記事一覧

問題は「大衆迎合主義」か?

 2016年6月のイギリスEU離脱はヨーロッパのみならず世界を驚かせた。またフィリピンでの大統領選挙にも驚いた。さらにその上を行ったのが11月のアメリカ大統領選挙でのクリントン氏敗北、そしてあのトランプ氏勝利であった。さらに昨日にはイタリアで大掛かりな憲法改正を国民投票にかける試みが行われ、レンツィ首相が敗北し、即座に辞任を発表した。ここではポピュリズム(大衆迎合主義)政党「五つ星運動」が勝利した。
 これらと少しだけ趣を異にしたのは、難民政策を争点にしたオーストリア大統領選挙のやり直し決選投票の結果である。リベラル派・緑の党・ファンデアベレン氏が51・7%を獲得し、極右で反難民の自由党・ホーファー氏の48.3%を破って勝利した。しかし僅差であり、近い将来にこの差はなくなると観測されている。
ファイル 256-1.jpg さて、本日の読売新聞朝刊の社説は、「首相辞任を招いた大衆迎合主義」となっている(写真)。私が今感じていることは、メディアがこのように決めつけることではたして何が解決されてゆくのであろうか、それは技術的なことでしょう、と言いたいのです。私は経済学を専門に勉強したわけではなく、ただこの社会に生きる人間としての感性でここに書いています。上に出てきた「緑の党」もかっては環境保護活動家たちの主張に乗った大衆迎合の党だったのだろうと考えます。でも、それは月日がたち環境破壊が不可逆的に進む現実の前では、社説に書かれるように「リベラル・緑の党」となってゆくのです。それは、あたかも小さな新興宗教が時代の流れの中で大きなまとまりのある宗教に変貌してゆくに似ています。かって「反原発」は、安全ですよ、そんなこと言っていてどうやって電力を供給できるのですか、とポピュリズム扱いされていたのですが、東北大地震とそれに伴う福島原発の破壊の前に、もはや日本の国の地方自治体選挙でも世界的にも大きな反原発の流れが息づいていると思われます。そのあたりの感覚に鋭い小泉元首相は、かっての「郵政民営化」に続いて「反原発」で動いています。
 それはそれとして、最も資本主義的に運営され民主主義を謳歌してきた欧米でこのような現象が発生するのはなぜかと思う。投下した資本以上に利益を上げられる資本主義が飲み込める地域は自国の外にはもはや無くなりつつあり、やむなく自国の中で搾取せざるを得なくなった結果、どの国でも富の局在化が激しく、特に何の蓄積もない若い人たちが貧困になってゆく。もちろん、資本主義を謳歌してきた国以外の国々はますます疲弊し、内紛がおこって難民が溢れることになる。そのように発生した難民に、発展してきたはずの資本主義国の若者が職を奪われることになる。悪循環が始まってしまった。それがヨーロッパやアメリカの現実でしょうか。だから地殻変動が起こっている。日本ではまだ大規模な地殻変動は地政学的な隔たりもあって目には見えていないが、いずれ同じ問題に遭遇することは間違いないであろう。すでに若者の貧困化が顕著になりつつある。
 いま眺めてみて、すでにとうの昔から共産主義国はない。キューバがその片鱗を残しているのみかもしれない。ソビエト連邦は崩壊し、いまの国は資本主義国と変わらない。中国も、あれが共産主義国だと思う人はもういないでしょう。一党独裁だけがその気配を残している。黒猫も白猫(黄色い猫)もネズミを捕るのが良い猫なのである。だとしたら、資本主義は誰かに負けたのではなく、自己崩壊したとしか言えないのです。そのことを私たちが心底自覚することなくして先は見えてはこないのでしょう。経済の成長ではなく富の公平分配を実現するしかないが、どうしてよいやらわからない。だから、私もよくわかっていない。

神戸マラソン2016、加齢の先を見つめて

ファイル 255-1.jpg ここ2、3年、日常のトレーニングでもレースにおいても頻繁に故障や故障に近い状況に追い込まれてランナー寿命もそう長くはないと思い始めていた。それはただ走ることだけの問題ではなく、日常生活の活力、集中力、知的好奇心にもマイナスの影響を与え始めていると感じていた。私が大学での仕事を終えた後の目標のひとつは、50歳過ぎてから覚えたランニングを通してこれらの問題、つまり肉体の再活性化にチャレンジすることであったので、故障の多発は私にとっては重大な問題となっていた。
