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2011年10月の記事は以下のとおりです。

山田中学―宇治山田高校野球部の系譜(1)

  • 2011/10/08 15:37

山田中学―宇治山田高校野球部の系譜(1)

 この記事のオリジナルは2009年秋に書かれたものであるが、それが失われたため新たな資料も加えて完全に再編成し直して書いておきたい。

 ことの発端はこうである。2009年の第91回全国高校野球選手権大会が8月8日からもちろん甲子園で開催されたが、その入場式の先導役を果たしたのは、なんとわが母校三重県立宇治山田高等学校野球部主将高橋俊平君であった。そして、始球式を務めたのは広島県立国泰寺高校野球部主将田中玲朗君であった。どうしてだろうか?
 1枚目の写真は、1984年7月31日付の朝日新聞(名古屋本社版)の夏の甲子園大会の広告ページである。これには私が取材を受けてその記事が右下にあるが、それは次のブログの話として、ここでは右上の記事の写真(拡大版)をご覧ください。タイトルは「第一回大会に『山田中』が出場」とある。この第一回大会出場校を「高校野球 甲子園優勝物語」(ベースボール・マガジン社、2007年)で調べると次のようになる。秋田中、早稲田実業、山田中、京都二中、神戸二中、和歌山中、広島中、鳥取中、高松中、そして久留米商の10校である。
 では、なぜ第91回大会に宇治山田高校と国泰寺高校が特別扱いされたかというと、宇治山田高校と国泰寺高校(前広島中)の2校だけが、その後の全国規模の大会への参加がないことと第一回大会への貢献を評価してのことだったようである。Wikipediaもその辺りの事情を、「開会式の入場行進先導役は宇治山田(旧制 三重県立第四中学校)、始球式は広島国泰寺(旧制 広島県立広島第一中学校)に選定された。これは第1回大会の出場10校中、両校のみが、それ以降の全国大会出場から遠ざかっていたためである」としている。
 入場行進を先導した高橋君の勇姿は3枚の写真におさめられている(白いシャツの胸に“Y”の文字がくっきりと輝いている)。それから2年の今年の大会にも宇治山田高校の出場はない。それにめげずに甲子園出場を目指して頑張ってもらいたいものである。
 なお、甲子園の写真は友人石川三雄氏から提供されたものである。ここに深く感謝する。

[簡易復元] 豪雨の甲子園でグランド整備を楽しむ

  • 2011/10/08 13:12

(これは2011年8月20日頃に書いたものであるが、簡単に復元しておく)

 第93回全国高校野球選手権大会は8月6日から15日間甲子園で開幕した。例年のごとく甲子園に出かける私としてはその機会を狙っていたが、最終日の前日の準決勝戦の2日目に出かけることにした。高校野球観戦は例年のこととて特に写真を撮ることも予定しなかったためにカメラは持参せず、また今年は東日本大震災のための電力事情切迫による早朝開始のことだけに集中してやってきた。
 少し記憶があいまいになってきたので正確ではないが、8時過ぎには球場に着いたがファンがいっぱいで大混雑。切符売り場に長蛇の列で、中央特別自由席(ネット裏で銀傘の下)に入ったのは8時半であった。比較的良い席に座って開始を待つこと1時間。確か開始は9時半であったと思う。対戦は、光星学院vs作新学院であった。
 開始がすぐに光星学院が先制し、試合は順調に進んでいたが3回頃だったであろうか、突然雨が降り出して試合が中断された。グランドキーパーの方々はマウンドとホームベース付近に大きなシートをかぶせて雨が上がるのを待っていた。そしてほぼ1時間かなりの雨が降り、試合再開が可能なのか私は心配になってきた。そこで思い立って持っていた携帯電話のカメラで写真を撮ることにした。特に画素数が素晴らしく大きいというカメラでもないので取りあえず撮っておくという感じで撮っていった。しかしそれがなかなか面白かったのである。なお、写真は解像度が悪いために4枚の写真を組み合わせて一枚の写真にしてあるのをお許し願いたい。
 雨が小降りになりだしたときの写真を組み合わせたものが一枚目の写真である。グランド全体が完全に水浸しなのがよくわかると思う。右上を見ると分かるが、暗くてライトが点灯されていた。そして雨が上がるとすぐにグランドキーパー15名が現れ、まずマウンドとホームベースにかぶせてあったビニールシートを順番に、水をこぼさぬように用心深く持ち上げ、ネット前まで持ってきてそこに水を流していた。その様子を映しているのが2枚目の組み写真である。
 その左下とその右の写真に白い四角いものが見えるであろう。それは、ベースほどの大きさで多分吸水性に優れたものを入れた袋のようなもので、それを水が溜まった各ベースの周りやマウンドの周りにおいて水を吸わせるのである。そしてそれに十分に水を吸わせた後で、そこに乾いた新しい土を入れ、いわゆるトンボでならしてゆくのである。沢山水が溜まった二塁ベース後方では、多分太い鉄釘を打ち込んで少し穴をあけ、そこから下の砂の層に水を流すようなこともしていた。
 その作業、15人全員で動き回って30分、見事に整備してゲームは再開となった。強打と好守備の光星学院は作新学院を圧倒して勝利し、陸奥に優勝旗を、と期待を抱かせる勝ちっぷりであった。3枚目の組み写真は、再開されたゲーム風景とグランドの外の風景の組み写真である。今年はどこにでも「がんばろう!日本」の横断幕が見える。
 その光星学院、20日の決勝戦では中盤から日大三高の打力と好守備に圧倒され、11-0と敗れて青森に優勝をもたらすことはかなわなかった。

