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2013年11月の記事は以下のとおりです。

北九州の長崎・平戸・佐賀を巡る-長崎(2)浦上天主堂と平和公園周辺

  • 2013/11/24 17:41
 二日目からは活動範囲を広げるためにレンタカーで動き回ることにした。さて長崎といえば日本と外国との接点の役割を長く続けてきた重要な地域であると共に、第二次世界大戦の終了を告げるにはあまりにもつらい歴史上2発目の原子爆弾被爆地となってしまった場所である。それを象徴するのが現在の平和公園とその周辺地域であり、その平和公園を象徴するのは巨大な平和祈念像である。それについてWikipediaは次のように言う。
 「平和祈念像(へいわきねんぞう)は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像。北村西望(きたむら せいぼう)によって造られた。神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。被爆10周年にあたる1955年8月8日に完成。像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さは約30トンあり、鉄骨を芯にして、青銅製のパーツをステンレスのボルトで縫ってある。右手の人差し指には避雷針が設置されている。」
 見るからに圧倒されるような強靭な像で、平和の探求と被爆地の復興への強い意志をも表していると感じる。この像を斜め右や横からあるいは後ろから見た組み写真を1枚目の写真とした。この像の全面右下には「平和祈念像建立のことば」が書き込まれており、それとこの像の近くにある「折鶴の塔」を2枚目の写真とした。お読みいただければ幸いである。
 その平和公園の平和祈念像を左に見ながら右に進むと、そこから見える丘の上にレンガ造りの荘厳な「浦上天主堂」が輝いている。その天主堂についてWikipediaは次のように言う。「浦上教会(うらかみきょうかい、英語:Urakami Cathedral)は、日本の長崎県長崎市にあるキリスト教(カトリック)の教会堂である。長崎市の観光名所のひとつにもなっており、一般的には浦上天主堂の名で知られている。1945年の長崎原爆によって破壊されたが、1959年に再建された。1962年以降、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂(カテドラル・大聖堂)となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会である。
 浦上は長崎の北に位置する農村であり、キリスト教の日本伝来よりカトリック信者の多い土地であった。そのため江戸時代における異教禁制による隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地であった(浦上崩れ)。鎖国解消に伴う長崎開港で、欧米人が長崎港の南の東山手・南山手に居住区を作り、その一角に1864年(元治元年)に大浦天主堂が造られた。それを知った浦上の住民は大浦に赴任した司祭(神父)ベルナール・プティジャンに密会して信仰を告白し、それがきっかけとなって社会へのカトリック信仰の顕在化が行われた。しかし明治政府も当初は江戸幕府と同様にキリスト教禁制を維持し、欧米政府からの反対を押し切って弾圧に踏み切り(浦上四番崩れ)、浦上の住民は各地に配流された。禁制解消後、半分近くまで減った信者が浦上の地へ戻り、1879年(明治12年)に小聖堂を築いたのが浦上教会の発端であった。その後、大浦天主堂から専任の神父が来て、翌年1880年(明治13年)に浦上村の庄屋の跡地を買い取り、現在の地に移転した。」
 平和記念像のある場所から急な坂を下って10分ほど歩くと再建されて美しい天主堂に至る。その前には原子爆弾の爆発によって無残に首が亡くなってしまった像がそのままの姿で置かれ、当時の無残な姿を垣間見せる。この建物の前の庭には幾つかの掲示板があり、そのひとつの写真を組み写真に入れておいた。そこの写真には爆風で崩れ落ちた無残な姿を見ることができる。これらを組み写真にしたのが3枚目の写真である。
 それらを心に刻んでしばらく歩くと、「長崎原爆資料館」に着く。そこに展示されていたものは、当然のごとく全ては当時の悲惨な状況を示すものである。4枚目の写真に組み入れたのは、日本が太平洋戦争に踏み込んだ時代の中国と朝鮮との関係を表す年表と、その延長線上で投下された実物大の4.5トンの、広島型ではないプルトニウム型原子爆弾(ファットマン、太っちょ)の模型、それに被爆者を癒やそうとする匠の作った真鍮製の千羽鶴である。プルトニウムの約10%が核分裂を起こしたと書かれていたが、一体何キログラムのプルトニウムが使われていたかについては書かれていなかった。当然の秘密であろうか。
 そんなことを考えながら最後に人類史上2度目の原子爆弾の爆心地を訪れた。第一目標の小倉は天候不順のため第二目標の長崎に変更され、その長崎でもわずかな雲間から原爆が投下されたという。その爆発は1945年8月9日午前11時02分であった。推定では長崎市の人口24万人のうちおよそ14万9千人が死没したと言われる。その爆心地で撮影した写真を組み写真にしたのが5枚目である。原子爆弾投下から50年後に建てられた母子像は胸を打つ。そしてその近くに御影石でできた真っ直ぐの高い塔が建っていて、詳しいことは分からないが殉教者名簿が何らかの形で納められているようである。その前では千葉県からの高校生が話を聞き、黙とうしていた。例え修学旅行であるとはいえ、若い人たちが過去の歴史に向き合おうとするのは貴重で、またありがたいことなのであろうと思う。その意味でいまどき訪れる私などは情けない存在であるのかもしれない。なお、この場所には爆発で崩壊した浦上天主堂の一部が移設されていた。それを5枚目の写真の右下に組み込んでおいた。なお、すべての写真はクリックで拡大できます。
 この平和公園周辺をかなり歩き回って疲れ、少し休んでからもう一度外国との接点であった出島の様子をうかがいに車を走らせた。

