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相模原台地(相模野台地とも呼ばれる)に住んで

ファイル 254-1.jpg 関東に引っ越してから1年半が過ぎ、もうすぐ2年になる。私の住んでいる地域は、1年前に相模原市立博物館を見学したときから、相模原台地あるいは相模野台地とよばれるところであることは知っていた。そして、そこに住みながら様々な疑問が芽生えていたが、今年の9月29日の読売新聞に「相模原」という地名の謎が特集されていた(1枚目の写真)ことからもう少し地形学的なことを知りたいとの欲望に駆られていた。
 同時に、この地に住んでみると不思議なことがいくつもあり、たとえば次のようなことである。
①きわめて平坦であり、自転車移動が大変楽であること。これまでこれほど平坦な土地に住んだことのない者にはこのこと自体が不思議である。
②孫のサッカー見物のためかなり広い範囲を自転車で走り回ったが、畑ばかりで水田は相模川のすぐそばか、浸食でできた谷筋以外にはなかなか見られないこと。
③なぜか果樹園があちらこちらに散見されること。
④平坦なところに“林間”と名のつく地域がいくつもあり、木が林立する小さな公園やごく小さな雑木林があちらこちらに残されていること。
⑤なぜか1キロ以上の直線道路が私の住む近所に少なくとも2本もあること。
⑥大人から子供までがウオーキング、ランニング、サイクリングなどを楽しめる幅2~3メートルほどの良く管理された“緑道”が、この地域のあちらこちらに張り巡らされていること。
⑦広い公園・緑地がたくさんあり、また軍事施設が多くあること。
 このような疑問を解決するにはひょっとすると地形学的なことが大事なことかもしれないと思い、いつものことであるが「相模原台地」についてWikipediaに尋ねた。また、相模原市立博物館にも再度訪問して少し勉強もした。その結果次のようなことが徐々に分かってきた。まず2枚目の地形図の写真から見てみたい。
 その写真の左部分を見ていただくと、神奈川県の中央部にあたるこの相模原(相模野)台地は、左に大きな相模川、八王子を西端とし、ファイル 254-2.jpg境川の北部分から右下に曲がって三浦半島にまで達する“いるか”のような形の多摩丘陵に挟まれている領域であることが分かる(www.geocities.jp, IMGP1379.JPG)。右上の図は相模原市を中心として書かれたもので、左下の相模川と右上の境川(色がついてないのではっきりしないが)に挟まれた部分で、つまりは、北は多摩丘陵から西は相模川左岸(川の左岸右岸は水の流れる方向を見て左を左岸、右を右岸と呼ぶ)、東は境川の左岸の一部を含む。そしてこの地図には書かれていないが、小田急線の相模大野、東林間駅と書かれている所からこの相模原台地は南に向かって大和市、座間市、綾瀬市、海老名市と続き,そして藤沢、茅ヶ崎の北部に至る。狭いところでは東西2キロ、南に34キロの広い範囲で、元は相模川の堆積物によって形成された扇状地である。扇状地は、土砂を含んだ川水が山間部から急に平地に出たところで大きな粒子の土砂を失い、それが堆積することから始まる。その最初の部分の堆積物は比較的大きな粒状物で保水性に乏しく、また地下水位も低い。しかし、扇状地の先端部分になると小さな粒子が多くなり、海に開けた三角州の性質とよく似て保水性が上昇する。扇の中央部分はその中間的な性質を持つことになる。この上に富士山や箱根山の噴火の火山灰が降り積もった構造になっている。大和市のあたりではこの黒土ローム層は1.6メートルに及ぶとされる。
