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2011年11月の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 2010年3月、しまなみ海道を行く(2)尾道を経て「しまなみ海道」を通り今治へ

  • 2011/11/09 11:02

 鞆の浦を後にして一路尾道へ走り、見晴らしの良い千光寺公園に向かった。そこからの向島方面の眺めは抜群で、尾道市が広島県東部(備後地方)で福山市と並ぶ大きな都市で、また海運都市であると共に工業都市でもあることがよくわかる(1枚目の写真)。一方、尾道は後ろは山で前は海という平地の少ないことで知られ、坂の多い街として知られてきた。さらに古い街並みがそのまま残されているところも多いためか、「『坂の街』『文学の街』『映画の街』として全国的に有名である。文学では林芙美子、志賀直哉などが居を構え、尾道を舞台とした作品を発表した。映画では小津安二郎監督の『東京物語』が尾道で撮影され、大林宣彦監督の『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』は『尾道三部作』として、若い世代にこの町を有名にした。」(Wikipedia)、とある。
 ただ、今回は先を急いだために尾道については千光寺公園を訪れるにとどめた。この公園には多くの観光客が詰めかけており、尾道の人気の高さを実感した。1枚目の写真の上部分で分かるように山と海岸の間はごく狭いため坂の多い街になるのであろう。また写真でもわかるように、新尾道大橋の向こう側の海岸沿いには多くのクレーンが立ち並んでおり、コンテナ関係か生産活動かは不明だが活発な動きが見られる。
 その新尾道大橋を通って「しまなみ海道」に入るために早々に千光寺公園を離れてしまなみ海道に向かった。しまなみ海道は6つの島を10本の橋梁(新尾道大橋を入れると11本)で結んでいる本州四国連絡道路で道路名としては西瀬戸自動車道路(別名 しまなみ海道)である。総延長59.4キロで尾道と今治を結んでいる。途中、どの島だったか忘れてしまったが、サービスエリアに入って撮った写真が1枚目の下部分である。穏やかな天候だったことがよくわかる。
 快適にしまなみ海道を通って夕刻に今治に到着した。ホテルが駅前の便利の良いところにあるのだが、土曜日の夜にもかかわらずやけに静かで少し拍子抜けしたことを覚えている。夕食の場所もそれほどなかったが居酒屋を探し当て、そこで食事をしてホテルに帰り旅の疲れを取った。翌朝早く目が覚めたので8時ころ駅前に出たが相変わらず静かだった(2枚目の写真上部)。朝食をとってから歩いて10分ちょっとのところの大きな商店街で朝市があるというのででかけた。その途中、駅前の大通りを市役所方面に歩いた直線道路の端から撮った写真が、2枚目の写真下部で、ほとんど人っ子一人通らなかったのである。季節は春、日曜日の朝である。
 そこからさらに歩いて大きな商店街に入った。かなり奥まったところで朝市が開かれていたが、広い通りにぽつぽつとお店があるという感じで、朝市の元気な話し声が聞こえてきた訳ではなかった。全く静かなのである(3枚目上部、下は今治城)。私たちはそこで店を出していたおじさんおばさんにいろいろなことを聞いた。聞くところによると、今治はしまなみ海道開通で期待通りの活性化は果たせなかったようである。その理由は、それまでは四国西部の物流は海上交通によって支えられていたし、人の流れも今治港を通して本州とつながっていたが、しまなみ海道の開通によって今治は人とモノの流れの通過地点になってしまったというのである。それは非常に分かりやすい説明で、私はそれに全く同意してしまった。大掛かりな投資を伴う工事によって一時的に賑わったとしても、結局それを維持することはそう容易なことではないのである。私は貴重な話を聞かせていただき、美味しい果物と花の苗を買ってホテルに戻った。その途中に見た今治駅前の標語「きらめいて海峡(うみ) 輝いて橋 今治」と現実との乖離が大きなショックであった(2枚目の上の部分)。
 でも、今治市役所の壁に掲げられた大きな垂れ幕、それは今治で見た一番明るいニュースであった(4枚目の写真)。強豪今治西高の選抜野球大会出場であった。この状況の中で是非勝ってもらいたかったが、残念ながら勝ち進むことはできなかった。最後に今治城を横目で見て、今治を一番有名にしている今治タオル展示場のある「テクノポート今治」に向かった。そこには今治におけるタオル生産の詳しい歴史(5枚目の写真上部)と様々な機械が展示されており(同下部)、いろいろと勉強させていただいた。また、多くのタオル生産会社の製品が展示即売されており、私も珍しくタオル地の明るいグリーンのマフラーを手に入れ、気持ちよく使わせていただいている。
 今回の旅で、地方における景気の落ち込みというか元気の無さが予想外に厳しいことを、今更ながら身にしみて感じることとなった。なお、いつものことながら、写真はクリックで拡大できます。

