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2012年10月の記事は以下のとおりです。

秋の山口・萩から長門(仙崎)を行く (2)萩城跡と萩城城下町

  • 2012/10/19 23:25

 萩に来て最初に訪れたのは萩城跡である。その傍にある駐車場に車を止め、まずは萩城跡に向かい、その後レンタサイクルに乗って快晴の城下町を歩き回った。
 その萩城跡であるが、明治7年に建物はすべて破棄されて石垣や濠しか残っていないが、指月山の麓に造られた平城が主で、頂上には若干の山城も築かれた平山城である。そのいきさつについてWikipediaは次のように言う。
 「萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城である。別名・指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。関ヶ原の戦いで敗れて周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存している。」
 1枚目の写真にはその建造のいきさつが述べられている。その他のいくつかの文書を読んでみると、外様の毛利家がこの地にこの城が築けたのはこの地が当時の主要な交通路から外れ、また主として2枚目の写真に見られるようにそれほどの防備を持たない平城でもあることから徳川幕府から建造を許されたのだと言われている。要するに、毛利家をこの本州の西端の日本海側に封じ込めたもののようである。しかしその写真の看板に書かれているように、後に長州藩が維新の主役に躍り出たことにより、この城を含めた萩が当時の日本の主要な拠点となったのである。
 その萩城のおひざ元が萩城城下町といわれるところである。観光用の「萩ナビ」によれば、「萩は毛利三十六万石の城下町である。
…とか言う場合の“城下町”とは萩全体のことを指すのだが、ここで言うのは、萩の代表的な歴史的町並みである“萩城城下町”のこと。町の一角 約5.5ヘクタールが国の史跡に指定されていて、萩散策といえば必ずと言っていいほど紹介される。江戸時代の風情が満喫できるだけでなく、高杉晋作や桂小五郎など 名立たる歴史上の人物が生まれ育った、歴史的にも重要な必見の場所」(http://www.haginavi.com/archives/2010/10/%E8%90%A9%E5%9F%8E%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA.html )、として知られている。
 3枚目の写真は、その位置を示す標識と城下町を代表する白壁や植え込みに囲まれた小路の風景である。ただしこの城下町は、鹿児島・知覧などに見られた武家屋敷だけではなく、武家屋敷とともに医師や商人などの屋敷も混在する地域であったらしい。そんな城下町の街角に面白い看板が2枚立っていた。そこには巧みに機知にとんだ表情で描かれたこの地の偉人50名がいた。この狭い地域がこれだけの人物の出身地であったとはただ驚くべきことである。地域に根差して人物を教育したという「松下村塾(しょうかそんじゅく)」に起因しているようである。その二枚の看板を1枚の写真にしたのが4枚目の写真である。
 多くの観光客や修学旅行の生徒たちがこの城下町を歩き回っているが、その人たちに笑顔を振りまいているのが当時の服装をした二人組の武士である。なかなか出会うことは難しいとのことであったが、幸い二度も出会ったので写真をパチリと撮らせていただいた。それが最後の写真である。

秋の山口・萩から長門(仙崎)を行く (1)「日本の夕陽百選」の菊ヶ浜で絶景を見た!

  • 2012/10/18 13:07

 ときにはまだ暑さを感じる10月16日、山口県の萩市周辺を訪れるために新幹線で新山口駅に降り、レンタカーを借りて日本海に面した萩市を向かった。その道中、ユニークな茶色い瓦の民家が散在する道端には、「維新の里」(例の大阪の「維新の会」とは似て非なるモノ)そして「日本一ゴミの少ない街」との看板があり、強い印象を受けた。その萩市についてWikipediaは次のように言う。
 「萩市(はぎし)は、中国地方の西部、山口県の北部に位置する、日本海に面した市である。江戸時代に、毛利氏が治める長州藩の本拠地となった都市として有名である。一方を日本海に面し、三方が山に囲まれた都市であり、道路・鉄道・港湾の整備も遅かったため、山陽側の市町村と比べると発展が弱かった(交通面では隣の長門市の方が発達している)。山陽新幹線博多駅開業時は観光客が増加し、人口も増加するが、その後は観光客の減少と共に人口も減少した。新制の萩市として発足後の2005年国勢調査においても、人口の減少が目立ち、特に合併前の旧町村での減少傾向が目立つ。幕末から戦前にかけては政財界の大物を多く出すなど、かつては中央たる東京への指向が強かったが、最近では、進学・就職なども九州本島への指向が強い。」
 どこの地方都市もそうであろうが、地域の活性化は容易ではない。でも、萩は幕末から明治維新を経ての日本の動乱期に圧倒的な存在感を示したところであり、またそれなりの文化の香りが漂う観光都市である。まずは萩城跡に向かい、その後萩城城下町などを動き回りながら宿に向かう途中、海水浴場でもある菊ヶ浜を通りかかった。
 そのときは丁度夕暮れ時の5時ころ、間もなく夕陽が見られるときで、突堤のように海に突き出たところに移動したところ、まさに夕陽が萩城が築かれた指月山の脇に沈み込むときで、「日本の夕陽百選」のひとつにあげられている絶景が見られそうだった。そして突堤の欄干のようなところにもたれて5時半ころからおよそ20分間写真を撮り続けた。
 このブログシリーズの最初には、まずそこで撮った写真を皆さんにお見せしたい。とにかく絶景であった。1枚目の写真はその菊ヶ浜の砂浜に立って、左の指月山から右(東方面)に向かって180度を眺めたもので、きれいな砂浜と穏やかな波の海が印象的な風景であった。コラージュ写真での位置関係としては左上の指月山から右下に見えている風景である。2枚目の写真は、およそ20分間に撮った写真の良いものをコラージュ風に並べたもので、雨雲が徐々に近づいてきて適度に薄い雲がかかり始めたからか、沈みゆく夕陽の上に赤い光が雲に反射してできている輪が見える。その中から特に美しいと私に思える3枚をお見せしたい。
 この3枚については特に説明は必要ないと思うが、5枚目にはカラスが映っている。丁度ねぐらに帰ろうとしていたのか、沢山のカラスが鳴きながら指月山の方向に飛んでいくのが見られた。それを撮った何枚かの内の1枚で、なんともいい風景であった。なお、写真はワンクリックで拡大できます。

