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緑道の春の花トンネルを走る気持ちよさ!

ファイル 265-1.jpg 5月となれば花の種類もガラッと変わってしまったが、それでも今度は緑に映える緑道は素晴らしい。私はかって、この相模原台地の緑道緑地のかなりの部分はかって水田開発のために作られた給水路が、市街地への転換で役割を終えて市民のためのウォーキングやランニング、そしてまたサイクリングのための道に成り代わったものだと書いた(http;//www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=254 )。ありがたいことにその緑道を私は週に数回トレーニングやリフレッシュのために使わせていただいている。
 そして上のタイトルに書いたように、春になるとこの緑道の脇には様々な美しい草木が一斉に花を開き、私たちを楽しませてくれる。自治体がきちんと管理している部分もあるが、その多くは市民の皆さんが自主的に管理されているものが多く、また、その緑道の傍に住まいを構えておられる方々が様々な草木を植えてそこを通る私たちを楽しませてくださっているらしい。ただただありがたいと思う。今回は4月のはじめ2日にわたってカメラを担いで自転車で走り回って写真を撮らせてもらった。写真の整理の仕方が難しくて撮影した写真の一部分しか紹介できないのが残念であるが、そのわずかでも楽しんでいただければ幸いである。
ファイル 265-2.jpg さて、どのような道筋を走っているかを簡単に説明したい。私は国道50号線に近いところに住んでおり、そこから50号線を西に1キロ走り、そこから北に向いて小田急相模原駅(いわゆる“オダサガ”である)そばを通って国立相模原病院に向かう。1枚目の組写真の上2枚の左1枚は、私の窓から見える聖セシリア学園の大きな満開のソメイヨシノの木で、右の黄色い花は道路際に咲いている、私の大好きなキイロハナカタバミである。国道を離れてオダサガに向かう右側には、高校のスポーツ界で名高い東海大相模高校がある。下の写真は、その野球部が練習する室内練習場で、絶えず金属バットからの快音が聞こえている。
 そこから1.5キロほど行くとオダサガである。その交差点には面白い標識があり、“サウザンロード入口”とある(2枚目の組写真)。これは1キロの直線の商店街で、だからthousandという、大変人通りの多い元気な商店街である。私はいつもそこを走り抜ける、と目の前に国立相模原病院が目に入る。そこまでおよそ4キロで、ファイル 265-3.jpgそこで少し休憩してから東に向かった一般道を2キロ弱走ると右下の写真にある相模大野の御園二丁目の交差点に出る。ここが私が走るつきみ野に至る約5キロの南行き緑道の入り口である。
 あとはもうただただきれいな花いっぱいの幅2-3メートルの緑道を気持ちよく走るだけである。この台地は南行きは必ず少しだけ下っているから何とも快適である。3枚目の組写真は、その緑道が花のトンネルのようになっている写真である。何種類かのサクラやシダレザクラ、それにツバキの大きな木もたくさんある。4枚目の組写真は、少し雰囲気の違うシダレザクラと緑道傍の民家のおじさんが栽培しているかわいいシキザクラ(四季桜)の写真2枚である。この四季桜のおじさんはいろいろ楽しい話を聞かせてくれた。
 最後の5枚目の組写真は、迷いに迷ってこのような構成になってしまった(実はこのブログは写真は5枚しか掲載しないようになっているので・・・)。左上の2枚はいずれもモモの花で、この界隈には濃い赤色や白のモモの木が非常に多いのが印象的である。ファイル 265-4.jpgきれいなシダレモモの花もあったがなぜか選んでいるうちにはずれてしまった。それはともかく、左上の2枚目の写真には白い花の中に赤い花が混じっているのが面白い。モモの花はもともとはアントシアニンの赤い色素を持つものが普通であるが(左上の写真のように)、時にはその色素の合成がうまくいかない突然変異が起こり白い花をつけるものが現れることが知られていて、それはどうやらトランスポゾンと呼ばれる“飛び回る遺伝子”が原因となっていることが分かってきている。