 この地域では、右上の地図のAからBの線での立体断面図で、この段丘上段では、多摩丘陵の谷戸(浸食によってできた谷様の地)を水源として流れる境川以外にはこの平地を分断する(開析する、と言う)川がなく、南北の高度差は当然あるもののそれ以外に高低差をつけることがない。この上段が南に折れ曲がって続き、したがって、私どもが住むこの扇状地の右下中央部分では、あくまで平坦であり、水田は難しく畑地ばかりとなり、地下水位があまり高くなくても栽培可能な果樹園などができることになる。このことを理解できれば上の疑問のいくつかに答えることになる。
 そしてこのような地形がこの地域のその後を決定することになった。江戸時代からこの地は新田開発が計画され実行されてきた。ファイル 254-3.jpgしかし扇状地で河川も少なく保水性の良くない土地柄のため畑地としてしか使えなかった。それでもそこに入植した人たちはそれに耐えて生活するために、コナラやクヌギを植えて薪炭という燃料を確保した。現在この地域に見られる“林間”をなす雑木林はその名残である。
 そのような困難を克服して水田開発を行うため明治以来大規模な河川開発事業が計画されたが実を結ばず、やっと昭和に入ってから相模多目的ダムの計画が動き、敗戦後の1947年についに相模ダムが完成した。もとは1000haの水田を作ることを目的にしたが、敗戦後の食糧増産を目指して2700haの畑地への灌漑を計画することとなり、この中には横浜市や川崎市への上水道水・工業用水供給水路建設も含まれていた。1963年にやっとすべての事業が完成した。建設された水路は幹線から末端まで含め160キロ以上とされる。1953頃から始まっていた畑地への通水はその後増え続けたが、次第にこの地域全体の市街地化により需要が激減し、詳細は分からないが1970年頃には大規模な農業用水としての使命は終わったようである。そして幹線水路の多くは緑道緑地として整備されてきた。私たちが現在ウォーキングやランニング、サイクリングなどで楽しんでいる緑道はこのような歴史を背負っていることが分かる。
 実はこの平坦な地形と首都圏への近さから、この地は軍都計画の対象となってきたのである。その内容は1枚目の写真の記事に詳しい。それによれば、陸軍士官学校を東京市ヶ谷から移すことに始まり(相武台へと思われる)、この台地の北半分は相模陸軍造兵廠に始まり南には高座海軍工廠ができ、その後海軍厚木基地などが続々生まれていった。なお、厚木基地は厚木市にあるのではなく、大和市と綾瀬市にまたがって存在する。不思議なネーミングである。
 敗戦後これら軍事施設の大半は米軍に接収され、この地域は基地の街が続くことになった。しかし、それらも徐々に返還されつつあり、その跡地は大規模な公園やスタジアム、また工業団地へと変わっていった。その典型は、巨大な日産自動車工場などの移転であり、いまもその一部は、と言っても大きいが、身近に見ることができる。さらに大学などの用地にかわるものもあり、相模原は軍都から文教地区へと変貌しつつあるようである(1枚目の写真)。その代表的なものが現JAXA宇宙航空研究開発機構で、旧宇宙科学研究所の東大駒場キャンパスからの引っ越しである。その相模原キャンパスには、ファイル 254-4.jpgペンシルロケットからの展開を見せる実物展示や、「はやぶさ」などの実物サイズの模型の展示などが豊富で、なかなか興味深い(3、4枚目の写真。上2枚は実物大「はやぶさ」模型、左下は現在金星に向かっている「あかつき」模型、右下は日本のロケット発展の展開展示)。そのそばには相模原市立博物館もあり、JAXAと組んで「はやぶさ」の回収カプセルのいち早い展示や「はやぶさ」が回収した微粒子の展示などが行われ、私も顕微鏡下でそれを見ることができた。
