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冬の出雲を旅する (2)出雲大社とその周辺

ファイル 262-1.jpg 出雲大社には10年ほど前に一度訪れたことがあるが、今回のように出雲大社やその周辺の神社をいくつか訪れたことは初めてで、いろいろなものを見学し、帰ってきてからも様々な書き物を読むチャンスがあって収穫の多い旅ではあった。今回はそのあたりのことを書いておきたい。まずはその出雲大社についてのWikipediaの記述を簡単に紹介したい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE )。
 「出雲大社(いずもおおやしろ)は島根県出雲市大社町杵築東にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は『いずもおおやしろ』(歴史的仮名遣いでは『いづもおほやしろ』)であるが、一般には主に『いずもたいしゃ』と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一『大社』を名乗る神社であった。」
 また、この出雲大社の「祭神」については次のように言う。
「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。1142年(康治元年)在庁官人解状に『天下無双之大廈、国中第一之霊神』と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。ファイル 262-2.jpgそのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。」確かにこの出雲以外では11月は“神無月”であるのに対し、この出雲では“神在月”と呼ばれるようである。
 私のように自然科学を仕事としてきた人間にとっては、この出雲地方の神々の正体をどう感じたらよいのかがなかなか問題で、そう簡単に入り込むことは難しい。旅から帰って様々な資料を読んでは見ても、出雲大社の創建についても、また何を祭っているか、つまりは「祭神」についてもその移り変わりが激しいことが分かった。たとえば、平安時代前期までは大国主大神であったが、神仏習合の影響下で中世のある時期から17世紀までは八岐大蛇退治で名高い素戔嗚尊(須佐之男命)、その後、また神仏分離・廃仏毀釈政策の影響下に古事記や日本書紀の記述に沿って大国主大神に戻ったとされる(Wikipedia)。そのように歴史的にも様々な見方が挙げられていることが分かってきたが、考えようによってはそれはきわめて当然のことで、近世から現代においても、いや第二次世界大戦以降においても神話ならずとも歴史(歴史書も)は常に為政者によって都合よく主張され、書き換えられてきているからである。ファイル 262-3.jpgしたがって神社・仏閣などの創建以降の歴史もそう見るのが健全であると私は思う。
 そうは言っても、この出雲地方に伊弉諾大神、伊弉冊大神、天照大神、月読命、素戔嗚尊(須佐之男命)などの兄弟とその子孫とされる大国主大神などを祭神とする神社が多数存在することは事実である。出雲大社とともにそのいくつかを今回めぐることができた。最初の写真は、私が最も気に入っている写真で、早朝と夕刻の境内に入ったあたりから南に向いて最初の大鳥居の方向を見たものである(拡大してご覧ください)。手前が境内である。三瓶山は見えていないが右の方にあり、遠くの正面に見えているのは多分比婆山連峰かなと思うが正確ではない。その山々から霧、あるいは雲が立ち上がるようにも感じられ、この出雲の枕詞でもある“八雲立つ…”雰囲気を感じることができる。このようにきれいに見えるのは、ここが島根半島の西端に位置するからであろうか。
 2枚目の写真は、出雲大社の社殿群を集めたものである。私が今回学んだことの一つは、屋根の上にたすき掛けの形で乗っている“千木”の尖った先が上を向いているのが男性の神を祭っている証で、横を向いているのが女性の神の場合であるということである。でも、祭神が変わることがしばしばあるのですべてそうであるとは言い難いようである。
ファイル 262-4.jpg 3枚目の組み写真では左上が佐太神社、右上が八重垣神社、下2枚は神魂神社(かもすじんじゃ)のものである。佐太神社には社殿が3つ並立しており、極めて珍しいとされる。祭神も12柱(神の数は柱と呼ぶようである)、猿田彦命と関係があり、出雲大社と並ぶ品格という。八重垣神社については、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで姫と住居を構えた地に須我神社が創建され、そのご幾度かの変遷を経てこの神社となったと言われる。縁結びの神とされる。下2枚は神魂神社であるが、上に述べた千木は尖った先が横に向いていて女性の神を祀っていることを示している(拡大してみていただければ分かると思います)。社伝によれば伊弉冊大神(イザナミノオオカミ)が主神である。
