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温暖化対策の全面見直しと合衆国トランプ新政権

ファイル 264-1.jpg 私は今年1月末に「世界の大国米国に、理解しがたく信じがたい大統領が登場!」(http://www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=260)との短いブログを書き、その最後に“これ以上なにも言いたくない!”と書いた。その気持ちは何も変わってはおらず、どんどん文句を言いたいことが増えてくる。シリアへのトマホークによる爆撃、そして北朝鮮との挑発ごっこなど危ない火遊びの連続である。北朝鮮はミサイルを発射実験をしたり核実験をしたりすればそれは挑発と受け取られ、アメリカをはじめとする国連安全保障理事会の面々は何をしてもそうは言われることはない。彼らは第二次世界大戦の戦勝国であり、いま敢えてやらないのはすでに十分に核実験もミサイル発射実験もやってしまっているからである。日本はアメリカの傘の下にいてロケット発射実験をしても何も言われないが、きっとアメリカは日本の技術を警戒しているはずである。まあ、いまはその話ではない。
 ここに一枚の縦長の新聞記事を掲載した。お読みいただければ幸いである。それは4月28日の読売新聞朝刊の記事で、ワシントン支局の記者・三井誠氏によるものである。冒頭に次のように言う「『オバマ政権が自分を盗聴した』など、証拠もなく独自の主張を展開するトランプ氏の姿勢は、科学の分野でも際立っている。そうした科学軽視の典型例が地球温暖化への態度だ。トランプ氏は『でっち上げ』と主張するなど一貫して疑問視し、3月28日には、オバマ前大統領が進めた温暖化対策を全面的に見直す大統領令に署名した。政権内には『温暖化研究は税金の無駄(マルバニー行政管理予算局長)という声もある」。今回の記事は、アメリカの研究者が研究結果の基づくことなく政策を進めるトランプ氏の姿勢に猛反発し始めたことを伝えるものである。そのことについて一言言いたくなったのである。
 このようなトランプ氏の主張は大統領選挙中から聞こえてはいたが、上の大統領令への署名によって明るみに出たのである。それにしても予算教書の骨格では、米環境保護局(EPA)の来年度予算を31%削減し、職員の2割にあたる約3200人を削減するとし、また世界最大規模とみられる米国立衛生研究所(NIH)の予算も18%減となる恐れがあり、医学分野につながる基礎研究に重大な影響が及ぶ恐れがある。このような新政権の姿勢は他の多くの基礎研究の分野にも多大な影響をもたらすと想像される。
 しかし、考えてみればアメリカは数々の分野で自国第一主義をちらつかせ、それを実行していたことは明白である。私の記憶にあるその最たるものは、京都議定書である。京都議定書とは、1997年12月に京都市の国立京都国際会館で開かれた第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)で同月11日に採択された、気候変動枠組条約に関する議定書である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8 )。アメリカはこの議定書に合意しながら、アメリカ合衆国政府は産業界の強い反対に会い批准することを放棄したのである。世界一の経済大国であるアメリカがこの問題を解決しようとせずに誰が解決できるのか!また、国連分担金の支払いもアメリカはたびたび拒否、あるいは拒否をちらつかせる態度を見せ続けている。結局、もともとアメリカは“アメリカ ファースト”なのであって、それに特に変化があったわけではないのである。ただトランプ氏があまりにビジネスライクに振る舞い、メディアとの、つまりはアメリカ国民との、そして世界中の人々との会話を真面目にしないために(SNSだけだ!)より極端に見えているだけなのであろう。もちろん、だからトランプ氏はそれでいいんだとは全く思わないし、それは困る!と言いたい。もしトランプ政権が今回の報道通りに地球温暖化問題を放置するのであれば、それは地球の将来を見殺しにする犯罪につながると言うべきであろう。
 私の本棚には「アメリカの戦争」(山崎雅弘著、学習研究社、2004)がある。これ以上戦争をやらないでもらいたい。私がこのように書くと、この書き物はあらゆる手段で探知され、記録され、私の素性はどこかで明らかにされているのであろう。最近発表された日本に対する13編のスノーデン文書(http://www.excite.co.jp/News/society_clm/20170426/TokyoSports_678465.html 、XKEYSCORE)はそのようなことを強く思わせるものであり、アメリカ戦艦の自衛隊艦船による護衛や安倍政権が強硬に推し進める「共謀罪法案」や憲法改正論議などを考えると世界の中の日本もある一点に向かって突き進んでいるように思う。嫌な世の中になったものだ。奇遇であることを願いたい。

