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2011年11月の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 2010年秋 桂離宮(Katsura Imperial Villa)へ

  • 2011/11/12 09:18

(この記事のオリジナルは2010年9月26日に書かれたが、ファイルが失われたため、写真も含めて新たに書き直す)

 2010年9月24日に、近くにいながらいまだに入ったことのない宮内庁所管の「桂離宮」を初めて訪れることになった。171号線を使って急いで走らなくても40-50分で着き、宮内庁の許可さえ取れば何度でも訪れることのできるほど近い場所にある。桂離宮については皇室の別荘であることは知っていたが、2、3年前にNHKが素晴らしい映像でかなり詳しく放映したことでよりよく知るようになってはいた。そんなこともあってもっと知りたい、自分の目で見てみたいと思い重い腰を上げた。桂離宮よりいただいたパンフレットには次のようにその歴史が書かれている。
 「桂離宮は、後陽成天皇の弟・八条宮初代智仁親王により、三宅の別荘として創建されたものである。幼少の頃より文武百般に秀でておられた親王は、17世紀初頭にこの地を得られて後、元和元年(西暦1615年)頃に山荘の造営を起こされ、数年ほどの間に簡素の中にも格調を保った桂山荘を完成されている。親王の40歳代前半の時期にあたり、古書院が建てられたものとみられる。親王が没せられて後10年余りの間は山荘も荒廃期であったが、二代智忠親王は加賀藩主前田利常の息女富姫と結婚されて財政的な裏付けもでき、山荘の復興、増築などに意欲的に取り組まれた。智忠親王は父君智仁親王譲りの研ぎ澄まされた美的感覚をもって、寛文2年(1662年)頃までに在来の建物や庭園に巧みに調和させた中書院、さらに新御殿、月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒等を新増築された。池や庭園にも手を加え、ほぼ今日に見るような山荘の姿に整えられた。(…中略…)宮家の別荘として頤使されてきた桂山荘は、明治16年(1883年)宮内省所管となり、桂離宮と称されることとなるが、創建以来永きにわたり火災に遭うこともなく、ほとんど完全に創建当時の姿を今日に伝えている。昭和39年(1964年)に農地7千㎡を買い上げ景観保持の備えにも万全を期している。」
 ご存知の方も多いと思われますが、桂離宮は回遊式庭園を中心にしてその周りに4つの茶屋や書院が配置されていて、その池には天橋立風の景観をもつものや、舟遊びのための船着き場も用意されている。まず全体として感じたことは、外見は全くきらびやかではないがとにかく手が込んでいるというのが実感である。正門には1枚目の写真のように見事が竹垣張り巡らせてある。実は別の方角には生きた竹をたわませてた“桂垣”と呼ばれる、もうひとつの見事な竹垣があるが残念ながら写真を取り損なってしまった。
 係りの方の説明を聞きながら歩いたのであるが、覚えきれないほど沢山の気配りと工夫があった。1枚目の写真の下部分では、歩く回遊路とでもいうのか、いわゆる路がそれほど長い距離でもないのに明らかに先が狭く作られており、園内を広く見せる工夫がされているようである。また、写真では見えないが、歩くところに雨水が溜まらないように排水のための小さな穴が両脇に空けられていた。また、路の脇や茶屋の船着き場のあたりにはいくつもの、さまざまな形をした灯篭や手水鉢が配置されていた。2枚目下は緑あふれる庭園の一部である。
 この離宮で最も有名なのが松琴亭という茶屋である。池越しに見た姿が3枚目の上部分で、簡素な姿をしている。その中でもっともよく知られているのが“市松模様”と呼ばれる襖と床の間である(写真下部)。写真で見るとちょっとくすんでいるが、陽にあたっていないところはもっと鮮やかな青と白の配置である。“市松模様”とは、江戸時代の歌舞伎役者が来た着物の図柄のようで、今の襖にしてもはじけるようなインパクトがある、そんな襖であった。それをこの離宮の襖に取り込んだ親王とはどんな感覚をもっていたのだろうかと驚く。
 4枚目の写真の上部分は、別の茶屋 賞花亭前に咲く、私には珍しい白いハギである。その下の写真は、記憶が定かでないが多分この茶屋の竹の格子がはまった窓で、そこから見られるのは豊かな稲田だと思われる。
 5まいめの写真は、もうひとつの茶屋 笑意軒の工夫を凝らした襖の引手である。上は窓の向こうには稲田が見えるが、こちら側の襖の引手は舟遊びをイメージしたか「櫂(かい)」、下の写真にあるのは「矢」で狩りをイメージしたのであろうか。なお、上の写真の窓の下、腰壁に貼り付けられているのは金箔による斬新なデザインと何かの市松模様である。こんなところにもさまざまな工夫がされている(写真はすべてクリックで拡大できるので、拡大してご覧ください)。
 これらそれまでにない新しいものを取り入れようとした意欲と、どのようなものを取り込むのかと考える研ぎ澄まされた感性にただただ感服するのみであった。皆さんもぜひ一度ご覧になることをお勧めする。