 4枚目の写真は、左上が上に述べた和歌を詠んだと言われるところでそのため和歌発祥の宮と言われる須我神社である。左下は素戔嗚尊(須佐之男命)がこの出雲の最後の開拓地であるからと地名にしたとされる須佐の神社である。右上は、出雲大社の海寄りを10分ほど車で走ったところにある日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)で、ファイル 262-5.jpg写真が少ないが山の傾斜を巧みに使った大変美しい神社で、その少し奥に日本で一番高いと言われるきれいな灯台がある。それが右下の写真で、建設後100年以上経つがいまだに現役である。
 最後に、出雲の神話の中心にいる素戔嗚尊が悪さをして高天原から追い払われてこの地に降り立ち、心を入れ替えたか八岐大蛇に食べられそうな娘櫛名田比売(クシナダヒメ)を救う活躍をする石見神楽を宿舎で演じられるのを観ることができた。主人公が八岐大蛇に強い酒を飲ませて酔わせ、それを太刀で退治した時その尾から出てきた剣を得た。それが後に草薙の剣と言われるものである。その5枚目の組写真は十分ではないので、その雰囲気だけでもお楽しみください。
 今回の旅の後、多くの方が書かれたレポートを読ませていただき、勉強させていただいた。そして、神話の世界と現実の姿とのすり合わせの難しさと、時にはそのロマンも感じることができた。その神話に様々な説が存在すること自体は健全であると最初に書いたが、2000年に発掘された巨大な柱も「島根県古代文化センター」で見ることができた。これは巨大な古代社殿の柱であるとも報じられたが、いまはどちらかと言えば中世1248年造営の本殿の遺構だと考えられているようである(前傾のWikipedia)。これからも建設的な議論が積み重ねられることを期待したい。
 最後に、出雲でいただいたカニとのどぐろとそばは美味しかった。

冬の出雲を旅する (1)足立美術館

ファイル 261-1.jpg ひとつ前の記事(記事番号No. 259)「夢から引き出されてくる遠い昔・・・」に書いたように、私の生活圏はきわめて狭いものであった。そんなことを知ってか知らずか1月の中旬に息子が私たちを出雲の国への旅に招待してくれた。大雪が降って飛行機が飛ぶのか飛んでも空港に降りられるか不明の中、全く幸運なことに無事出雲空港に降り立つことができて、多くの楽しみを得ることができた。その中ではもちろん出雲の国つくりと関係の深い出雲大社に関わることもたくさんあるが、それは難問なので後回しにして、もっと感覚的に楽しむことができた超一流の足立美術館を訪れるチャンスを得たので、最初のブログはそれに関するものにしたい。
 私が全く知らなかった足立美術館についての基礎知識を、いつものようにWikipediaに尋ねることにした。Wikipediaは言う、
「足立美術館(あだちびじゅつかん)は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした島根県の登録博物館。運営は、公益財団法人足立美術館。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で有名。
 地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899年 - 1990年)が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したものである。ファイル 261-2.jpg質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、足立コレクションの柱となっている。大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵している。
 足立全康は裸一貫から事業を起こし、一代で大コレクションをつくりあげたが、その絵画収集にかける情熱は並外れたものであったらしく、数々の逸話が残されている。なかでも大観の名作『紅葉』と『雨霽る』(あめはる)を含む「北沢コレクション」を1979年(昭和54年)に入手した際の武勇談は有名である。
