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2012年02月の記事は以下のとおりです。

寒風の中 淡路島を駆け抜ける (4) 国生み神話の淡路島

  • 2012/02/06 17:41

 淡路島はどうやら国生み神生みの神話に満ちている地域のようである。それを示しているのは「おのころ島神社」と「伊弉諾(イザナギ)神宮」などの存在である。おのころ島についてWikipediaに尋ねると次のように言う。
 「オノゴロ島(オノゴロしま、オノコロ島とも)は、日本神話に登場する島。イザナギ(伊弉諾)・イザナミ(伊弉冉)の国産み・神産みの舞台となる島である。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「石殷」で一字)と表記する。
 イザナギとイザナミが天(『古事記』では高天原)にある天浮橋に立って天沼矛(あめのぬぼこ、あまのぬぼこ、日本神話に登場する矛)を混沌とした下界に突き刺し、『こをろこをろ』とかき混ぜて引き上げると、矛の先から滴り落ちた塩が積もり重なって島になった。これがオノゴロ島であるとする。
 二神はオノゴロ島に降り立ち、そこに天御柱(あめのみはしら)を建て、島々や神々を生み出した。『オノゴロ島』は、『自ら凝り固まった島』の意とするのが一般的である。しかし、天沼矛でかき混ぜた時の『こをろこをろ』という擬音が語源であるとする説もある。オノゴロ島は一般には架空の島と考えられているが、実在する島だとする説もある。」
 このおろころ島に降り立った二神は結婚し、そして最初に生み出したのが淡路島、そして次々と本州を含む7つの島、さらには6つの島を生み出したとするのが国生み神話である。その最初のおのころ島を祀ったのが「おのころ神社」、そして国生みの儀式を終えた伊弉諾の尊が余生を過ごした後に建てられたのが「伊弉諾神宮」と言われている。
 1枚目の写真はおのころ島神社の写真で、高さ21.7メートルの大鳥居が圧倒的で、神社の前のきれいな松毬を付けた松は見事であった。また2枚目3枚目の写真は伊弉諾神宮のもので、3枚目には太陽の運行を調べると淡路島が日本の中心であるとする図が描かれていた。それを信じるかどうかは別にして、何故にそのような神話が淡路島を中心として語り伝えられてきたのかは興味深い。

寒風の中 淡路島を駆け抜ける (3) 洲本城

  • 2012/02/05 23:51

 ホテルで朝食を済ませてから、時間に余裕があったので近くにある洲本城に向かった。それは三熊山ドライブウェイを10分も上ったところにあり、よく整備されているが現在もさらに整備のための工事が行われていた。あるWeb Site(みんカラ、http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/401277/)によれば、「洲本城は戦国時代の山城(上の城)と、江戸時代の平城(下の城)と2つあります。大坂夏の陣の後淡路は徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、家老の稲田氏一族が由良城代となりましたが、寛永8(1631)年、由良は淡路の東南隅にあり、土地も矮小で城下の経営も出来ないことを理由に、洲本に淡路の拠点を移しました。これは城下町ごとの大移転であったため俗に『由良引け(ゆらびけ)』と呼ばれています。
この時築いた城が、平城で『下の城』といわれる洲本城です。家老の城だったせいか、『城」』の呼称をせず『お居館』と呼ばせていたそうです。明治5(1872)年の廃藩置県まで稲田氏が城主でした。現在は裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化資料館用地になっています」とある。実はこの平城らしきものが、城に上る前の展望台から右側遠くに見えた。不思議にきれいに整地された場所だったので、写真にとって拡大してみると石垣なども見え、これがきっと平城だと思われる(1枚目の写真の下部分)。
 とにかくこの洲本城は複雑な経緯をたどってきたらしい。さらにさまざまなサイトで勉強すると、戦国時代には畿内・阿波国の権力者であった三好長慶が洲本城も管理したようで、さらに私が住む高槻の三好山にあった山城・芥川城も彼のものであったということで、なんとなく親近感を感じてしまう。それにしても彼は、ちょっと変わった戦国大名のようで、キリスト教の布教を許し、彼の周りでは多くの者が洗礼を受けたという。
 そんなことはまあいいとして、洲本城の山城には昭和天皇を記念して昭和3年に天守閣を模した模擬天守が展望台として造られたが、最近それにひびが入ったとして補修が行われている。その傍からは洲本の街や港がよく見える。また、このお城には「芝右衛門狸のおはなし」との伝説も伝えられており、狸も祀られていて面白い(2枚目の写真)。
 でも、私にとって最も奇妙なのは石垣である。立派な石垣がたくさん残されているが、そのほとんどに大きな木が根っこを張っていることである。こんな石垣は見たことがない。このお城(石垣)は500年の歴史があるが、そんなことを彷彿とさせるが、これは由良に城を築くときに廃城とした後に石垣に生えた木が根を張ったのであろうか、あるいは何かを意識してのことなのであろうか。私には石垣に根を張れば石垣の崩壊につながるように思えるのだが、いかがであろうか。でも、面白いお城を見せていただいたと思っている。

寒風の中 淡路島を駆け抜ける (2) 水仙郷から洲本温泉へ

  • 2012/02/05 17:42

 「奇跡の星の植物館」を出て東海岸寄りを一路南に車を走らせ、途中から険しい山道を走るとやがて水仙が咲く「立川水仙郷」の入り口についた。そこから花畑に行く道はなかなか難しい急斜面にあり、びっくりするような下り坂を降りるとあたり一面に水仙が咲いていた。実は淡路島にはよく似た施設が二つあり、これは洲本市にある方で、もうひとつは南あわじ市にある「灘黒岩水仙郷」である。これらについてWikipediaは次のように言う。
 「南あわじ市の灘黒岩水仙郷と並び淡路島2大水仙郷の1つと銘打っている。1月から2月にかけて、約500万本の水仙が太平洋に面した南向き斜面一面に咲き誇り、独特の甘い香りを漂わせる。灘黒岩がニホンスイセン一種の純粋な自生地なのに対して立川は栽培による植栽が殆どの観光農園であり、品種も地中海原産が多くを占める外来種である。また、灘黒岩が公営であるのに対し立川は私営である。」
 というわけで私たちはこの二つの水仙郷を見て回った。残念なことに昨年暮れからの暖かい気温で水仙の花が咲く時期が早まり、私たちが訪れた2月初頭でも花がかなり少なくなっているようであった。それでも群生という雰囲気はちょっと薄れてはいても、花はきれいで十分に鑑賞に値するものであった。確かに後で訪れた灘黒岩水仙郷はほぼ完全に単一の種類(多分ニホンスイセン)のようであったが、立川水仙郷はまっ白い水仙がかなり混じっていたように思う。ここではそのどちらに咲いていた花であったかは気にせず、撮影した水仙の画像を2枚の写真にまとめてお見せしたいと思う。ご覧いただければ幸いである。
 立川水仙郷、灘黒岩水仙郷と続けて水仙を楽しんだ後、さらに南に下って大鳴門橋記念館に立ち寄った。そこで大鳴門橋建設の様子を映像で見た後屋上からその橋を見るつもりであったが、風が強かったこともあり諦めて高速道路で北に戻り宿泊場所である洲本温泉に向かった。そこで一泊した翌朝、部屋の窓から見た日の出は美しかった。雲間から出た太陽が静かな海面を照らす景色は美しいの一言であった。その写真を1枚の写真にまとめたものを3枚目としてお見せしたい。

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