[簡易復元] 2010年3月、しまなみ海道を行く(1)鞆の浦

  • 2011/11/08 13:27

(この記事のオリジナルは2010年3月に書かれたが、ファイルが失われたため写真も新しくして新たに書き直す)

 これまで一度も「しまなみ海道」を走ったことがなく、また私が四国には疎いこともあって車でしまなみ海道から四国へ、そして四国北部を走って瀬戸大橋から戻るという1泊2日のちょっと強行日程の旅に出かけた。朝早く自宅を出て中国道と山陽道を乗り継いで最初の目的地の鞆の浦に着いたのは丁度昼ごろでした。「龍馬伝」や「崖の上のポニョ」の影響もあってか、海沿いの道を多くの観光客が歩き始めていた。鞆の浦とは一般にどんなところかについてWikipediaは次のように言う。
 「鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆町の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域。現在は鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も「鞆の浦」と呼ぶことも多いが、本来「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味であり鞆港を中心とした海域のことである。沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として国の名勝及び国立公園に指定されている。
 鞆の浦周辺は1925年に名勝・鞆公園の指定を受け、さらに1931年に制定された国立公園法において国立公園として最初に指定された地区のひとつである(瀬戸内海国立公園)。そのため1934年の国立公園指定当時の記念切手や絵葉書には鞆の風景が描かれているものがある。 なお鞆の浦に含まれる島には仙酔島、つつじ島、皇后島、弁天島、玉津島、津軽島がある。
 瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、古代より潮待ちの港と知られていた。また、鞆は魏志倭人伝に書かれる「投馬国」の推定地のひとつともなっている。
 鞆の浦の港町である鞆には古い町並みが残り、1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれた。江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみである。」
 ここに書かれているように鞆の浦は潮待ちの港としての海上交通の要所としての利点と、風光明美な場所であるという生活の場あるいは観光の場としての利点を兼ね備えていた。そのために歴史的に見ても上に出ている大伴家持が歌うように多くの有名な歴史上の人物が鞆の浦に集まったようで、足利尊氏もその一人のようである。したがってこの地は漁港としての機能(5枚目の写真)と港としての整備も行われていたようで、それが常夜灯の建設にも見られる(2枚目の写真上部)。また、この町は半島の先端に築かれており、したがって町は起伏に富んでおり、しかも狭い道を挟んで家が所狭しと立ち並んでいた(1枚目の写真下部)。
 この鞆の浦をさらに有名にした事件は、坂本龍馬の海援隊が伊予国大洲藩から借り受けていた蒸気船「いろは丸」が、紀州藩所属の軍艦蒸気船「明光丸」と衝突し、鞆港に曳航中に沈没し、龍馬をはじめとする海援隊士が鞆の浦に上陸した事件である。直ちに賠償交渉が行われたが決着せず、長崎奉行所で交渉が続けられ、万国公法を持ち出した龍馬側が紀州藩の譲歩を引き出し、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。8万3526両198文は約25億円から約42億円に当たる。ただし、後にこれは7万両に減額され、さらに、最近の調査によれば、交渉の過程で龍馬が船に積んでいたと主張した銃器などは発見されなかったという。彼と後藤象二郎はなかなかの交渉術を駆使したようである。
 そんなわけで、それに関する家屋などが残されており(2枚目下)、さらに2枚目上の写真の常夜灯の右側に見えるのは「いろは丸展示館」で、そこには龍馬といろは丸の様々な資料が展示されている。それにしても、3枚目の写真の下部分に見られるごとく、海援隊は英語などを必死に勉強していたようで、その意欲に驚かされる。
 初めのところに書いたように、鞆の浦は潮待ちの港であり、海上交通の中継点であった。江戸時代には「朝鮮通信使」が何度となく鞆の浦に立ちよっておりその資料も多く残されている。その写真が4枚目の左部分で、右部分は当地の旧家に多く残されている豪華なお雛様で、2-3月にはそれぞれの家に展示されて観光客を楽しませている。