私に新しい何かを迫った京都マラソン2017

 私にはこれまで京都でのハーフマラソンは縁起がよかった。実は京都で最初のハーフを走ったのは2001年で、それまではこのレースの2時間という制限時間の壁がとても恐ろしく出られなかったのである。そして64歳時の2004年3月に今でも破ることのできない私のハーフの最高タイム1時間41分13秒を出すことができた。いまから考えてもどうしてこんなタイムが出せたのかはわからないが、この京都では何度か40分前半のタイムを出せ、私に自信を持たせてくれた京都はとても相性が良いのである。
ファイル 263-1.jpg そんな京都をフルマラソンで走る機会はこれまで2度あったがいずれも故障でキャンセルしており、今回3度目の正直と勢い込んで京都にやってきた。昨年11月神戸マラソンを走った後は順調に調整できたと思っていた。ただ、こちらに引っ越してからはなかなかジムでのトレーニングになじめず、ほとんどロードを走るだけとなり、筋トレなどが極端に不足していることは気になっていた。しかし、一応目標とした月間150キロほどは走って調整してきたつもりであった。
 レース当日の早朝7時過ぎ、西京極の野球場のネット裏スタンドに入って着替えをすることにした。この野球場は、私が西京極に近い大阪・高槻にいた時に夏の高校野球・京都大会の試合を何度か観戦に来たこともあり、落ち着いた気分でグランドを眺めていることができた。ただ、前夜の小雨の後相当冷えたらしく、シートに溜まった水がカチカチに凍りついていたこともあり、朝日を浴びてはいたが底冷えのする朝であった。着替えてから荷物をトラックに預け、トイレで用を足してからウォーミングアップをしてスタートに備えたが、残念なことにトイレの数もかなり不足気味で、さらにアップのためのオープンスペースが少ないことから他のレースの会場に比べて少し窮屈な感じを受けた。
 陸上競技場のトラックに整列して9時にスタートしたが、トラックも氷の解けた水で濡れており、競技場を出てしばらくの石畳も濡れていて用心深く走ったのを覚えている。転倒が一番怖いからである。1枚目の写真は今回のコース図の写真である。写真はかなり拡大してご覧いただきたい。競技場を出てから嵐山方面に向かい桂川の堤防道路を北西に向かい渡月橋を左前方に見ながら右折して天龍寺の方向に向かうコースを取った。このあたりでは、前方に見える山々に霧がかかっていかにも京都と思わせる雰囲気を感じることができた。
ファイル 263-2.jpg その後、一条通を東に向かって広沢池、仁和寺、龍安寺を左に見て走るにしたがってアップダウンの厳しさを実感することになった。実はコース図の写真の左上の方に黄色で高低差が表示されています。私がこの図を見て感じていたことは、いったん10キロ手前までで坂を上りきってしまえば、あとはだらだらした比較的平坦なコースと勘違いしていたことでした。よくよくその図を見ると、決してそんなことはなく、25mほどの高低差のあるアップダウンがいくつも続いていたのです。その時点ではそんなことを考えてる余裕は最早ありませんでした。14キロ時点の馬代通から上立売通へ曲がって入る地点で、あらかじめ示し合わせたかっての職場の先輩を見つけることができ、ほっとして上りを意味する北に向かって順調に走っていきました。その順調さは、2枚目の写真の5キロごとのラップによく表れています。このあたりの賀茂川沿いの道路は、かって京都ハーフマラソンを走った時のコースのはずで、十分なじみがあり、穏やかな気分で走れたように思います。
 その後、賀茂川沿いを下りながら北山通りに入り、さらに府立植物園の中を巡って再び賀茂川の右岸を走ることになりました。実はこの29キロあたりからの賀茂川(鴨川)河川敷コースは私にはかなりきついコースでした。その理由は、狭く、またコンクリートの石畳や土の部分が混在していたことや小さな起伏がたくさんあることでじりじりと疲れを感じ始めてきました。また、目がしょぼしょぼし始めたことと、非常に疲れると身体が左に傾いて左に斜行する癖が出始めたので、あまり無理をしないようにとどこかで歩くことを決め、30キロあたりでしばらく歩き始めてしまいました。3枚目の写真は、私のGPS時計でのデータで、黄色いペース(分/キロ)の線が上に向かって急に上がっており(ペースが落ちている)、紫色の心拍数が急に下に向かって下がっている(スピードが落ちている)地点が最初に歩いた地点を表しています(なお、11キロ手前の同様のデータについては思い出せない)。その後32キロ地点とそれ以降に何度か歩き、40キロまでの10キロが私にとっては地獄のような時間でした。ファイル 263-3.jpgこの間、元気を出すために給食として用意されているミカン、パン、好きな生八つ橋などに手を出すのですが、それらを一口口に入れるだけでまともに食べられず、手に持っているだけで口からもぽろぽろこぼしている有様でした。こんな自分を情けない思いで見ていました。疲労の極致とはこんなことを言うんでしょうね。