 今年の11月20日の神戸マラソンには、昨年歯を食いしばってよくないタイムながらゴールしたご褒美だったか、75-79歳の年代別クラス9位となってシード権を戴き、幸運にもまた参加することができた。そして、その結果の先に確かな希望を見出すことができたので、ここに記しておきたい。
 日常的に感じている私の身体についての問題点は、右腰の重さである。特に腰の痛みがひどいということではなく、広い範囲で今日はここ、昨日は別の部位と動く感じで、神経的な原因というよりは筋肉部位の問題だと感じている。しかしそれを日常生活が困難になるほど悪化させないことが重要と考えてきた。そのためランニング姿勢を前傾過ぎないように強く意識し、骨盤の上に上半身をきちんと載せて走ることを心掛けた。また左右の歩幅のアンバランスを是正し、ストライド走法に近かった走法からピッチ走法に変更することをここ数年努力してきた。さらに、腰に与える衝撃を和らげるため、好んで履いてきたアシックスのスカイセンサーなどの軽めのシューズを見直し、衝撃吸収性と反発力に優れた少し重めのスピードライバル4などのナイキのシューズに変更した。
 しかし、故障の発生を抑え込むことには成功したものの、ファイル 255-2.jpg今夏の終盤徐々に気温が下がり始めてもなかなか思うようなペースで走れなくなっていて焦りを感じていた。そんなとき久しぶりに会った甥から思いがけないことを聞いた。それはプロテイン(タンパク質)をトレーニング後に補給するということであった。彼によれば、それによって肌の感触や体の動きが全く違うと言うのである。私の感覚からいえば、プロテイン利用はボディビルダーが筋トレの後に摂取することでたくましい筋肉を持った身体を作り上げるためという考えしか持ち得ていなかったし、私にとってのプロテイン(タンパク質)は私の専門でもあった生化学研究の対象でしかなかったのである。
 どうも私の頭の中は古色蒼然としていたようで、甥からその話を聞いた1か月後にやっとそれを試してみる気になっていた。私が手に入れたプロテインは、ウイダー(森永)の“muscle fit protein”と称するものでバニラ味が付けられており、ホエイプロテインとカゼインを含んでいる製品である。最初に飲んだのはロードを11キロ走った直後で、簡単に水に溶かしたものをおいしく飲むことができた。驚いたのはその2日後のことで、歩いても自転車に乗っても脚の“力”がそれまでの感じとは全く異なり、凄く力強いと感じた。これがプロテイン摂取の始まりであった。
 私は若干太り気味で70-71キロの体重があり、そんな私が走ればその約3倍の重量が一歩一歩にかかり、関節、脚の筋肉や骨に多大な負担がかかることになる。それによって筋肉繊維に損傷が発生し、それを日常的には食事によって摂取したプロテイン(消化酵素による分解でアミノ酸になる)を用いて修復することになる。これが筋肉に負荷をかけて運動するときには当たり前に起こることである。
ファイル 255-3.jpg 市場に出回っているプロテイン製品は消化吸収しやすいたんぱく質が使われていて、それを運動後急速なたんぱく質合成が起こるとされる少なくとも1時間以内に摂取することで、損傷の起こった筋肉細胞内で高い効率でタンパク質の合成が行われていると考えてよいと思われる。それによって傷ついた筋肉の回復を果たし、さらに“超回復”と呼ばれる“損傷以上の回復”をもたらしてくれるものと思われる。
 以上のような状況を1か月ほど続けた後に神戸マラソン2016に参加した。残念なことにこの日は11月後半にはめったにないような暑さで、スタート時点ですでに18.5℃とアナウンスされ、途中24℃とテレビで放送されたという(神戸気象台のデータを調べると、午前9時に18℃、11時から15時まではおよそ21℃であった)。この暑さが後半のタイムロスを招いたと思われる。
