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2011年09月の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 大分から熊本までの九州横断ドライブ310キロの旅ー(2)タデ原湿原

  • 2011/09/17 09:45

 まだ朝霧が残っている朝、湯布院を出て「阿蘇くじゅう国立公園」に向かって走り出した。途中険しい山道の途中にある「桂茶屋」という面白い食事処・お土産やで休憩して少し買い物をし、ひたすら走って「九重“夢”大吊橋」で一服。そのパンフには、「九重“夢”大吊橋は九酔渓の標高777mに架かる長さ390m、高さ173mという、人が通る吊橋としては日本一です。大吊橋からは『日本の滝百選』にも選ばれ、九州でも有数の大きさを誇る『振動の滝・雄滝』と『雌滝』を望むことができます」とある。国や県の補助を受けることなく総工費約20億円をかけたようで、確かに1枚目の写真のように立派で、多くの観光客がその吊橋を渡るのを楽しみにしているようであった。
 そこを離れて暫くのドライブの後、2枚目の写真にある長者原に着いた。そこにはしっかりしたビジターセンターがあり、そこを起点にした「タデ原湿原」が広がっていた。この湿原はラムサール条約に登録されており、貴重な動植物の保存に貢献していると言われる(http://kyushu.env.go.jp/nature/tyojyabaru/tadewara/index.html )。この湿原はしっかりした遊歩道が配置されており、安全に歩道わきに咲いている花などを観察することができる。そこには様々な花が咲いていたが、私の一押しは丸い紫色の花でヒゴタイという花である(3枚目)。九州の2か所にしかないという花で、何とも美しい。このマリモのような形は花そのものではなく、小さい花が丸い形に集まっているもののようである。なお、花にとまっている蝶はヒメアカタテハらしい。4枚目の写真の上はツリガネニンジン、下はたぶんセリ科かオミナエシ科の花。5枚目の上はマツヨイグサの一種、下はクサフジである。
 なお、このシリーズの花の名前と蝶の名前は、このようなものに疎い私に代わって、大阪大学大学院理学研究科生物科学専攻・常木和日子教授に教え乞うた。ここに深く感謝したい。