[簡易復元] 寅の年 2010年1月 信貴山朝護孫子寺に初詣

  • 2011/11/11 09:45

(この記事のオリジナルは2010年1月に書かれたものであるが、ファイルが失われたため新たに書き直す)

 初詣では混雑することが知られていたので、それが一服したであろう1月10日に車で信貴山に出かけた。標高437メートルとかなり高い山で奈良県北西部の生駒郡平群町にあり、その南東中腹に信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)がある。この寺についてWikipediaは次のように言う。
 「寺に伝わる国宝『信貴山縁起絵巻』は、平安時代後期、12世紀の成立とされ、日本の絵巻物の代表作とされている。この絵巻は通常の社寺縁起絵とは異なって、朝護孫子寺の創建の経緯等については何も述べておらず、信貴山で修行していた命蓮(みょうれん)という聖(ひじり)の奇跡譚が中心主題となっている。絵巻の中巻では延喜の帝(醍醐天皇)の病を命蓮が法力で治したという話が語られている。『信貴山縁起絵巻』の詞書とほぼ同様の説話が『宇治拾遺物語』にあり、『今昔物語』にも信貴山寺の草創に関する説話が収録されている。(聖の名は『宇治拾遺物語』には「もうれん」、『今昔物語』には「明練」とある。)(…中略…)
 以上のことから、醍醐天皇の時代、平安時代中期の10世紀頃には信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことは首肯される。当寺の創建について、聖徳太子を開基とする伝承もあるが、これは太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだという伝承に因んだ後世の付託と思われる。伝承では、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、594年(推古2年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする。また寺の至る所に虎の張り子が置かれているのは、その逸話に由来している。その後、902年(延喜2年)に醍醐天皇が、「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから、「朝護孫子寺」の勅号を賜った。」
 参道からお寺の本堂まではかなりの距離と高低差があり、お年寄りにはちょっと苦しい。参道には聖徳太子の勇壮な馬上姿の像があり、また、このお寺の守り神と言われる大きな虎がお参りに来る人たちの大人気である。さらに本堂への道を外れて山を登ってゆくと信貴山城址がある。見晴らしは良いが城跡だけで何も残されてはいない。
 本堂はかなり大きく舞台のような作りで、写真からもお分かりのように崖っぷちに立っていて眺望は素晴らしい。寅が守り神のこの舞台から多くの虎(寅)ファンは優勝を叫んだのであろうし、「寅の年、寅の日、寅の刻」に願をかけたファンもまたいたのだろうと思うが、残念ながら2010年も今年2011年も真弓監督の元では無残な結果に終わってしまった。はたして来年は和田新監督の元、何年振りからの美酒を飲むことが出来るのであろうか。その結果がいまから楽しみである。