 足立美術館のもう一つの特色は、その広大な日本庭園である。庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など6つに分かれ、面積5万坪に及ぶ。全康自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたという。 専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行っていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園は国内はもとより海外でも評価が高い。 日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸である。
ファイル 261-3.jpg 米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、初回の2003年から2015年まで、13年連続で庭園日本一に選出されている。2012年のランキングは日本国内約900箇所の名所・旧跡を対象にしたもので、「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などが総合的に判断されたもので、とくに細部まで行き届いた維持管理が評価されている。2015年のランキング上位5位は、1位・足立美術館(島根県)、2位・桂離宮(京都府)、3位・山本亭(東京都)、4位・養浩館庭園(福井県)、5位・御所西京都平安ホテル(京都府)。
また、フランスの旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』や『Guide Bleu Japon』にて、それぞれ三つ星(最高評価)を獲得している。」
 上の引用は総合的な部分を省略なしに行ったもので、簡潔に書かれて無駄がなく、ありがたいことに私ごときが付け加えることがない。つまり、この引用は足立美術館についての基礎知識ではなく、その全貌である。あとは私が撮った写真でその雰囲気を少しだけでもお伝えするだけである。ただし、絵画などの貴重な展示品については写真撮影が許されないので、写真はそれ以外のものに限られる。
ファイル 261-4.jpg 当日は青空ながら雪がぱらつき、降り積もった田舎の風景の中にぽつんと立つ足立美術館の姿が1枚目の写真である。そして、私が写真にしてすばらしいと思ったのは、館内から日本庭園を眺めた時の風景で、訪れた人たちはみんなそれに見とれて動かない。その強い印象から、それを2枚目の写真として出させていただいた。もちろん、庭園それ自体の風景も素晴らしい(3枚目の写真)。その感じる理由の一つは、上の引用にもあるように『日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸である』からであろうか。借景の手法とは、中国庭園や日本庭園で見られる手法で、庭園以外の自然の山や樹木などを背景として取り込む造園法であるらしい。区写真の右上と左下の写真の遠方にはまっすぐに下り落ちる滝が見える。ただ、当たり前であるが雪が降り積もっていて雪の下緑の色彩を楽しむことはこの雪の季節には望むことはできなかった。その意味では、引用にも書かれているような多彩な庭園を存分に楽しむことはちょっと難しかったので、別の季節に訪れるのが正解であろう。なお、組写真の右下の雪が青みがかっているのは、青い空の反射だろうと思われる。
ファイル 261-5.jpg 館内を足立氏の指示通りの順序で進んでいくと、やはりその風景を“額縁”のように切り取ってみせる構造を意識して作らせたことが徐々に分かってきた。それを写真にしたのが4枚目の写真である。この額縁を使えば、参加者は様々な位置から自分の好きな風景を“絵画”として眺めることが可能になるのである。何とも楽しい設計である。もちろん、庭園と建物の融合も様々に考えられていて、その組写真を1枚最後に載せさせていただいた。
 なお、美術館の目玉である素晴らしい絵の数々については残念ながらここにお見せすることはできないが、横山大観を初めとしてすばらしい大作を存分に楽しむことができたし、素晴らしい童画も楽しめて最高であった。チャンスがあればまた訪れてみたいものである。皆さんも中国・山陰地方に旅をされるチャンスがあれば安来市の足立美術館まで是非足を延ばしていただきたい。

夢から引き出されてくる遠い昔・・・

 歳をとるといろいろ困ることが出てくる。目は白内障が出てきてまぶしくなってきたし、耳も怪しげで聞き直すことが多くなっている。また、ものをよく落とすようになってきている。薬の錠剤のような小さいものはもちろん、特にこの時期も関係するが箸が指から滑るし、茶碗も滑って困る。明らかに身体の分泌機能が落ちてきて指先の湿り気が無くなっているためのようである。熱い汁ものが入っているお椀を持つときにはずいぶん気を使う。静電気で動くタブレット端末などの指での操作も、呼気で湿気を指に与えたほうが操作は一段とやりやすい。同様のことだろうが、夜中には口が渇くし、朝起きた時に目がねばねばして瞼を開くのに苦労することも多い。また、ふとしたことからわかったのであるが、若いころのように口笛が吹けない、というかまるで音が出せないのにはびっくりした。ただこれについては唇を濡らすことと、歳をとると下顎が後ろに下がることから下顎を前に出し気味に吹くと音が出やすいことが徐々に分かってきた。