[簡易復元] 大分から熊本までの九州横断ドライブ310キロの旅ー(1)湯布院

  • 2011/09/16 21:23

 残暑厳しい8月末、二泊三日で大分から熊本まで、九重・阿蘇を眺めながら旅をすることにした。新大阪から小倉まで新幹線で行き、特急ソニックに乗り換えて大分まで出かけ、そこでレンタカーを借りて気ままに横断旅行を始めた。まずは湯布院である。Wikipediaによれば、「湯布院町(ゆふいんちょう)は、大分県のほぼ中央に位置し、大分郡に属していた町である。町内に3ヶ所の温泉地がある町として町名は有名であった。2005年10月1日に郡内の挾間町、庄内町と合併し、由布市(ゆふし)となり自治体としては消滅した。現在「湯布院町」という地名は、旧町域にある大字の頭に付く形で残っている。・・・(中略)・・・町名とインターチェンジは「湯布院」であるが、駅名と温泉名は「由布院」である。しばしば「湯布院温泉」と表記されるが、実際には「湯布院温泉」なる温泉地は存在しない。 1955年に由布院町と湯平村が合併した際、新しい行政区域が湯布院町として誕生した。湯布院というのは,本来自治体名・町名である。ところが、1959年5月4日に、湯平温泉と由布院温泉、塚原温泉が国民保養温泉地に指定された際、指定名称が湯布院町内の温泉を対象とする意味から「湯布院温泉」の名となった。この国民保養温泉地の新名称が「湯布院温泉」という架空の温泉名が流布するきっかけとなったという説もある。」
 とにかく名前の由来はややこしくてよくわからないが、我々としては落ち着いて楽しめればそれでよいのである。街中は清里のようにでかすぎず小規模で、食べ物屋や土産物屋もたくさんあってウィークデーにもかかわらず女性を中心としてにぎわっていた(いったい男はどこに行ってしまったのだろうかといつも思う)。そんな風景の写真が1枚目の写真である。町の背後には由布岳が控えている。
 湯布院にはいくつかの美術館があるが、そのうちのひとつが山下清の原画を展示している場所がある。それが2枚目の写真で、私はこれまで原画を見たことがなかったのでそれを見ることにした。あまりしっかりとはしていない建物の二階に原画が展示されていた。その原画の数々は唖然とするほど素晴らしいもので、その色使いといい構成といい申し分なく、私の心にしっかりと根ずく様な出来栄えであった。沢山の花火の絵に交じって虫の絵もたくさんあり、驚いたことに真っ黒な背景に描かれた烏(からす)の絵は素晴らしい構成であった。残念ながら写真を撮ることができなかったのでネットに出ている写真を使わせていただくことにした。それが3枚目の組み写真で、「長岡の花火」と「烏」である。
 彼が生きた時代は紙が必ずしも十分にあった時代ではなかったようで、いろんな材料にちぎり絵が描かれていた。団扇やお盆などなんでもござれであった。そんな山下清像についてWikipediaは次のように言う。
 「山下 清(やました きよし、1922年3月10日 - 1971年7月12日)は、日本の画家。日本中を放浪していたことで知られる。東京府東京市浅草区田中町(現・東京都台東区日本堤)に生まれ、翌年には関東大震災によって田中町一帯が焼け、両親の郷里である新潟県の新潟市(現:中央区)白山に転居するが、その2年後の3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。1932年(昭和7年)に母ふじが再婚。1934年(昭和9年)の春に、母ふじが清を含む子供3人を連れて北千住(足立区千住)の木賃宿へ逃れるが、生活が困窮し、すぐに杉並区方南町(現:杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。この頃に母ふじの旧姓である山下清を名乗るようになる。その後知的障害児施設「八幡学園」へ預けられる。この学園での生活で「ちぎり紙細工」に遭遇。これに没頭していく中で磨かれた才能は、1936年(昭和11年)から八幡学園の顧問医を勤めていた精神病理学者の式場隆三郎の目に止まり、式場の指導を受けることで一層充実していった。八幡学園での在籍期間は長かったものの、18歳の時に突如学園を後にし、放浪の旅へと出て行った(1940年から1954年まで)。・・・(中略)・・・驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」「桜島」など行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。とりわけ、花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げている。花火を手掛けた作品としては、『長岡の花火』が著名である。しかし、旅先ではほとんど絵を描くことがなく、八幡学園や実家に帰ってから記憶を基に描くというスタイルだった。このエピソードから、清はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれている。」
 このサヴァン症候群とは、一度聞いただけの音楽でもそれを見事に演奏できる驚異的な記憶力の持ち主であったり、普通のことはそれほどできるわけではないが圧倒的な記憶力の持ち主のことを指しているようだ。その能力を開花させたのが山下清であったようである。それにしてもそこに展示されていた日記を見る限り、しっかりとした文章ときれいにまとまった字が印象的であった。
 さて、湯布院といえば四方山に囲まれた盆地のようなところで、静かに温泉に浸ることのできる田舎との印象がある。夕刻予約したホテルに着いてみるとまさにそんな雰囲気の場所であった。夜ゆっくりと温泉を楽しんだ翌朝外に出てみると、昨夕見事に見えていた由布岳は雲に覆われ、朝霧がきれいに周りの山すそを取り囲んでいた。その朝霧は刻々とその姿を変え、何とも言えぬ美しい雰囲気であった。その変化を組み写真にしたのが4枚目と5枚目の写真である。湯布院の雰囲気がよく表れていると思っている。