 1枚目の写真はコース図とその高低差を表している。私の予想とは別に、スタートして西に行くほど上っている感じで、とくに折り返し点近くで神戸海峡大橋のある舞子公園を挟んで27キロまでには10m近くのアップダウンが10回ほどあり、最後の35キロ先には30m近い急坂が待ち構えていた。2枚目の写真は公式の5キロごとのラップタイムであり、3枚目の写真は私のGPS機能付き時計の後半部分1キロごとのデータである。もちろん25キロあたりからじりじりタイムを落としているが、いつもフルを走って感じる“脚が出なくなる”と苦痛とも言える感覚は特になく、ただ走れるままに走るという不思議な感覚で走っていた。それでも熱いこともあって疲労感はあり、30キロ以降のすべての給水所で頭、首筋から背中、脚の表裏に水をかけることを繰り返していた。
ファイル 255-4.jpg そんな水をかけて身体を冷やすことの他にいつもと違うこともしていた。それはものを食べるということである。私はめったに食べることをしてこなかったが、今回は走る前からチョコパンなどを食べようと目論んでいた。実際に、バナナ以外に(バナナは手がべたべたになるので好きでない)チョコパン、どら焼き、ミカンなどを食べて走っていたのを覚えている。要するに、食べる元気がないのではなく、食べる元気があったのが不思議であった。そんなことにも時間を費やしてタイムは35、40キロとよくないが、3枚目の手元の時計データの後半部分でもわかるとおり(左から3列目はキロ数、5列目がキロ当たりの時間、分秒、7列目は平均心拍数、8列目は最高心拍数。0.2キロほどの距離の誤差がある)、キロ8分に落ちているのはわずかで、結構7分台前半で、特にあの急坂でも走れているのである。また、ゴール近くのデータでも余力は残っていた。速報タイムは4時間48分37秒であった。なお、状態の良さを示す数字としては、3枚目の写真の左から7列目の平均心拍数は145で、8列目の最高心拍数も160までしか上がらなかったことである。スピードが下がれば心拍数もきちんと下がっていて全く問題がなかった。
 今回不思議なことだが、ラップタイムを戻そう、ペースを維持しようなどとはほとんど思わなかったし、給水所での給水や給食の時を境に“歩こう”などとはほとんど考えもしなかった。それほど体力がついていたのかもしれない。その原因はと言えばプロテイン以外に考えられない。このことについてはこれから時間をかけて判断していこうと思っている。また技術的なことを一つ書くとすれば、走っているときにふくらはぎなどに違和感を少し感じたら、その部分に強い付加がかからないような着地の仕方に変更してそれをやり過ごすことがうまくできるようになったことである。ファイル 255-5.jpgこれは昨年の神戸マラソンでの教訓から得たことで、私の財産になっている。いろいろなことがあってバンザイしてうれしくゴールするが、その3秒後には疲労困憊でがっくりと頭が下がる。そんな姿をテレビ画面で撮影してくれた友人の畑野勝義氏に深く感謝する(4枚目の写真、左側に注意)。なお、チョコパンをほおばりながら元気に走る写真があるので、手に入り次第追加掲載したい。
 それにしてもスタートしてから舞子公園で折り返してゴールまで、熱い応援は途切れることはない。大いなる力を与えてくれ続けた。今年の私の2枚のゼッケンには大きな字で私の名前が印刷されており、それを見た沿道からの大きな声援には、びっくりするとともに大きな刺激になり、うれしかった。とにかく一所懸命に走っているときに名前を呼ばれると不思議な感覚になって涙が出る。ただただ沢山の神戸市民応援団に感謝したい。
 最後に、私の身体状態の維持・管理に力をくださいました「ちあき接骨院」と「佐藤治療院」の皆様には心より感謝を申し上げたい。

追記:珍しい写真が手に入りましたので、5枚目の写真として追加いたします。上はたしか30キロあたりで初めてチョコパンを食べて元気を出している私と、下はゴール直後で憔悴はしていてもまだ元気のありそうな私です(2017/01/05)。

相模原台地(相模野台地とも呼ばれる)に住んで

ファイル 254-1.jpg 関東に引っ越してから1年半が過ぎ、もうすぐ2年になる。私の住んでいる地域は、1年前に相模原市立博物館を見学したときから、相模原台地あるいは相模野台地とよばれるところであることは知っていた。そして、そこに住みながら様々な疑問が芽生えていたが、今年の9月29日の読売新聞に「相模原」という地名の謎が特集されていた(1枚目の写真)ことからもう少し地形学的なことを知りたいとの欲望に駆られていた。
 同時に、この地に住んでみると不思議なことがいくつもあり、たとえば次のようなことである。