 さて、今日の話は夢から出てきた自分の弱点?についてである。最近夢をよく見るような気がする。楽しい夢なんてほとんどなく、どちらかと言えば、うっとうしい話ばかりである。数日前の朝方にもある夢を見ていた。それはこんな話である。ある若い人で、大阪で私と共同研究していた人がなぜか夢に出てきて、いろいろな話をしていた時に突然次のようなことを言い出したからびっくりした。彼は、「ある人が私にね、あなたの仕事には三重県の匂いというか、三重県にいた背景が感じられないんだよ」と言い出した。ただそれだけのことであるが、そこで私は、彼は三重県人ではないのでその話は私のことを言っているな、と感じることになった。
ファイル 259-1.jpg それからさまざまなことを夢の中で感じ始めたような気がしつつ覚醒してきた。そして徐々に頭が鮮明になりその後の展開を記憶した。確かに長い間住んだにもかかわらず私は三重県のことをほとんど知らないことに引け目を感じていたことを思い出した。三重県の地図(1枚目)を出してあるが、私が5歳から17歳まで住んだのはちょうどほぼ真ん中にある多気郡大台町(かっては三瀬谷村)で赤い“多気郡”の字の下あたりである。地図の左下から右上に細長い多気郡は大台町、多気町、明和町からなり、私が住んでいたのは大台ケ原への入り口の三瀬谷駅からわずか200mほどのところであった(拡大版である2枚目の写真の左下の、JRが南に急カーブしているところに三瀬谷駅が記されている)。そして近くには大杉谷(大台ケ原)などを水源とする美しい宮川が深い渓谷を形成しつつ西から東に流れ、それが伊勢湾に流れ出していた(今はダムがそばにできて昔の面影はない)。その三瀬谷から大杉谷のあたりは父方の出身地で父の親戚はその宮川の流域に分散していた。したがって子供の時の夏休みなどに動き回るのはもっぱら大杉谷方面の親戚を目指すだけで、日常的には自分の家の周りの田んぼ、畑、山や川に限られ、学校や家では暇があれば野球、また昆虫採集に没頭していた。愛知県、岐阜県、滋賀県、京都府、奈良県そして和歌山県など多彩な地域に接する三重県に居ながら、その利点はさっぱり生かせなかったのである。
 後に高校に進んだ時には高校の野球仲間から「康っさんよ、あんたホンマに山猿だな」と言われたほど山奥から一歩も出ずにいたのである。そんな私を気遣ったか、あるいは父の出身中学であり、かつ一番上の姉の出身女学校がその前身であったからか、あるいは確かにレベルの高い高校に入れて医者か薬剤師にしたかったのかはわからないが、父の一声で“山高に行け”となった。そんな訳で当時の汽車で朝は6時前には駅にかけ込まなければならないほど遠い宇治山田高校に進学する羽目になった。2枚目の地図の左下の紀勢本線三瀬谷駅から毎朝汽車に乗って東北東に向かい、多気駅から参宮線で東に向いて宇治山田駅(今の伊勢市駅)までの旅である(松阪駅は多気駅の北2つ目の駅である)。当時は厳しい学区制があり越境入学になるので、幸い宇治山田市に嫁入りしていた姉の家に寄留という小細工をしたのはもちろんである。また越境を正当化するためになんと中学3年の冬の3学期から市内の厚生中学校に転校までした。おかげで、あのアテネオリンピック女子マラソンの金メダリスト野口みずきの先輩になったのである。
 そんなことで往復に汽車で4時間近くを毎日費やし、後に野球部に入ったこともありほとんど宇治山田市(今の伊勢市)から外に出ることはなかった。だから、伊勢神宮には何度もお参りはしたが、なんということはないが、圧倒される存在ではあった。というわけで、三重県の中部の東西の狭い地域だけは知っていても、南部の尾鷲方面や中西部から北はほとんどまったくと言ってよいほどノーマークであった。
ファイル 259-2.jpg さて、大学はどうするかと考えた時、3歳年上の兄が大阪に居たので大阪の大学を受験したが、案の定落ちた。名古屋や東京の大学も受けたがことごとく落ちた。勉強せずに野球ばかりやって遊んでいたのだから当たり前で、1浪である。そこでやむなく予備校入りであるが、兄が薬剤師になって名古屋にいたり、姉が結婚して名古屋にいたこともあり、いまや大手だが大手になる前の河合塾に入ったのである。上手に教えるものだと感心しながらそこで一応勉強はしたが、それは午前中だけで、午後には下宿の近くにあった大学のグランドを勝手に使ってランニングをして体調を維持した(ここまで書いてきて、昔も自主的にランニングなどをしたことがあったんだ、と納得!)。要するに、いつまでも親兄弟の後について歩いていただけだったんだ!