[簡易復元] 2010年3月、しまなみ海道を行く(3)善通寺から瀬戸大橋へ

  • 2011/11/10 12:07

 今治から松山自動車道、高松自動車道を乗り継いで善通寺ICで降り、善通寺を訪れた。空海(弘法大師)はいまの善通寺市の出身である。善通寺についてWikipediaは次のように言う。
 「善通寺 (ぜんつうじ)は、香川県善通寺市にある寺院。真言宗善通寺派総「山。屏風浦五岳山誕生院と号する。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第七十五番、真言宗十八本山一番札所。平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯善通を開基として創建された。伽藍は創建地である東院と、空海生誕地とされる西院(御誕生院)に分かれている。(…中略…)空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期の成立)によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ、法名善通)から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという。空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ」、たとされる。
 善通寺は広い境内を持ち、立派な本堂(1枚目の写真)、五重塔(2枚目)、鐘楼などを持っていたが、私が一番気に入ったのは素晴らしく強い香りを放つ桜「涅槃桜」であった(3枚目の組み写真)。写真の下部分をお読みになればわかるが、ミョウショウジサクラという品種で、愛媛県の明正寺から移されたとされる。花は少し大きめで、桜には珍しく強い香りを放っていた。この桜を楽しんだ後、善通寺を出たところにある讃岐うどん屋さんでお昼ご飯に讃岐うどんをいただき、瀬戸大橋を通って帰途に就いた。
 瀬戸大橋はしまなみ海道に比べてかなり大きいという印象を受けたが、これは自動車道と鉄道路の両方を通している併用橋であるためであった。この巨大な併用橋についてWikipediaは次のように言う。
 「瀬戸大橋(せとおおはし)は、瀬戸内海を跨いで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ10の橋の総称であり、本州四国連絡橋のひとつ。1978年の着工から9年6ヶ月を経て1988年4月10日供用開始され、総事業費はおよそ1兆1338億円である。橋梁上部構造部分は、上部に4車線の瀬戸中央自動車道が走り、下部にJR本四備讃線(愛称:瀬戸大橋線)が通る2階建ての構造であり、用途が2通りあることから「鉄道道路併用橋」と呼ばれている。塩飽諸島の5つの島の間に架かる6つの橋梁と、それらを結ぶ高架橋により構成されており、橋梁部9,368 m、高架部を含めると13.1kmの延長を持つ。これは鉄道道路併用橋としては世界最長で、人工衛星写真でも確認できる。橋梁は吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類を併設。
 工事の際には世界初の技術が導入され、「海底無線発破」「設置ケーソン工法」などが実用化された。また、気象条件や荷重による変形が著しい、この規模の吊り橋への鉄道の敷設も世界初の事例であり、橋梁の変形から線路を保護するための技術が新規に開発された。橋上部構造は上部が4車線の道路(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(JR四国本四備讃線(瀬戸大橋線))の2層構造となっている。下部の鉄道は新幹線・在来線合わせて4線を敷設できるようになっているが、現在は在来線用に2線分しか使われていない。なお現在は暫定的に新幹線側、在来線側のそれぞれ中央寄りに1本ずつ引かれる形で、中央部に2線が敷設されている。
 計画中の四国横断新幹線が建設される際は2線増設され、東側2線を在来線に、西側2線を同新幹線として使用する計画である。設計最高速度は上部の道路が100km/h(第1種第2級)、下部の鉄道が在来線部120km/h、新幹線部160km/h。今のところ新幹線用のスペースの殆どは何も設置されていないが、一部スペースに建設当初想定されていた新幹線用設備分の死重が設置されている。」
 私は、名前は忘れたが瀬戸大橋の途中にある大きなサービスエリアに入り、撮った写真が4枚目と5枚目である。4枚目の下部分には、この巨大な橋を支えているケーブルの断面が展示されていた。その巨大さが分かろうというものである。さらに5枚目の上の写真には、よく見ていただければわかりと思うが、大橋の下の道路部分を特急列車がたまたま走っている写真である。その下は瀬戸内海を走っている巨大な貨物船の写真である。このように本州と四国を結ぶ3本の大橋は、自動車道、鉄道路、そして海上交通を維持するために様々な工夫をしながら作り上げられてものと理解できるが、そのためにまた巨費を投じることになったと思われる。はたしてそれが四国、そして本州側の大きな利益になったかどうかは歴史的判断となるのであろうか。しかしそれがどうあれ、北海道や九州の場合を考えるとこうなるのは歴史の必然なのであろう。あとはこれをいかに生かすかである。四国の多くの地域が、私が今治で感じたような状況に変わっていかないことを祈りたい。

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