①きわめて平坦であり、自転車移動が大変楽であること。これまでこれほど平坦な土地に住んだことのない者にはこのこと自体が不思議である。
②孫のサッカー見物のためかなり広い範囲を自転車で走り回ったが、畑ばかりで水田は相模川のすぐそばか、浸食でできた谷筋以外にはなかなか見られないこと。
③なぜか果樹園があちらこちらに散見されること。
④平坦なところに“林間”と名のつく地域がいくつもあり、木が林立する小さな公園やごく小さな雑木林があちらこちらに残されていること。
⑤なぜか1キロ以上の直線道路が私の住む近所に少なくとも2本もあること。
⑥大人から子供までがウオーキング、ランニング、サイクリングなどを楽しめる幅2~3メートルほどの良く管理された“緑道”が、この地域のあちらこちらに張り巡らされていること。
⑦広い公園・緑地がたくさんあり、また軍事施設が多くあること。
 このような疑問を解決するにはひょっとすると地形学的なことが大事なことかもしれないと思い、いつものことであるが「相模原台地」についてWikipediaに尋ねた。また、相模原市立博物館にも再度訪問して少し勉強もした。その結果次のようなことが徐々に分かってきた。まず2枚目の地形図の写真から見てみたい。
 その写真の左部分を見ていただくと、神奈川県の中央部にあたるこの相模原(相模野)台地は、左に大きな相模川、八王子を西端とし、ファイル 254-2.jpg境川の北部分から右下に曲がって三浦半島にまで達する“いるか”のような形の多摩丘陵に挟まれている領域であることが分かる(www.geocities.jp, IMGP1379.JPG)。右上の図は相模原市を中心として書かれたもので、左下の相模川と右上の境川(色がついてないのではっきりしないが)に挟まれた部分で、つまりは、北は多摩丘陵から西は相模川左岸(川の左岸右岸は水の流れる方向を見て左を左岸、右を右岸と呼ぶ)、東は境川の左岸の一部を含む。そしてこの地図には書かれていないが、小田急線の相模大野、東林間駅と書かれている所からこの相模原台地は南に向かって大和市、座間市、綾瀬市、海老名市と続き,そして藤沢、茅ヶ崎の北部に至る。狭いところでは東西2キロ、南に34キロの広い範囲で、元は相模川の堆積物によって形成された扇状地である。扇状地は、土砂を含んだ川水が山間部から急に平地に出たところで大きな粒子の土砂を失い、それが堆積することから始まる。その最初の部分の堆積物は比較的大きな粒状物で保水性に乏しく、また地下水位も低い。しかし、扇状地の先端部分になると小さな粒子が多くなり、海に開けた三角州の性質とよく似て保水性が上昇する。扇の中央部分はその中間的な性質を持つことになる。この上に富士山や箱根山の噴火の火山灰が降り積もった構造になっている。大和市のあたりではこの黒土ローム層は1.6メートルに及ぶとされる。
 この地域では、右上の地図のAからBの線での立体断面図で、この段丘上段では、多摩丘陵の谷戸(浸食によってできた谷様の地)を水源として流れる境川以外にはこの平地を分断する(開析する、と言う)川がなく、南北の高度差は当然あるもののそれ以外に高低差をつけることがない。この上段が南に折れ曲がって続き、したがって、私どもが住むこの扇状地の右下中央部分では、あくまで平坦であり、水田は難しく畑地ばかりとなり、地下水位があまり高くなくても栽培可能な果樹園などができることになる。このことを理解できれば上の疑問のいくつかに答えることになる。
 そしてこのような地形がこの地域のその後を決定することになった。江戸時代からこの地は新田開発が計画され実行されてきた。ファイル 254-3.jpgしかし扇状地で河川も少なく保水性の良くない土地柄のため畑地としてしか使えなかった。それでもそこに入植した人たちはそれに耐えて生活するために、コナラやクヌギを植えて薪炭という燃料を確保した。現在この地域に見られる“林間”をなす雑木林はその名残である。