[簡易復元] 2011年3月、南紀白浜を訪ねる(4)一瞬 堺市を見る

  • 2011/11/07 11:26

 南紀白浜からの帰途、記憶にないほどの昔訪れただけでイメージの湧きにくい堺市に立ち寄ることにした。とにかく、唯一頭に浮かぶ仁徳天皇陵に行こうと高速道路を降りて街を走ったが、走り方の難しい街だということを実感した。きっとそれは古くから発展した地域だからだろうと推測した。ブログを書くためにいろいろなものを読み漁ると、大体次のようになる。
 この地域には旧石器時代から人が住み始めたようで、旧石器時代の打製石器や縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されているらしい。古墳時代、ヤマト王権成立後は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)など大小100数基の百舌鳥古墳群が造られた。なぜこの地域にそれだけの古墳群が成立したかについては、それはヤマト王権が初期の奈良東南部から大和川流域に広がったことと関連があるとも言われる。その後飛鳥時代の道路網整備につれて、街道沿いに河内鋳物師と呼ばれる人々が住み着き、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造に活躍したらしい。
 平安時代以降は、熊野詣での宿場町として、あるいは発展した京都や奈良の入り口として、さらに東南アジアや中国との貿易(日明貿易)によって大きく発展し、その結果自治能力を備えた都市として力を蓄えるに至った。しかし、後に織田信長や豊臣秀吉に屈服し、大阪城建設後はその城下町に堺商人の多くが移動を余儀なくされて衰退するが、後に鋳造技術が生かされて鉄砲生産などで栄えることとなった。もちろん、このころ今井宗久や千利休などによる茶の湯もそれに拍車をかけたのであろう。
 このようにして蓄えられた堺商人の財力は莫大であったようで、当時の多くの海岸の中小都市に莫大な投資をしたようで、その影響は大阪、名古屋、東京に及んだという。その後醸造業、紡績、レンガ産業などで大いに発展し、阪神工業地帯の大きな部分を占めるようになった。なお、当初から関西への海の玄関口として発展した堺がその地位を神戸に譲り渡した理由は、幕末欧米列強による大阪港開港の要求に対し、幕府は京都への近さから堺を候補に挙げたが、幕府内の勤皇派は堺の古墳を外国に荒らされるのを嫌がり、神戸に決まったといういきさつがあるようである。
 こんな勉強をしたからといって堺市内での動きにくさが分かるわけではないが、取りあえず今回はこの程度にして、仁徳天皇陵のことを少し書きたい。この前方後円墳は墳長がおよそ486メートルと日本最長で、幅305メートルと日本最大の古墳である。しかしこれば仁徳天皇陵であるとの確定は宮内庁が発掘を認めないなどで不可能であり、また異論もあることなどから「大仙陵古墳」(大仙とは町名)と呼ぶのが最も妥当なようでもある。
 1枚目の写真はこの古墳の前方部に設けられている拝所である。その前に二人のボランティアの説明人がいるが、その方に根掘り葉掘りいろいろと聞いてみると、豊臣秀吉はこの古墳でしばしば狩りをおこなっていたと伝えられ、また後円部を除けば幕末までは誰でもこの古墳に立ち入ることが出来たようである。しかし、江戸時代になると尊王思想の高揚に合わせてかなりの整備や管理強化が始まったと伝えられているらしい。拝所もそのようにして設置され、現在につながっているようで、時代の影響を受け続けたわけで、いまのような古墳の形式が当初からそうであったかどうかはいささか疑問ではある。
 この大仙陵古墳を離れて、すぐそばにある堺市博物館にいったところたまたまそこで開催されていた「アルフォンス・ミュシャ展」の看板のデザインがどこかで見たことがあるような感じだったので入ることにした(5枚目の写真)。それについては最後に触れるとして、博物館を離れて最も眺望がよいと教えられた市役所に向かうことにした。その市役所の駐車場探しもやはり難航した。
 その市役所の21階には抜群の展望台があった。地上80メートルで展望台は回廊式で360度見渡せ、喫茶店もあるなかなかの展望台であった。あいにく夕方に差しかかって港の方は逆光にあり、また大阪の方は少しかすんでいて見にくかったが絶好の眺望であった。まともな写真はないが、そこから撮った写真が2枚目の大仙陵古墳、3枚目は逆光にかすむ港地区である。港の方は煙が立ち上り阪神工業地帯の一角を占める雰囲気であった。また、北を向けば4枚目の写真のように高層ビル群が見え、やはり堺は大阪市に隣接していると実感させた。堺とは、古墳時代の面影を残す古墳群の街でありながら、巨大都市大阪の一角でもある、そんなところだったのである。
 最後に、アルフォンス・ミュシュのことを少しだけ書いておきたい。Wikipediaは次のように言う。「アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー。(…中略…)
 多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』『黄道12宮』『4芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』が挙げられる。」
 彼のポスターとは5枚目の写真に見られるようなポスターである、と言えば誰しもどこかで見た感じがすると思う。このようなポスターの起源はアルフォンス・ミュシャであると言って過言ではない。これが今回の展示から受けた印象である。幸いなことにこの貴重なポスターの原画の多くは堺市が所有しているコレクションである。その訳は、「よく知られた「カメラのドイ」の創始者である土居君雄氏が、ミュシャの知名度がさほど無かった頃から個人的に気に入り、本業の商品の買い付けや商談の為に渡欧する度に買い集めた。また、ミュシャ子息のジリ・ミュシャとも親交を結び、彼の仲介によってコレクションの中核が築かれた。1989年には、土居にチェコ文化交流最高勲章が授与されている。土居が1990年に他界すると遺族は相続放棄 し、1993年、土居夫妻が新婚時代に居住したことのある堺市に寄贈された」(Wikipedia)。このコレクションの一部は堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館において展示されているので、堺市にお出かけの説は是非ご覧いただきたい。私はそう言うのも、素人目に見ても素晴らしいからである。

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