 最後に“海軍道路”について書いておこう。これは境川左岸の横浜市瀬谷区にあり、このいかめしい名前の道路は本当に3キロ弱の直線である。この“海軍”はアメリカの海軍だと思っていたが、実は日本海軍が付けた名前のようで、かっては様々な軍事物資の補給庫、貯蔵庫などであったらしいが正確なことはほとんどわからないとされる。ただ、滑走路としても使えるように直線になっているのは本当らしい(http://hamarepo.com/story.php?story_id=374 )。敗戦後この場所は米海軍上瀬谷通信施設として接収されていた。かなり前からその道路わきに400本以上の桜が植えられており、春には多くの見物人でにぎわうらしい。私も何度かこの直線道路を走ったが、まるで広い荒野を走っている感じがなかなか楽しいものである。この一帯は昨年の6月をもってその広大な地域は完全に返還され、現在どのように使うかが検討されている。
 ごちゃごちゃと書いてきたが、一つの地域がどのように発展してゆくかは、そこがどのような地形として出来上がってきているかが決定的に重要であることを、これを書きながら私自身に認識させることになった。もっと掘り下げればさらに興味深いことが出てくる可能性もあるので、さらに興味を持続させたい。なお、このブログを書くに当たりWikipediaの記事、足を運んだ相模原市立博物館や相模原市のホームページ、さらに森慎一氏の論文「相模原台地周辺の地形・地質」などは大変参考になった。ここに感謝する。

追記:1枚目の写真の記事に地名に関する面白い記述があった。それは「***野」と「***原」の違いで、「野」は利用しにくい草原を指し、「原」は広い平地を指すという。何か私の感覚とは真逆である。確かにこのあたりの「野」のつく地域は高低差が大きく移動にも困難が伴うように感じる。軍部は軍都計画の時に「相模野」ではなく「相模原」という地名に強くこだわったという。

アンプティサッカー(Amputee Soccer)、その凄さを知る

ファイル 253-1.jpg 先週10月1日、息子の誘いを受け川崎市の「富士通スタジアム川崎」で開かれていたアンプティサッカー(amputee soccer、amputeeは足や腕などの切断者の意)の第6回日本選手権大会を観戦に出かけた。そこでの試合を観て、思いがけない素晴らしい感動と人間の途方もない能力の一端を垣間見ることができた。
 まず最初の写真を見ていただこう。この写真は試合後のあいさつ時のものであるが、見ていただきたいのはフィールドプレイヤーはすべて片方の下肢を切断しており(あるいは障害がある者)、2本の“つえ(クラッチ)”、つまり医療用によく使われているロフストランドクラッチとよばれるものを使用し、左端右端に立っているゴールキーパーは片方の上肢を失った者(あるいは機能を失った者)が務めている。そんな方々がたくましいサッカーをするのである。それを語る前に、その会場でいただいたいくつかのパンフレットから、私が初めて知ったルールの数々をまずお知らせしたい。
 試合の人数は7人、試合時間は25分ハーフの50分、ピッチサイズは60mx40m、ファイル 253-2.jpgゴールサイズは5mx2.15m(少年サッカー用ゴール)である。用具は、フィールドプレイヤーは2本のサッカー専用ではなく医療用のロフストランドクラッチと呼ばれるものを使用し、これはプレイヤーの手にあたるため意識してそれでボールを操作すればいわゆる“ハンド”の反則となって笛が鳴ることになる。このクラッチを軸足にして振り子のように体を揺らしてパスやシュートを行う。また、フィールドプレイヤーは転倒した状態でボールを蹴ることはできない。なお、普通のサッカーと異なる点は、ゴールエリアなし、オフサイドなし、ゴールキーパー以外は自由交代で、スローインはなくキックインとなる。また、ゴールキーパーはペナルティエリアから出ることはできないなどであるが、あとは激しいボディチャージなどすべて普通のサッカーと同じである。