2012あざいお市マラソン(全国ランニング大会100撰)に二度目の挑戦

  • 2012/10/08 11:55

 暑い今年の夏が過ぎてやっと涼しい日々が来たかと思いきや、快晴の天気になると、ちょっと歳のせいかとも思うが、なぜか直射日光が肌にきつく感じてしまう。昨日10月7日は前日とはうって変わってそんな天候だった。きっと24、25℃はあったであろう。それは丁度昨年の大会とほとんど同じような状況になっていた(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/57 )。
 昨年は心臓手術からの復帰戦のため少しペースを落とし気味にして、結局予定通り1時間59分で走った。しかし、前半のダラダラとして上り坂に苦労した覚えがあるので、「あざいお市マラソン」のHPから苦労して探し出した高低差のデータをまずご紹介したい。1枚目の写真はコースを模式的に示した図で、スタートして草野川を遡って図の一番上にある高山橋に至るおよそ7.5キロは上り坂である。この高低差がどれほどであるかは今回正式なデータが2枚目の写真のように公表されているが、グラフから読み取るとおよそ83メートル程だと思われる。そしてその後半部分で向かい風が吹き、その後15キロの辺りまで下りその後はゴール前1キロを除いてほぼ完全な田圃の中の平坦なコースである(1枚目の写真の下の四角い部分)。この遮蔽物のない農道でかなり強い向かい風や横風が吹いたのである。このコースはなかなか難しくチャレンジに値する。
 今回の目標はもちろん昨年のタイムを大幅に上回ることで、限りなく1時間50分に近くと内心意気込んでいた。これまでもこのブログで書いてきたように、脚を使わない、つまり大きな筋肉で走る、別の言葉で言えばハムストリング、殿筋や大腰筋を使って股関節を存分に動かして走ることを意識してきた。さらにこのレースを目標に気を付けたことは、高い視線を維持すること、そのために膝や足首を必要以上に使わないことである。まあ、簡単に言えば、脚を竹馬の竹のように使うことを意識してきた。このことはふくらはぎの筋肉を使いすぎないことでアキレス腱への負担も減らすことを目標にした。
 以上のことに気を付けて平坦なロードでトレーニングした場合、10キロ程度をキロ5分チョットでカバーすることはできていたので、今回コース前半の坂を考慮に入れてもできればキロ5分15秒は切りたいと考えてきた。でも、走り始めてその難しさを痛感した。今回3,600名に近い参加者があり最初の2キロほどは走るコースの確保にかなり苦労したことと、やはり7.5キロで83メートルの連続した上り坂の圧力は相当なもので、高山橋までにキロ5分15秒を切ることはかなわず、この時点で50分を切ることは諦めざるを得なかった。
 この21.0975キロのGarmin Forerunner 110による走行データは3枚目のグラフと4枚目のデータシートに表わされている。グラフの横軸はキロ数、縦軸の青は1キロごとに平均化されたラップ、赤は心拍計による心拍数、緑色は標高を表している。また、データシートはグラフのデータが細かくあらわされていて、1キロごとの詳細なデータを見ることができる。最初の2キロの厳しさと最後の5キロの苦しさをよくあらわしている。でも、ゴールが見え始め下り坂になる最後の1キロは、希望にあふれてほんの少しではあるが速度が上がる。なんともうれしい気分で走ったことを覚えている。結局、昨年よりおよそ7分更新して1時間52分13秒でゴールすることができた。
 なお、心拍数のデータが19キロあたりでぴょこんと上がっているが、これは多分汗で心拍計のベルトが下がってくるので手で持ち上げるのだが、その影響が瞬間的に出たものと思われる。ただ、昨年のデータと比較すると、速度をかなり上げた分、当然のように心拍数が数パーセントは上がっていることは事実である。なお、標高差データによる上りと下りが合っていないのは、GPSによる高低差の精度が少し低いことに起因している。また、距離表示の21.13キロは正確であるが消費カロリーについてはちょっと疑問がある。
 今回はジムの仲間と3人で参加した。スタート前の無邪気な写真が5枚目である。菅原氏は昨年のタイムを上回ったが足を少し痛めたようである。また若い大井さんは自己ベストを更新し、あと一歩で2時間を切れるところまできており、前途有望である。今回は参加賞としてT-シャツとあざいお市米の新米1.5㎏をいただき、重いながらもご満悦で、帰りはいつものように、今回久しぶりにハーフに参加した私の同僚の森川君とともに美味しい飲み物を楽しむことができた。来年、厳しいコースながらまた挑戦したい。なお、写真はすべてクリックで拡大されます。

追伸:消費カロリーのデータに少し問題があるが、これにはGarminの時計の再設定をやった時に、ユーザーデータの更新が十分ではなかった可能性があることが分かった。

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