 今出川通の最後の折り返しで、係の人に“あと3キロ、下るだけやで!!!”と大きな声で励ましを受け、最後まで間違いなく行けることを確信して気を取り直し、走り始めました。それでも、京大に近い東大路通で一度歩きましたが、あとは我慢し続けました。そして、東大路通から何度か左右に曲がって平安神宮の大鳥居の真下に入ってゆくのですが、まっすぐに走れず、左に斜行してやっとゴールの左端に入ってゆくことができました。ゴール後、荷物を受け取り更衣場の床に座り込んだまま貰ったドリンクも飲めず持っていたバナナも食べられず、一緒に走った仲間や応援に来てくれた方々とメールで連絡を取るだけで1時間半何もできませんでした。でも、2時間半後にやっと三条京阪まで歩き、その方々とおいしいビールを飲み“給食”を食べ、やっと生き返りました。タイムは4時間52分25秒。目標には10分以上届きませんでした。
 一昨年の神戸、昨年の長野と神戸、そして今回の京都マラソンを振り返ると、加齢が進む中4時間後半のタイムを脚力で押し切れる時代は終わりつつあるのかもしれないと感じている。もちろんトレーニングを積んで脚力を維持・強化することを考えているが、その努力で42.195キロというマラソンのなが~い距離を克服するのはとても難しい。それよりもどこまで精神的に頑張れるか、我慢できるにかかっているようである。その意味からすると、この4つのフルマラソンでは、必ずしもタイムはよくないが、しかし最後まで走り切りたいという精神力に支えられている、つまり、我慢する力は失われていない、そんなことを感じている。もうしばらくはがんばれそうである。
 しかし、問題は今回思いのほか早く“斜行する”悪い癖が出てきたことである。つまり、体の軸が不安定化しているのであろうか。私はこのブログの最初に、最近筋トレが不足していると書いた。今回早い段階にそれが表れたことが何によるのかはわからないが、脚力ではない筋力、特に体幹の筋力が不足しアンバランスになっているためと考えることもできる。これから1か月半、それを明確に意識して強化し長野に臨んでみようかといまは考えている。

冬の出雲を旅する (2)出雲大社とその周辺

ファイル 262-1.jpg 出雲大社には10年ほど前に一度訪れたことがあるが、今回のように出雲大社やその周辺の神社をいくつか訪れたことは初めてで、いろいろなものを見学し、帰ってきてからも様々な書き物を読むチャンスがあって収穫の多い旅ではあった。今回はそのあたりのことを書いておきたい。まずはその出雲大社についてのWikipediaの記述を簡単に紹介したい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE )。
 「出雲大社(いずもおおやしろ)は島根県出雲市大社町杵築東にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は『いずもおおやしろ』(歴史的仮名遣いでは『いづもおほやしろ』)であるが、一般には主に『いずもたいしゃ』と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一『大社』を名乗る神社であった。」
 また、この出雲大社の「祭神」については次のように言う。
「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。1142年(康治元年)在庁官人解状に『天下無双之大廈、国中第一之霊神』と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。ファイル 262-2.jpgそのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。」確かにこの出雲以外では11月は“神無月”であるのに対し、この出雲では“神在月”と呼ばれるようである。