 このようなルールで運営されている大会を報じた小さな記事を10月2日付の読売新聞に見つけた。その記事の写真が2枚目である。そこにも書かれているが、2本のクラッチと片足で想像以上のスピードで走り回り、ファイル 253-3.jpg激しくチャージし、ドリブルを仕掛け、素晴らしいシュートを放つなど驚かされることばかりという私と同じ感想であった。3枚目と4枚目の組み写真は、ゲームの写真を組み合わせたもので、様々な形で攻撃を仕掛ける姿が垣間見えるはずで、自由な想像にお任せしたい。写真に見えるバックスタンドには人は入っていないが、私たちがいたホームスタンドにはたくさんのファンが声援を送っていたことを指摘しておきたい。そんな多くのファンを引き付ける理由は、ただひたむきなプレーと高い技術力かもしれない。現在のアンプティサッカーのプレイヤーの7割はサッカー経験者ではないと言われている。思いがけず自分の身体を動かしてスポーツを楽しむことができるサッカーに出会えた喜びが、高い技術とひたむきさを支えるのであろうか。
 観戦に行ったときに戴いたいくつかのパンフレットから私は様々なことを知ることになった。その一つのパンフの表表紙と裏表紙の写真が5枚目の写真である。実は障害を持つ人たちがプレーすることができるサッカーには7種類もあるとのことであった。アンプティサッカーはその一つに過ぎず、最も最近になって日本で展開が始まったスポーツなのである。ファイル 253-4.jpgその対象者によって知的障がい者サッカー、聴覚障がい者サッカー、脳性まひ者サッカー、視覚障がい者サッカー、電動車椅子サッカー、精神障がい者サッカー、そしてアンプティ(切断者)サッカーで、まだ全国で9チーム、80名ほどの競技人口である。
 現在この中でパラリンピックで行われているのは視覚障がい者サッカーのみだろうと思われるが、それ以外のサッカーの多くもアンプティサッカーを含めてワールドカップや国際大会が開催されるようになってきて、その発展が急速に広がっている。そのような状況が、5枚目の写真の右側の裏表紙に書かれているような言葉“サッカーなら、どんな障害も越えられる”を生み出しているのであろう。
 そして最後に、アンプティサッカーのパンフに挟まれていた1枚の紙に書かれた次のような印象的な言葉を紹介しておきたい。「ある選手はそれまでの俯きがちの日々から前向きな姿勢を取り戻し、ある選手は義足を隠すため躊躇していた半ズボンを履くようになり、ある選手は再びサッカーができる喜びで生きる希望を取り戻し、ある選手は自らの命を絶つことがいかに愚行であったかを思い知る。 ファイル 253-5.jpgそして選手の全員が気付く。五体不満足は障がいではなく個性であることに」。そしてもう一言、「最後にある選手の言葉をここに紹介します。あなたにとって『アンプティサッカー』とは何かとの問いに対してこのように答えました。『あの日失った私の脚です』」。
 こう書きながら、紹介しかできない私がいるのは残念である。なお、当日協会の最高顧問であるセルジオ越後氏が来場されていた。また、すべての写真はクリックで拡大してご覧ください。

追記:
 このブログを書いていた10月5日に日本経済新聞のコラムにアンプティサッカーのことが書かれていることを息子から知らされた。そこには私が感じた驚きとともにもっと踏み込んで、「アンプティサッカーの選手は備わっているものを磨くことで、障害をマイナスにしない。健常者の選手とは全く別の表現方法で見る者の心を動かす。そこに自らの喜びを見出し、誇りを抱いている」と記されていた。

やはり、日本は失敗のできない国になってしまってたんだ!