[簡易復元] 中国高速鉄道で大事故―事故原因の解明における日中の差

  • 2011/09/16 12:09

 7月23日中国高速鉄道で大きな追突事故が発生し、40名近い死者が出た。日本やドイツからの技術移転を受けながら高速鉄道を自主開発と宣伝してきた中国としては、大きな挫折を感じたのではないだろうか。確かに、ここ数年の高速鉄道網の広がりは驚嘆に値する。はたして安全は担保されているのだろうかと心配でもあり、中国国内でもその声は抑えきれないほどの広がりを持ったようであった。1枚目の写真はその現場の写真である。
 それより驚いたのは、この事故の先頭車両を穴を掘って埋めたという事実である。これにはいろいろな言い訳があるようであるが、事故原因が見つかる可能性の高い証拠物件を埋めてしまうというのは、ちょっと想像ができない暴挙であろう。報道によれば、そのように埋めてしまうのは中国での列車事故現場ではよく行われていて何の不思議もないという。いったいどうなっているのだろうか。そのことを伝える読売新聞の写真が2枚目である。
 そんな時、かって日本がロケット打ち上げ失敗の原因探しに、海底3000mから事故を起こしたロケットエンジンを回収したことを思い出した。
 「失敗百選 ~H-IIロケット8号機の打ち上げ失敗(1999年)~」は次のように言う。
「運輸多目的衛星を載せたH2ロケット8号機が、1999年11月15日午後4時29分、宇宙開発事業団・種子島宇宙センター (鹿児島県)から打ち上げられたが、第1段目エンジンが予定時間より早く停止し、予定軌道をはずれたため、宇宙開発 事業団は地上からの指令でロケットを爆破し、打ち上げは失敗した。(中略)二段式のH2ロケットの1段目エンジンは約6分間燃焼するはずだったが、点火から約4分後に停止した。このため ロケットの上昇速度が落ち予定軌道をはずれた。さらにその状態で1段目と2段目が分離し、2段目エンジンが燃焼を始めるなど、制御不能に近い状態になった。事業団はこのまま飛行を続けると追尾不能になり地上への落下などの危険が生ずると判断、打ち上げから7分35秒後に爆破指令を送った。管制記録などから高度46キロの上空から落下し、小笠原諸島の北西海上150キロ付近に墜落した。
 2000年1月23日 8号機のエンジンは小笠原沖水深約3000mの海底に沈んでいるのを海洋科学技術センターの調査船が発見。エンジンを回収した。宇宙開発事業団は28日、小笠原沖の海底から回収したエンジンを科学技術庁航空宇宙技術研究所に搬入し、打ち上げ失敗の原因究明を始めた。(中略)主エンジン『LE-7』の水素燃料ポンプの羽根が破損したことを突き止め、ポンプで発生した大量の気泡が原因とした。これらの原因追求結果、後継のH2Aロケットの「LE-7」 に反映された。」(http://www.sydrose.com/case100/124/ )。3枚目の写真に写っているのは、海底から引き上げられたロケットの主エンジンである。
 深海からのこのエンジン回収劇はNHKスペシャルでも放映されたことでよく記憶している。3000m海底から3m四方のものを回収するというのは途方もないことだろうと思う。それをしてでも事故原因を追究しようとした日本の技術者の心意気には感動した。中国の技術者にも政治社会状況に流されることなく、技術の安全性を高めるためにも厳しい事故原因追及の土壌を創り上げられることを期待したい。“急ぐな!中国!”と声を大にして叫びたい。
 そうは言っても日本の技術者魂が万全だとはとても言い難い。東日本大震災で起こった福島第一原子力発電所事故の内情は、はたして正確に公表されたのであろうか。このことについては大いに疑問だとする声が圧倒的である。このことを含めて事故調査委員会が事故原因の詳細を早く明確にすることを望みたい。

 なお、8月12日中国の車両メーカー「中国北車」(今回事故を起こしたメーカーとは別会社)は故障が多いとして54編成の車両の回収を当局に申請したようである(4枚目の写真)。

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