 このようなことがモモでどこまでわかっているかは遺伝子に詳しくない私はよく知らないが、ウメなどではそう言われているように思う。もともとこの遺伝子ははるか前の1940年代にトウモロコシでマクリントックが発見し、1983年にノーベル医学・生理学賞を受賞して知られるようになったものである。このタイプの遺伝子は染色体内を飛び回ることで知られ、それが飛び込んだ領域の遺伝情報は改変される可能性が高く、モモの場合には赤い色素を作る遺伝子がダメになってしまったと考えられる。ファイル 265-5.jpgこの種の遺伝子は人などの遺伝子にも大量に含まれていることが知られ始め、ヒト遺伝子の解明が進んでいると喜んでいるが、むしろ私たちの遺伝子にはわからないことが山のように存在していることが分かってきたと考えるべきなのであろう。分かってくるとヒトの遺伝現象に何が起こるか分からない戦慄さえ覚える。
 さて、そんな話はいい加減にしておかないと話が終わらなくなってしまう。要するに、花いっぱいの緑道を走るのは本当に気持ちがよいという話である。写真の左下と真ん中下はツバキの花である。また、右上の写真には左側にコブシ、そして右側にはちょっと見にくいがシモクレン(紫のモクレン)が緑道の両側に咲き誇っている。右下にはシモクレンの一輪だけをクローズアップした。
 実はこの何倍もの写真を撮ったのにもかかわらず、ここに出すことができないのは残念である。この近くにお住まいの方はぜひ一度この緑道を訪ねられることをお勧めしたい。

温暖化対策の全面見直しと合衆国トランプ新政権

ファイル 264-1.jpg 私は今年1月末に「世界の大国米国に、理解しがたく信じがたい大統領が登場!」(http://www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=260)との短いブログを書き、その最後に“これ以上なにも言いたくない!”と書いた。その気持ちは何も変わってはおらず、どんどん文句を言いたいことが増えてくる。シリアへのトマホークによる爆撃、そして北朝鮮との挑発ごっこなど危ない火遊びの連続である。北朝鮮はミサイルを発射実験をしたり核実験をしたりすればそれは挑発と受け取られ、アメリカをはじめとする国連安全保障理事会の面々は何をしてもそうは言われることはない。彼らは第二次世界大戦の戦勝国であり、いま敢えてやらないのはすでに十分に核実験もミサイル発射実験もやってしまっているからである。日本はアメリカの傘の下にいてロケット発射実験をしても何も言われないが、きっとアメリカは日本の技術を警戒しているはずである。まあ、いまはその話ではない。
 ここに一枚の縦長の新聞記事を掲載した。お読みいただければ幸いである。それは4月28日の読売新聞朝刊の記事で、ワシントン支局の記者・三井誠氏によるものである。冒頭に次のように言う「『オバマ政権が自分を盗聴した』など、証拠もなく独自の主張を展開するトランプ氏の姿勢は、科学の分野でも際立っている。そうした科学軽視の典型例が地球温暖化への態度だ。トランプ氏は『でっち上げ』と主張するなど一貫して疑問視し、3月28日には、オバマ前大統領が進めた温暖化対策を全面的に見直す大統領令に署名した。政権内には『温暖化研究は税金の無駄(マルバニー行政管理予算局長)という声もある」。今回の記事は、アメリカの研究者が研究結果の基づくことなく政策を進めるトランプ氏の姿勢に猛反発し始めたことを伝えるものである。そのことについて一言言いたくなったのである。
 このようなトランプ氏の主張は大統領選挙中から聞こえてはいたが、上の大統領令への署名によって明るみに出たのである。それにしても予算教書の骨格では、米環境保護局(EPA)の来年度予算を31%削減し、職員の2割にあたる約3200人を削減するとし、また世界最大規模とみられる米国立衛生研究所(NIH)の予算も18%減となる恐れがあり、医学分野につながる基礎研究に重大な影響が及ぶ恐れがある。このような新政権の姿勢は他の多くの基礎研究の分野にも多大な影響をもたらすと想像される。