 日本が41個という大量のメダルを獲得して沸いたリオデジャネイロオリンピックは終った。始まるまでにあれほど危惧されていた施設や運営面での数々の問題は、多少のトラブルはあったようであるが全体から見れば些細なことと思われ、リオオリンピックは成功裏に終ったといってよい。
 また競技面でも様々な盛り上がりがあり、世界中のスポーツファンを喜ばせたことは疑いない。特にオリンピック好きと言われる日本人にとってこの2週間は特別の盛り上がりを見せ、マスメディアの騒ぎ方は半端ではなく、ファイル 252-1.jpg時には号外新聞まで出たことがあった。それぞれの競技に必死に取り組んできたすべての選手にここで感謝の気持ちを表したいし、メダリストたちにはおめでとうと申し上げたい。
 さて、スポーツ好きの私はこれまでホームページやブログでスポーツに関していろいろな意見を表してきた。でも、今回究極のスポーツの祭典であるオリンピックを見てきて、応援する立場、あるいはスポーツをする私自身の立場についてなんとなくすっきりしないのである。私は根っからのスポーツ好きで、特に野球は子供の時からたのしんできた。プレーすることはもちろん、観戦することも大好きでどこのチームの試合であるかを問わず、野球の試合であれば見ていて楽しい。だから、テレビで放映されるプロ野球の試合は他に見るものがなければどんな試合でも観るのである。それは一つ一つのプレーを楽しんでいるのだと思う。そんな私なので野球の試合であれサッカーの試合であれ、静かにじ~っとかたずをのんで見ている。決して騒ぎ立てることはしない。
 そんな立場から野球場やサッカー場や、ましてやオリンピックにおける選手と応援する側(テレビの前を含めて)の関係を見ていると複雑な気分になる。たとえば、厳しい国内あるいは国際的な選考を経て出場権を獲得した選手たちがどれほどの努力を払ってきたかは想像に難くない。今回男子卓球単複でメダルを取った水谷選手が言うように“命がけで闘ってきた”のであろう。そんなことを知ったうえで彼らの活躍を心から願っている。それはつまり彼らの人格形成も含めた努力を認めたうえでの話である。だから、試合の結果勝っても負けても彼らの存在を、さらに彼らの活躍を正当に評価するのが当たり前なのである。つまり、ファイル 252-2.jpg彼らが負けたからと言って騒がしい批判の対象になるのではなく、勝ったものだけがもてはやされるのではなく、敗者にも敬意が払われなければならないはずである。
 しかし事実はそうなってはいない。頑張った男女のマラソン代表はいずれも“惨敗”と報道される。マラソンを走る私には、あの高温の中どれほどの苦しさであったのだろうかと心が痛む。ゲームの後にマスメディアに引っ張られるのは“メダル”を手に入れたものだけである。メディアと対等の立場にいる選手たちであればそれはそれでよい。でも、今のメディアは彼らの王様であると思っているから具合が悪い。そんな習慣をつけたのは誰なんだろうか。私はそれはマスメディアやメダルの数を国力の表現と考えて密かに国威発揚に利用したいとする国の支配層だろうと思うし、それを良しとしてきた我々“ファン”と称する者たちだろうと確信する。オリンピックが近づくとマスメディアやオリンピック委員会の首脳陣は、当たり前のようにメダルの数の計算を始める。一体オリンピックとは何のためにあるのか?
 福士加代子をはじめとして3人の選手が参加した女子マラソンの結果は、望みどおりではなかった。14位でゴールした福士選手は、「金メダル取れなかったあ! ほんとしんどかったあ!」「でも金メダル目指したから最後まで頑張れました」と絶叫した(www.asagei.com/excerpt/64487 )(1枚目の写真はゴール直後の写真、産経デジタル)。この結果と発言にネットは大騒ぎになったという。自分の結果もわきまえずとか、なんという能天気なとか、KYであるとか、代表選考でもめたとか、ファイル 252-3.jpgとにかく言いたい放題で、それ以来福士選手の動向は少なくとも私の目や耳には入ってこない。これまで長い間日本の中長距離界を牽引してきた福士選手に対して、残酷すぎる!!!
 一方、卓球シングル女子単での福原愛選手の活躍は見事で、あわやと思ったがやはり中国と北朝鮮の壁に跳ね返されてしまった(2枚目の写真、デイリー・スポーツ。3枚目はその敗戦にめげず団体でメダルを取った3人、朝日デジタル)。シングルスで敗れた時彼女はインタビューに答えて、「・・・金メダルを取れなくて申し訳ない・・・」、「五輪はメダルを取らないと意味がない」と苦渋の発言をした。また、レスリング女子53キロ級で吉田沙保里選手は米国の若いヘレン・マルーリス選手に敗れ銀メダルに終わった(4枚目の写真、朝日デジタル)。そのあとのインタビューで、「銀メダルに終わってしまい、申し訳ない。日本の主将として金メダルを取らなくてはいけないところだったのに…。取り返しのつかないことになってしまった。ごめんなさい…」と話した後、泣き続けるしかなかった。
 ここに書いた3つの例は、それぞれが極限の闘いの後に気力を振り絞って発した言葉であった。そんな状況の中でどんな不用意な、謝罪ばかりの言葉が出てきても不思議ではない。これまで彼女たちに私たちはどれほど勇気づけられ、元気づけられ、また癒されてきたのだろうか。彼女たちのこれまでの命がけのような戦いに寄り添いたいものである。ファイル 252-4.jpg何故に、物言いが気に食わないからと簡単にバッシングし、謝罪と聞こえるような発言をさせてしまうのだろうか。日本の社会はなぜこれほどまでに冷たいのであろうか!いや、冷たくなってしまったのであろうか?