[完全復元] 余部(あまるべ)鉄橋の2世代を見る

  • 2011/10/07 22:33

(この記事のオリジナルは2010年9月29日に書かれたものである)

 かって突風による悲惨な転落事故が起き、そんな事故を防止するべく新しい鉄橋が建設された現場を見たいと、好奇心旺盛は友人たちが現場(余部鉄梁、愛称余部鉄橋)を訪れ、その写真を提供された。その時の話を少しだけ聞きかじった私だがその日記をここに書いておきたい。
 余部鉄橋は山陰線の餘部駅(姫新線の余部「よべ」駅と区別するために違う字をあてたと言われる)-鎧駅間に架けらた高さ41.5メートルの鋼材の橋で、明治42年から2年あまりの歳月をかけ、アメリカから輸入された資材、33万円の巨費、延べ25万人を動員して明治45年(1912年)に完成した。朱色の橋梁や桁の美しさや当初東洋一(現在でも日本一)と言われた高さなどから人気を集めたが、昭和61年(1986年)12月28日午後、回送列車の客車8両が最大風速33メートルの突風にあおられて橋梁中央部分から転落した。その橋梁の下にあった水産物加工会社で働いていた主婦5名と車掌の1名が亡くなる惨事となった。
 その悲惨な事故と風による運休が多いことなどから新しい橋梁への建て替えが議論され、平成19年から3年の工事の後今年2010年8月12日に新しい橋梁への切り換えが行われた。明治45年から98年間の使用に耐えた鋼材に代わって鉄筋コンクリート製の橋梁となった。1代目の橋梁は、この場所が海岸のそばにあり、塩分を含んだ強風が吹きつけ、また雪も多いなどから建設当時から綿密な点検が行われ、必要に応じて塗装のやり直しや部材の交換などが絶え間なく行われてきたようである。これが転落事故以外の事故を封じ込めてきたのであろう。今年8月12日の新しい橋の運行記念として始発列車には地元の皆さん120名がお乗りになったようである。
 さて、1枚目の写真は、その橋梁の下の売店で売られている絵葉書の写真を拝借したものである(写真はすべてクリックで拡大可能)。桜の咲くころの写真のようで、朱色の橋脚が美しい。2枚目からは今回友人が撮影してきてくれた写真で、まずは駅名の看板である。余部ではなく餘部になっているのは上に述べた通りである。3枚目は下から新しい橋を眺めたもので、丁度運よく特急列車が通過中である。写真から分かるように、今回の橋梁には透明なアクリル板を使った防風構造が付けられており、これまで以上に安全な橋になったとのことである。
 4枚目の写真は残された橋脚などが写っているもので、多分この3本ほどの橋脚は記念として何らかの形で残されるようである。その上の部分では、5枚目の写真のように今もなお古い橋の部分の撤去工事が行われている。
 この新しい橋が安全で、いつまでも美しく、地元をはじめみんなに愛され続けることを祈りたい。

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