 そのような困難を克服して水田開発を行うため明治以来大規模な河川開発事業が計画されたが実を結ばず、やっと昭和に入ってから相模多目的ダムの計画が動き、敗戦後の1947年についに相模ダムが完成した。もとは1000haの水田を作ることを目的にしたが、敗戦後の食糧増産を目指して2700haの畑地への灌漑を計画することとなり、この中には横浜市や川崎市への上水道水・工業用水供給水路建設も含まれていた。1963年にやっとすべての事業が完成した。建設された水路は幹線から末端まで含め160キロ以上とされる。1953頃から始まっていた畑地への通水はその後増え続けたが、次第にこの地域全体の市街地化により需要が激減し、詳細は分からないが1970年頃には大規模な農業用水としての使命は終わったようである。そして幹線水路の多くは緑道緑地として整備されてきた。私たちが現在ウォーキングやランニング、サイクリングなどで楽しんでいる緑道はこのような歴史を背負っていることが分かる。
 実はこの平坦な地形と首都圏への近さから、この地は軍都計画の対象となってきたのである。その内容は1枚目の写真の記事に詳しい。それによれば、陸軍士官学校を東京市ヶ谷から移すことに始まり(相武台へと思われる)、この台地の北半分は相模陸軍造兵廠に始まり南には高座海軍工廠ができ、その後海軍厚木基地などが続々生まれていった。なお、厚木基地は厚木市にあるのではなく、大和市と綾瀬市にまたがって存在する。不思議なネーミングである。
 敗戦後これら軍事施設の大半は米軍に接収され、この地域は基地の街が続くことになった。しかし、それらも徐々に返還されつつあり、その跡地は大規模な公園やスタジアム、また工業団地へと変わっていった。その典型は、巨大な日産自動車工場などの移転であり、いまもその一部は、と言っても大きいが、身近に見ることができる。さらに大学などの用地にかわるものもあり、相模原は軍都から文教地区へと変貌しつつあるようである(1枚目の写真)。その代表的なものが現JAXA宇宙航空研究開発機構で、旧宇宙科学研究所の東大駒場キャンパスからの引っ越しである。その相模原キャンパスには、ファイル 254-4.jpgペンシルロケットからの展開を見せる実物展示や、「はやぶさ」などの実物サイズの模型の展示などが豊富で、なかなか興味深い(3、4枚目の写真。上2枚は実物大「はやぶさ」模型、左下は現在金星に向かっている「あかつき」模型、右下は日本のロケット発展の展開展示)。そのそばには相模原市立博物館もあり、JAXAと組んで「はやぶさ」の回収カプセルのいち早い展示や「はやぶさ」が回収した微粒子の展示などが行われ、私も顕微鏡下でそれを見ることができた。
 最後に“海軍道路”について書いておこう。これは境川左岸の横浜市瀬谷区にあり、このいかめしい名前の道路は本当に3キロ弱の直線である。この“海軍”はアメリカの海軍だと思っていたが、実は日本海軍が付けた名前のようで、かっては様々な軍事物資の補給庫、貯蔵庫などであったらしいが正確なことはほとんどわからないとされる。ただ、滑走路としても使えるように直線になっているのは本当らしい(http://hamarepo.com/story.php?story_id=374 )。敗戦後この場所は米海軍上瀬谷通信施設として接収されていた。かなり前からその道路わきに400本以上の桜が植えられており、春には多くの見物人でにぎわうらしい。私も何度かこの直線道路を走ったが、まるで広い荒野を走っている感じがなかなか楽しいものである。この一帯は昨年の6月をもってその広大な地域は完全に返還され、現在どのように使うかが検討されている。
 ごちゃごちゃと書いてきたが、一つの地域がどのように発展してゆくかは、そこがどのような地形として出来上がってきているかが決定的に重要であることを、これを書きながら私自身に認識させることになった。もっと掘り下げればさらに興味深いことが出てくる可能性もあるので、さらに興味を持続させたい。なお、このブログを書くに当たりWikipediaの記事、足を運んだ相模原市立博物館や相模原市のホームページ、さらに森慎一氏の論文「相模原台地周辺の地形・地質」などは大変参考になった。ここに感謝する。

追記:1枚目の写真の記事に地名に関する面白い記述があった。それは「***野」と「***原」の違いで、「野」は利用しにくい草原を指し、「原」は広い平地を指すという。何か私の感覚とは真逆である。確かにこのあたりの「野」のつく地域は高低差が大きく移動にも困難が伴うように感じる。軍部は軍都計画の時に「相模野」ではなく「相模原」という地名に強くこだわったという。