 この例は、選手と彼らを取り囲むメディアや国民とは対等でないことを物語っている。支配層や国民は選手をオリンピックに行かせてやっていると思い、選手の方も行かせてもらっているといつの間にか思い込んでいるのである。だから、「申し訳ない」「ごめんなさい」と自然に出てきてしまい、そしてそう言わなかったときには上の立場に立ってしまっていた方にはカチンとくるのである。
 2013年、「『スポーツ権』の人権性に関する考察」という論文が発表されている(T. Matsumiya, The annual reports of health, physical education and sports science, vol. 32, 1-12)。そこには次のような文章がある。「1978年にユネスコが採択した『体育およびスポーツに関する国際憲章』には『体育・スポーツの実践はすべての人にとって基本的権利である』」と記されている。日本では憲法13条の幸福追求権などとの関連で議論が進められていていまだ明確ではないが、その方向はユネスコの憲章と同じ方向を向いているといってよい。つまりスポーツを楽しむためのハードやソフトの整備は国や自治体の責任においてなされるべきで、その内容の高度化の一環としてトップレベルの選手の育成や国際大会への派遣が行われていると、私は考える。
 一方、多くの選手は企業からのサポートを得て活動を行っているが、これとて企業の社会的貢献事業の一環としての「企業メセナ」との概念の範疇で行われているのである。そう考えると、派遣されている選手が国や地方自治体、広く見て国民、ファイル 252-5.jpgあるいは企業に対して感謝こそすれ卑屈になることなどまったくないと私は考えている。
 私が残念に思うのは、期待されたような結果を出せなかった選手らは、インタビューに際して総じて謝罪の言葉を発することである。その理由にはインタビューする側のまったく内容のない質問も大きく影響しているが、やはり上にも書いたように無意識に自分の立場の弱さを感じているからだろうと思われる。このような状況が続くことの問題の一つは、結果が思うように出なかったことの原因の解明が結果として隠されてしまうことにあるように思う。これは進歩にとって強敵である。
 近年、選手のためにならない状況にオリンピック運動が落ち込んでいることは、最近特に大問題になっている国家が関与する組織的ドーピングにも現れている。これまで日本の選手は非常にクリーンであるが、選手の自覚のいかんによってはどこかの国々と同様にそれに巻き込まれることがないとは言えない。メダルの数をすぐに問題にしたがるマスメディアや国の上層部を持つこの日本とて例外ではないであろう。最近の賭博問題然りである。
 私は早く、あの天真爛漫な側面を持つ福士加代子選手の元気な姿に会いたい。最後に、最も私を感動させたバドミントン女子ダブルス高橋・松友ペアの最後の勝利の瞬間の組み写真を一枚残しておきたい(朝日デジタル他)。

付録:次の2つ要望を箇条書きで言っておきたい。
 ①選手へのインタビューを担当する多数のアナウンサーの発する質問に内容が全くないのはどうにかならないか。②プレーの切れる野球などの応援では、その間に応援をし、プレー中は応援を止めてプレーの音を楽しめるようにしてほしい(テニス競技は参考になる)。必要以上の騒音は音を通してもプレーを楽しもうとする観客にとって最悪である。応援団というのはプレーを楽しまない人々のように思える。