 翌年、幸い名古屋の大学に合格した。いまでも覚えているが、8科目の試験があって1,000点満点の621点だったように思う。昔はその程度で合格できたのである。入学後それなりに努力して大学院にも進み、職員になることもできた。思い出すのはその頃のことだ。その時代は世界的な科学技術の発展を謳歌したと言われていたが、一方世界的に見て大学が本当に大学の果たすべき役割を果たしているかと厳しく断罪されていた時代であった。また、同時に日米安全保障条約も絡んで社会全体が厳しい雰囲気に包まれていた。
 その時期にはいろいろなことがあった。その最たるものはアポロ11号によってニール・アームストロング船長が人類最初の月への一歩を記録したことであった。あるいは筑波での科学技術博覧会や大阪万国博覧会も行われたが、私は月面着陸のライブのテレビ中継も断じて観ることもなく、博覧会へ子供を連れてゆくこともなかった。私としては「いまはそんなことをしている時期ではない」との強い決意を持っていたことを思い出す。
 この時期にもう一つ私がかたくなに拒絶し続けたことがあった。それは外国留学の勧めの拒絶であった。当時外国留学は将来の昇格にハクをつけるという意味が強く意識されていて、若手を売りに出す際に海外留学経験は効果的なほめ言葉にもなりうるものであった。しかし、私の頭の中は“今はその時期ではなくやるべきことは他にある”という考えがあり、同時に、“留学する必要があるときには自腹を切ってでも行く!”という決意のようなものがあった。当時は確かに難しいことを言わなければ外国の相手研究室から十分な生活費を得ることはそれほど難しいことではなかったし、またフルブライト奨学制度もあった。こちらを現職のままで行けば、帰国後は家の一軒も建つなどとまことしやかに語られることもあった。この留学拒否は、私が山猿で外に出るのを怖がったのでは?というような側面とは全く違う理由のためであった。
 しかし、私が40歳代に入ったころ最初で最後の仕事の方向転換を強く望むようになり、ついにアメリカの研究室に留学する腹をくくった。しかし残念なことには相手側が計画していた私への給料支払いのためのファンドが下りなくなり、私は自腹を切らなくてはならない羽目に陥った。でも、“留学する必要があるときには自腹を切ってでも行く!”と啖呵を切っていた私としては当然のように自腹を切ることを決断した。当時1ドル280円台だったと記憶するが、親子5人が生活する家をカリフォルニアで確保するためには1000ドル近い家賃が必要で、そのためだけにこちらで受け取れる給料でも全く不足するほどであった。そしてたった15ヶ月の滞在で巨額の借金を背負うことになってしまった。その時の私の決断の結果、その影響が現在も尾を引いていると考えると、家族に大きな経済的苦痛を与えたものだといまだに気になっている。でも、全く違う地球の裏側を見てカルチャーショックを受け、いくつかの新しい視点を手に入れたことは事実であった。
 帰国後元の大学に居づらくなったこともあり新しい仕事での新しい職場を求め、50歳代になってやっと初めて大阪に移動することになった。それまで尾張の名古屋にいても名古屋以外にはほとんど動き回らない生活を続けていたし、もちろん三河については全然訪れた記憶がない、全くの“出不精”で狭い範囲しか見ることができない生活を続けていた。そんな私が偶然にも古くからの遺産の宝庫である京都、奈良などにきわめて近い場所に住み、そんな遺産への興味を引き出すことになったのはうれしいことであった。何故かと言えば、私は大学受験の時から社会の学科としては日本史、世界史は覚えることが嫌で一切相手にせず、政治・経済、人文地理を選んできたので、関西地区に潜む歴史の遺産は私には初めて知ることばかりであった。さらに幸いなことにダイエットをきっかけにランニングの楽しさも覚え、新しい生き方を切り開くことができるようになった。
 そして、20年以上にわたった関西での生活を打ち切り、70歳代半ばになって子供たちが集結している関東で暮らすことになった。それはまだ始まったばかりで、これからどんな生活が待っているか分からないが、しかしそれをできるだけ楽しいものにしたいと願っている。自分の生活範囲を極めて狭く押し込めがちだった生活スタイルを、そろそろ少しずつ打ち破りたいと希望している。いずれにせよ、子供のころの狭い行動範囲からほんの少しずつだがそれが広がってきたように思う。そのことをポジティブに考えて前に進んでいきたい。
 さて、こんなことを書きながら、ふと今回のブログはいったい何を書こうとしてたんだろうか、と考えている。
 私がブログを書いている理由は、自分でもよくは分からないが、自分の考えていることや、自分が歩いてきたことを整理するためらしいと感じている。また、自分の知らない側面への興味を少しでも自分の目に見えるようにするために書いているような気もする。私のモットーは、“どこにでも面白いことは転がっている”である。だから、私のブログには自分の宗教感などとは無関係に神社・仏閣などの題材が何となく多いのもその表れかもしれない。分からないことが出てくるとすぐに調べたくなるのである。調べるとそれを何とかまとめておきたくなって書く、そんなことを繰り返している。今更そんなことを調べて書いてどうなる、とお読みになる方は思うでしょうが、そう思う方は遠慮なくすっ飛ばしていただきたい。これは私自身のために書いているのだと私自身が思っているのだろうから、それが一番ありがたいのである。いつものことだが、写真はクリックで拡大してご覧ください。