北九州の長崎・平戸・佐賀を巡る-長崎(1)大浦天主堂など

  • 2013/11/23 11:47
 急激に寒くなるなど不安定な天候が続き、秋があったのかどうかさえはっきりしない11月後半、かって小学校か中学校の修学旅行で行ったかもしれないなどさっぱり分かっていない北九州の西部を数日かけて訪れることにした。早朝に大阪を新幹線のぞみで出発して博多まで行き、そこで特急に乗り換えて長崎に向かい昼過ぎに到着した。
 到着した長崎駅を管内とするJR九州は、最近の「ななつ星」なる豪華列車で知られるようになかなかユニークな列車を数多く作っていることが、駅のホームにしばらく佇んでいることでよくわかる。一枚目の組み写真は到着の翌日に撮ったものであるが、2本の特急列車がホームにとまっている。また長崎駅の玄関口はなかなか良い作りで面白い。また駅の向かい側のビルの間からはその裏山の斜面にぎっしりと建っている建物が見えて、長崎の街の変化に富んだ様子を連想させる(組み写真の右上の写真)。
 さて到着の日は市電の一日乗車券で市街地を動くことにし、荷物をホテルに預けてすぐに大浦天主堂に向かった(2枚目の写真ン)。実はこの市電は120円と安いうえに市街地をうまく廻っていて観光客にはわかりやすく、安心して移動することができて大いに助かった。大浦天主堂についてWikipediaは次のように言う。なお、その組み写真の右下の写真のように天主堂に上る坂道は時折降る雨に濡れて何故か感傷的な雰囲気であった。
 「大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、1865年(元治2年)に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物。正式名は日本二十六聖殉教者堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。」この天主堂に登っる石段の下の左側には、その組み写真の右上にあるような「キリスト信者発見百周年記念碑」が置かれている。それについてもWikipediaは「建立まもない天主堂は『フランス寺』と呼ばれ、美しさとものめずらしさで付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないかというわずかな期待があった。1865年3月17日(元治2年2月12日)、浦上(長崎市)の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの4、50歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、『私共は神父様と同じ心であります』(宗旨が同じです)とささやき、自分たちがカトリック教徒であることを告白した (この女性の名は、イザベリナ杉本百合だったと言われている)。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた。その後、プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教を兼ねて隠れた信者の発見に努め、浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかった。この『信徒発見』のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだという。この日は現在カトリック教会では任意の記念日(祝日)となっている。」この歴史的な舞台にこの大浦天主堂が登場したのである。
 もうひとつ日本人のみならず世界中の人を驚かせた人物がこの地にやってきていた。それはポーランド人のコルベ神父である。この大浦天主堂のそばにも彼に関する資料室が用意されているし、こことは別にコルベ記念館もある。私が見た資料室にある資料の写真を2枚を掲載しておく(3枚目の写真)。撮影が難しかったので読みにくいが、是非その写真の文章を読んでいただきたい。彼の日本での活動は1930年からわずか6年であるが、精力的に布教のための小冊子「聖母の騎士」を発行するなど布教活動をつづけた。会議のため一時ポーランドに帰国した際にナチスのポーランド侵攻に巻き込まれてアウシュビッツに送られ、そこで「友人のために命をささげる」ことを自ら選択して飢餓室送りになってしまったのである。このことについては上の二つの文章とともに、私がたまたま見つけたある女性の率直なブログもお読みになることをお勧めする(http://blog.akaulamana.com/?eid=423 )。
 大浦天主堂地区を離れてグラバー園を下から少しだけ覗いた後(4枚目の写真の右下)外国人居留地でもあったオランダ坂を歩き、そこに活水学院や海星学園があることを知った。その活水学院が長崎市に渡した建物が資料館になっていたが、そこをみると男子学校としての海星学園や女子学校としての活水学院をはじめとする日本におけるキリスト教関係の学校の多く、たとえば明治学院、立教大学、鎮西学院などが明治10-30年代にこの長崎でスタートしていることを知って驚いた。それはこの長崎にイギリス、フランス、アメリカ、オランダなどの外国人がいかに多く住んでいたかを表していると共に、日本人の教育にかける彼らの意気込みの凄さを表してもいるのだと強く印象付けられた。そしてその学校建設の苦難の歴史は現在のNHK大河ドラマ「八重の桜」に描かれている同志社が歩んだと同じ道だったようである。
 上に述べた外国人に加えて中国人もまた多かったようで、それを象徴するのが4枚目の写真のような豪華な孔子廟・中国歴代博物館の建設である。そこには孔子関係はもちろん古くからの中国の美術品や様々な文物がよく整理された形で展示されていた。この建物も原爆で被災したようであるが、中国人はもとより中国政府の援助を受けて再興されたという。その結果であろうが、長崎には中国社会の風習がよく浸透しているようには感じている。しかしそこには、どこにでもある話であろうが、中国人や中国政府の強い海外進出の意欲が垣間見られるように感じ、いまもそれは拡大しているようである。
 この後ダウンタウンに移動した後夕食をとり、翌日に備えた。

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