでも行く!”と啖呵を切っていた私としては当然のように自腹を切ることを決断した。当時1ドル280円台だったと記憶するが、親子5人が生活する家をカリフォルニアで確保するためには1000ドル近い家賃が必要で、そのためだけにこちらで受け取れる給料でも全く不足するほどであった。そしてたった15ヶ月の滞在で巨額の借金を背負うことになってしまった。その時の私の決断の結果、その影響が現在も尾を引いていると考えると、家族に大きな経済的苦痛を与えたものだといまだに気になっている。でも、全く違う地球の裏側を見てカルチャーショックを受け、いくつかの新しい視点を手に入れたことは事実であった。
 帰国後元の大学に居づらくなったこともあり新しい仕事での新しい職場を求め、50歳代になってやっと初めて大阪に移動することになった。それまで尾張の名古屋にいても名古屋以外にはほとんど動き回らない生活を続けていたし、もちろん三河については全然訪れた記憶がない、全くの“出不精”で狭い範囲しか見ることができない生活を続けていた。そんな私が偶然にも古くからの遺産の宝庫である京都、奈良などにきわめて近い場所に住み、そんな遺産への興味を引き出すことになったのはうれしいことであった。何故かと言えば、私は大学受験の時から社会の学科としては日本史、世界史は覚えることが嫌で一切相手にせず、政治・経済、人文地理を選んできたので、関西地区に潜む歴史の遺産は私には初めて知ることばかりであった。さらに幸いなことにダイエットをきっかけにランニングの楽しさも覚え、新しい生き方を切り開くことができるようになった。
 そして、20年以上にわたった関西での生活を打ち切り、70歳代半ばになって子供たちが集結している関東で暮らすことになった。それはまだ始まったばかりで、これからどんな生活が待っているか分からないが、しかしそれをできるだけ楽しいものにしたいと願っている。自分の生活範囲を極めて狭く押し込めがちだった生活スタイルを、そろそろ少しずつ打ち破りたいと希望している。いずれにせよ、子供のころの狭い行動範囲からほんの少しずつだがそれが広がってきたように思う。そのことをポジティブに考えて前に進んでいきたい。
 さて、こんなことを書きながら、ふと今回のブログはいったい何を書こうとしてたんだろうか、と考えている。
 私がブログを書いている理由は、自分でもよくは分からないが、自分の考えていることや、自分が歩いてきたことを整理するためらしいと感じている。また、自分の知らない側面への興味を少しでも自分の目に見えるようにするために書いているような気もする。私のモットーは、“どこにでも面白いことは転がっている”である。だから、私のブログには自分の宗教感などとは無関係に神社・仏閣などの題材が何となく多いのもその表れかもしれない。分からないことが出てくるとすぐに調べたくなるのである。調べるとそれを何とかまとめておきたくなって書く、そんなことを繰り返している。今更そんなことを調べて書いてどうなる、とお読みになる方は思うでしょうが、そう思う方は遠慮なくすっ飛ばしていただきたい。これは私自身のために書いているのだと私自身が思っているのだろうから、それが一番ありがたいのである。いつものことだが、写真はクリックで拡大してご覧ください。

世界の大国米国に、理解しがたく信じがたい大統領が登場!

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 個別のことについてはいろいろあろうけど、全体として理解しがたく、信じがたい。国内外に向けて“恫喝”に徹した政治ができるのは、米国が巨大であるからである。“民主主義国家”であっても巨大であれば恫喝政治ができるのだと世界に見せつけていて恐ろしい。世界大恐慌、リーマンショックなどを繰り返してきた大国は、再び世界に自らの失敗のツケを払わせるのか。その代償はいずれ自ら払わなければならない。これ以上なにも言いたくない。

2016年の暮に素晴らしいプレゼントを戴きました

ファイル 258-1.jpg テレビのいつもの天気予報士は、年末は晴れの良い天気が続くとのうれしい予報を流し続けていました。来年も今年並みの体調は維持したいとの思いでトレーニングのため年の暮29日の昼前に小田急相模原駅、相模原病院から相模大野を経て南に向かって緑道を走っていました。そして国道50号線との交差点に出て赤信号で止まった時のことでした。ふと西の方の山並みをびっしり絡み合ったような電線の向こうを見たときでした。雪をかぶった富士山のような山頂が垣間見えたのです。このあたりで富士山が見えることは誰からも聞いていなかったので、ファイル 258-2.jpg信じられない想いでした。近くを歩いておられた年輩の方に聞いてみると、“あれは間違いなく富士山だよ”と言われてびっくりでした。
 びっくりした私は家に戻ってシャワーを浴びてからカメラを担いでその場所に戻ってみたものの、私が見た時の鮮明な山の姿はすでに薄れ、遠くの山の見え方の難しさを思い知らされました。でも、その時のわずかな写真が1枚目の写真です。
 その後大晦日までの3日間(実は正月5日まで)この地方は好天に恵まれ、様々な場所から雲が山頂を隠すのと競争するかのように富士山の写真を撮り続けました。驚いたことがありました。ファイル 258-3.jpgそれは、マンションの3階の私の北側の部屋の外側の手すりの間からも見えること(2枚目の写真)、さらにそれより上の階段の踊り場が最も良い撮影場所だということでした。その中で最も障害物の少ない写真が3枚目です。
 でも、調べてみるとこの地から富士山までの距離は、Google Mapのシステムを使って測定してみると直線距離でおおよそ67 kmもあり、その間には大山や丹沢山系があり、角度が悪いとその山々に阻まれ、近すぎてもかえって見られず、遠すぎれば大きく見ることは難しい。ファイル 258-4.jpgそのように考えると案外この地は富士山を観るに絶好の場所なのかもしれません。
 幸い私に富士山の存在を知らせてくれたのは、冬の乾燥した、つまり水分が少なく、風がある程度あってチリが空中に漂っていないなど光の散乱を引き起こさない時期の天候でした。しかし、30、31の両日とも風が無くなったにもかかわらず空気が澄んでいたので撮影が可能であった。そんな幸運が積み重なった3日間に撮影した写真を、同じような写真ばかりであるが、できるだけたくさん皆さんに楽しんでいただきたい。4枚目の写真は、左上の小田急江ノ島線の跨線橋から聖セシリア学園とマンションの間に見える富士山や、その下の縦長の写真には、たまたまカラスが飛んで映り込んだ写真を含め様々な見え方をする富士山。5枚目は、夕暮れ時の富士山である。ファイル 258-5.jpgなお、富士山の手前の山々は多分丹沢山系で写真では見えないが左の方に大山がある。
 遠いけどこれほどきれいな富士山を見せてくれたのは、病気にも負けず、体調不良も克服してトレーニングを積み、まだしばらくはフルマラソンを4時間台で走りなさいという激励だと思って今年もまた頑張るつもりである。
 なお、晴れ渡った空に雪をかぶった白い山頂を見やすくするためにPhotoshopというアプリを使って多少の調整をやらせていただいたことをお知らせしておきたい。写真はクリックで拡大してご覧ください。使用したレンズは、Canon Zoom Lens EF 55-200mmである。