 私のように自然科学を仕事としてきた人間にとっては、この出雲地方の神々の正体をどう感じたらよいのかがなかなか問題で、そう簡単に入り込むことは難しい。旅から帰って様々な資料を読んでは見ても、出雲大社の創建についても、また何を祭っているか、つまりは「祭神」についてもその移り変わりが激しいことが分かった。たとえば、平安時代前期までは大国主大神であったが、神仏習合の影響下で中世のある時期から17世紀までは八岐大蛇退治で名高い素戔嗚尊(須佐之男命)、その後、また神仏分離・廃仏毀釈政策の影響下に古事記や日本書紀の記述に沿って大国主大神に戻ったとされる(Wikipedia)。そのように歴史的にも様々な見方が挙げられていることが分かってきたが、考えようによってはそれはきわめて当然のことで、近世から現代においても、いや第二次世界大戦以降においても神話ならずとも歴史(歴史書も)は常に為政者によって都合よく主張され、書き換えられてきているからである。ファイル 262-3.jpgしたがって神社・仏閣などの創建以降の歴史もそう見るのが健全であると私は思う。
 そうは言っても、この出雲地方に伊弉諾大神、伊弉冊大神、天照大神、月読命、素戔嗚尊(須佐之男命)などの兄弟とその子孫とされる大国主大神などを祭神とする神社が多数存在することは事実である。出雲大社とともにそのいくつかを今回めぐることができた。最初の写真は、私が最も気に入っている写真で、早朝と夕刻の境内に入ったあたりから南に向いて最初の大鳥居の方向を見たものである(拡大してご覧ください)。手前が境内である。三瓶山は見えていないが右の方にあり、遠くの正面に見えているのは多分比婆山連峰かなと思うが正確ではない。その山々から霧、あるいは雲が立ち上がるようにも感じられ、この出雲の枕詞でもある“八雲立つ…”雰囲気を感じることができる。このようにきれいに見えるのは、ここが島根半島の西端に位置するからであろうか。
 2枚目の写真は、出雲大社の社殿群を集めたものである。私が今回学んだことの一つは、屋根の上にたすき掛けの形で乗っている“千木”の尖った先が上を向いているのが男性の神を祭っている証で、横を向いているのが女性の神の場合であるということである。でも、祭神が変わることがしばしばあるのですべてそうであるとは言い難いようである。
ファイル 262-4.jpg 3枚目の組み写真では左上が佐太神社、右上が八重垣神社、下2枚は神魂神社(かもすじんじゃ)のものである。佐太神社には社殿が3つ並立しており、極めて珍しいとされる。祭神も12柱(神の数は柱と呼ぶようである)、猿田彦命と関係があり、出雲大社と並ぶ品格という。八重垣神社については、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで姫と住居を構えた地に須我神社が創建され、そのご幾度かの変遷を経てこの神社となったと言われる。縁結びの神とされる。下2枚は神魂神社であるが、上に述べた千木は尖った先が横に向いていて女性の神を祀っていることを示している(拡大してみていただければ分かると思います)。社伝によれば伊弉冊大神(イザナミノオオカミ)が主神である。
 4枚目の写真は、左上が上に述べた和歌を詠んだと言われるところでそのため和歌発祥の宮と言われる須我神社である。左下は素戔嗚尊(須佐之男命)がこの出雲の最後の開拓地であるからと地名にしたとされる須佐の神社である。右上は、出雲大社の海寄りを10分ほど車で走ったところにある日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)で、ファイル 262-5.jpg写真が少ないが山の傾斜を巧みに使った大変美しい神社で、その少し奥に日本で一番高いと言われるきれいな灯台がある。それが右下の写真で、建設後100年以上経つがいまだに現役である。
 最後に、出雲の神話の中心にいる素戔嗚尊が悪さをして高天原から追い払われてこの地に降り立ち、心を入れ替えたか八岐大蛇に食べられそうな娘櫛名田比売(クシナダヒメ)を救う活躍をする石見神楽を宿舎で演じられるのを観ることができた。主人公が八岐大蛇に強い酒を飲ませて酔わせ、それを太刀で退治した時その尾から出てきた剣を得た。それが後に草薙の剣と言われるものである。その5枚目の組写真は十分ではないので、その雰囲気だけでもお楽しみください。
 今回の旅の後、多くの方が書かれたレポートを読ませていただき、勉強させていただいた。そして、神話の世界と現実の姿とのすり合わせの難しさと、時にはそのロマンも感じることができた。その神話に様々な説が存在すること自体は健全であると最初に書いたが、2000年に発掘された巨大な柱も「島根県古代文化センター」で見ることができた。これは巨大な古代社殿の柱であるとも報じられたが、いまはどちらかと言えば中世1248年造営の本殿の遺構だと考えられているようである(前傾のWikipedia)。これからも建設的な議論が積み重ねられることを期待したい。
 最後に、出雲でいただいたカニとのどぐろとそばは美味しかった。