 しかし、考えてみればアメリカは数々の分野で自国第一主義をちらつかせ、それを実行していたことは明白である。私の記憶にあるその最たるものは、京都議定書である。京都議定書とは、1997年12月に京都市の国立京都国際会館で開かれた第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)で同月11日に採択された、気候変動枠組条約に関する議定書である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8 )。アメリカはこの議定書に合意しながら、アメリカ合衆国政府は産業界の強い反対に会い批准することを放棄したのである。世界一の経済大国であるアメリカがこの問題を解決しようとせずに誰が解決できるのか!また、国連分担金の支払いもアメリカはたびたび拒否、あるいは拒否をちらつかせる態度を見せ続けている。結局、もともとアメリカは“アメリカ ファースト”なのであって、それに特に変化があったわけではないのである。ただトランプ氏があまりにビジネスライクに振る舞い、メディアとの、つまりはアメリカ国民との、そして世界中の人々との会話を真面目にしないために(SNSだけだ!)より極端に見えているだけなのであろう。もちろん、だからトランプ氏はそれでいいんだとは全く思わないし、それは困る!と言いたい。もしトランプ政権が今回の報道通りに地球温暖化問題を放置するのであれば、それは地球の将来を見殺しにする犯罪につながると言うべきであろう。
 私の本棚には「アメリカの戦争」(山崎雅弘著、学習研究社、2004)がある。これ以上戦争をやらないでもらいたい。私がこのように書くと、この書き物はあらゆる手段で探知され、記録され、私の素性はどこかで明らかにされているのであろう。最近発表された日本に対する13編のスノーデン文書(http://www.excite.co.jp/News/society_clm/20170426/TokyoSports_678465.html 、XKEYSCORE)はそのようなことを強く思わせるものであり、アメリカ戦艦の自衛隊艦船による護衛や安倍政権が強硬に推し進める「共謀罪法案」や憲法改正論議などを考えると世界の中の日本もある一点に向かって突き進んでいるように思う。嫌な世の中になったものだ。奇遇であることを願いたい。

私に新しい何かを迫った京都マラソン2017

 私にはこれまで京都でのハーフマラソンは縁起がよかった。実は京都で最初のハーフを走ったのは2001年で、それまではこのレースの2時間という制限時間の壁がとても恐ろしく出られなかったのである。そして64歳時の2004年3月に今でも破ることのできない私のハーフの最高タイム1時間41分13秒を出すことができた。いまから考えてもどうしてこんなタイムが出せたのかはわからないが、この京都では何度か40分前半のタイムを出せ、私に自信を持たせてくれた京都はとても相性が良いのである。
ファイル 263-1.jpg そんな京都をフルマラソンで走る機会はこれまで2度あったがいずれも故障でキャンセルしており、今回3度目の正直と勢い込んで京都にやってきた。昨年11月神戸マラソンを走った後は順調に調整できたと思っていた。ただ、こちらに引っ越してからはなかなかジムでのトレーニングになじめず、ほとんどロードを走るだけとなり、筋トレなどが極端に不足していることは気になっていた。しかし、一応目標とした月間150キロほどは走って調整してきたつもりであった。
 レース当日の早朝7時過ぎ、西京極の野球場のネット裏スタンドに入って着替えをすることにした。この野球場は、私が西京極に近い大阪・高槻にいた時に夏の高校野球・京都大会の試合を何度か観戦に来たこともあり、落ち着いた気分でグランドを眺めていることができた。ただ、前夜の小雨の後相当冷えたらしく、シートに溜まった水がカチカチに凍りついていたこともあり、朝日を浴びてはいたが底冷えのする朝であった。着替えてから荷物をトラックに預け、トイレで用を足してからウォーミングアップをしてスタートに備えたが、残念なことにトイレの数もかなり不足気味で、さらにアップのためのオープンスペースが少ないことから他のレースの会場に比べて少し窮屈な感じを受けた。
 陸上競技場のトラックに整列して9時にスタートしたが、トラックも氷の解けた水で濡れており、競技場を出てしばらくの石畳も濡れていて用心深く走ったのを覚えている。転倒が一番怖いからである。1枚目の写真は今回のコース図の写真である。写真はかなり拡大してご覧いただきたい。競技場を出てから嵐山方面に向かい桂川の堤防道路を北西に向かい渡月橋を左前方に見ながら右折して天龍寺の方向に向かうコースを取った。このあたりでは、前方に見える山々に霧がかかっていかにも京都と思わせる雰囲気を感じることができた。
ファイル 263-2.jpg その後、一条通を東に向かって広沢池、仁和寺、龍安寺を左に見て走るにしたがってアップダウンの厳しさを実感することになった。実はコース図の写真の左上の方に黄色で高低差が表示されています。私がこの図を見て感じていたことは、いったん10キロ手前までで坂を上りきってしまえば、あとはだらだらした比較的平坦なコースと勘違いしていたことでした。よくよくその図を見ると、決してそんなことはなく、25mほどの高低差のあるアップダウンがいくつも続いていたのです。その時点ではそんなことを考えてる余裕は最早ありませんでした。14キロ時点の馬代通から上立売通へ曲がって入る地点で、あらかじめ示し合わせたかっての職場の先輩を見つけることができ、ほっとして上りを意味する北に向かって順調に走っていきました。その順調さは、2枚目の写真の5キロごとのラップによく表れています。このあたりの賀茂川沿いの道路は、かって京都ハーフマラソンを走った時のコースのはずで、十分なじみがあり、穏やかな気分で走れたように思います。
 その後、賀茂川沿いを下りながら北山通りに入り、さらに府立植物園の中を巡って再び賀茂川の右岸を走ることになりました。実はこの29キロあたりからの賀茂川(鴨川)河川敷コースは私にはかなりきついコースでした。その理由は、狭く、またコンクリートの石畳や土の部分が混在していたことや小さな起伏がたくさんあることでじりじりと疲れを感じ始めてきました。また、目がしょぼしょぼし始めたことと、非常に疲れると身体が左に傾いて左に斜行する癖が出始めたので、あまり無理をしないようにとどこかで歩くことを決め、30キロあたりでしばらく歩き始めてしまいました。3枚目の写真は、私のGPS時計でのデータで、黄色いペース(分/キロ)の線が上に向かって急に上がっており(ペースが落ちている)、紫色の心拍数が急に下に向かって下がっている(スピードが落ちている)地点が最初に歩いた地点を表しています(なお、11キロ手前の同様のデータについては思い出せない)。その後32キロ地点とそれ以降に何度か歩き、40キロまでの10キロが私にとっては地獄のような時間でした。ファイル 263-3.jpgこの間、元気を出すために給食として用意されているミカン、パン、好きな生八つ橋などに手を出すのですが、それらを一口口に入れるだけでまともに食べられず、手に持っているだけで口からもぽろぽろこぼしている有様でした。こんな自分を情けない思いで見ていました。疲労の極致とはこんなことを言うんでしょうね。
 今出川通の最後の折り返しで、係の人に“あと3キロ、下るだけやで!!!”と大きな声で励ましを受け、最後まで間違いなく行けることを確信して気を取り直し、走り始めました。それでも、京大に近い東大路通で一度歩きましたが、あとは我慢し続けました。そして、東大路通から何度か左右に曲がって平安神宮の大鳥居の真下に入ってゆくのですが、まっすぐに走れず、左に斜行してやっとゴールの左端に入ってゆくことができました。ゴール後、荷物を受け取り更衣場の床に座り込んだまま貰ったドリンクも飲めず持っていたバナナも食べられず、一緒に走った仲間や応援に来てくれた方々とメールで連絡を取るだけで1時間半何もできませんでした。でも、2時間半後にやっと三条京阪まで歩き、その方々とおいしいビールを飲み“給食”を食べ、やっと生き返りました。タイムは4時間52分25秒。目標には10分以上届きませんでした。
 一昨年の神戸、昨年の長野と神戸、そして今回の京都マラソンを振り返ると、加齢が進む中4時間後半のタイムを脚力で押し切れる時代は終わりつつあるのかもしれないと感じている。もちろんトレーニングを積んで脚力を維持・強化することを考えているが、その努力で42.195キロというマラソンのなが~い距離を克服するのはとても難しい。それよりもどこまで精神的に頑張れるか、我慢できるにかかっているようである。その意味からすると、この4つのフルマラソンでは、必ずしもタイムはよくないが、しかし最後まで走り切りたいという精神力に支えられている、つまり、我慢する力は失われていない、そんなことを感じている。もうしばらくはがんばれそうである。
 しかし、問題は今回思いのほか早く“斜行する”悪い癖が出てきたことである。つまり、体の軸が不安定化しているのであろうか。私はこのブログの最初に、最近筋トレが不足していると書いた。今回早い段階にそれが表れたことが何によるのかはわからないが、脚力ではない筋力、特に体幹の筋力が不足しアンバランスになっているためと考えることもできる。これから1か月半、それを明確に意識して強化し長野に臨んでみようかといまは考えている。