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2011年09月の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 今城塚古墳を展示する「今城塚古代記念館」を訪れる

  • 2011/09/19 22:42

 陽光がまぶしくなってきた春の一日、自宅から自転車で10分もペダルを漕げば行けてしまう「今城塚古墳」に出かけた。これまでもその古墳を訪れたことがあるが、また出かけたのは今年4月にそこからの出土品を展示する立派な「今城塚古代歴史館」が新たにオープンされたからでもある。この今城塚古墳についてWikipediaは次のように記載している。
 「今城塚古墳(いましろづかこふん)は大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある6世紀前半では最大級の前方後円墳。国の史跡。摂津北部、三島(みしま)平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳である。三島野古墳群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。
 真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。…(中略)…
 墳丘の荒廃が著しいことは、一時は織田信長が三好家を攻めた1568年(永禄11年)の摂津侵攻に際し築いた城砦として使われたためと理解されていたが、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が崩壊したものとの見方が強まっている。同古墳は宮内庁から陵墓及び参考地に指定されていないため、一般人が見学可能であるとともに、最近までは墳丘は近隣住人の散歩道になってもおり、環濠は魚釣り場として利用されていた。 高槻市では史跡公園としての整備を目指し、1997年(平成9年)以降、そのための情報を得るための発掘調査を継続的に行っている。
 なお、7カ年に渡る復元整備事業が2011年3月で完了し2011年4月1日、日本初となるであろう埴輪祭祀場を発掘調査位置にレプリカにて復元し、また復元埴輪等を展示する史跡今城塚古代歴史館と史跡今城塚古墳を一体的に公開し、世界に向けて歴史遺産として発信しすることとなった。
 発掘は、1997年(平成9年)から毎年、高槻市埋蔵文化財調査センターが行っている。二重の濠を区分する内堤から形象埴輪や埴輪祭祀(はにわさいし)区が出土し、出土点数や埴輪祭祀区の規模が日本最大のものである。埴輪祭祀区は、東西62-65m、南北約6mの広さで、家形15、柵形25、蓋形4、大刀形14、楯形1、靱(ゆき)形1、武人形2、鷹匠(たかしょう)形2、力士形2、冠帽男子1、座像男子4、巫女(みこ)形7、四足動物(馬形など)18、鶏形4、水鳥形13の合わせて113点以上が出土した。なかでも家形埴輪は、高さが170cmもあり人の身長並みで、入母屋(いりもや)造りで、神社建築の屋根を飾る鰹木(かつおぎ)、千木(ちぎ)があり、高床の柱を円柱で表現している。吹き抜けの構造で神社とも考えられる。」
 この記述は今城塚古墳と継体天皇陵の関係、さらに現在の状況などについて巧みにまとめられており、私がこれに付け加えることはない。この古墳と出土品など、特に埴輪などの写真を若干皆さんにお見せするだけである。[簡易復元]ということでお許しいただきたい。
 1枚目の写真は新しくできた今城塚古代歴史館の外観、2枚目は館内に展示されている埴輪の数々、特に大きな家型埴輪が見える。3枚目は館外にある古墳で遠くに埴輪の展示が見える。4枚目、5枚目はその埴輪祭祀区に展示されている埴輪の写真である。色が少し違うのは、撮影した時間が違うことと方向が違うためである。なお、すべての写真は畑野勝義氏の提供による。ここに深く感謝する。

阪神タイガースは誰のものか?

  • 2011/09/19 10:57

 今の阪神は最悪だ。真弓・阪神になってからいらいらすることばかりのような気がする。あまり深く考える気もしないので、それらを思いつくままに書いてみたい。
 写真は対広島4連戦の初戦に完敗した翌日の日刊スポーツの一面である。見出しは「真弓監督 南社長 緊急会談」「来季4年目へ V逸ならコーチ入れ替え」とある。要するに、今季の結果にかかわらず来季も真弓監督で行くというのは既定路線で、したがって起こることはコーチ陣の入れ替えだけということを意味している。
 ここ関西にいてプロ野球を見るとすれば、それは阪神が絡んだ試合で、ゲームがあれば日本中どこからでもほとんどテレビ放送がある。それほど阪神戦は視聴率が高く、人気番組である。それほど多くのファンがいながら、ファンの意見はほとんど声にならない、あるいは聞いてもらえていないのは確かである。私の周りには多くの阪神ファンがいるが、ほとんどがはっきり言えば真弓監督に問題ありとする立場をとる。
 私を含めて真弓監督に対する批判を列挙すればこうなる。(1)勝つべき試合、勝てる試合を勝とうとしない。(2)投手の使い方が悪い。ほとんどいつも引っ張りすぎ一辺倒である。そして彼のいつものコメントは「もう少し頑張ってほしかった」。(3)今はかなり良くなったが、肩が悪かった金本の使い方に問題ありだ。彼の守備では防御率は1点以上悪くなると考えるべきで、それ以上彼が打たない限り出す意味はなかった。(4)若手を含めて1人の選手を幾つかのポジションで使うやり方は、止めるべきだ。当初はそれほどひどいことはなかったが、今は余りに無原則に見える。そんな無原則な守備位置の変更がミスの連鎖を生んでいる。(5)若手を使う場合にいつも相手ピッチャーの右・左を気にしすぎている。これでは若手を伸ばす使い方にはならず、使われている若手は「お前を伸ばすつもりで使ってはいないよ!」と言われているに等しい。要するに、全体として選手の使い方、その意図の分からないことが多すぎる。(6)審判の不可解な判定に対してもほとんど抗議の意思を表さない。これでは選手との気持ちの共有はおぼつかない。(7)監督の責任とは言えないかもしれないが、今年の榎田選手以外このところまともな新人が現れない。などなどもっとありそうだが、いまこれ以上思い出せない。
 要するにここで言いたいのは、日本のプロ野球の監督というのは社長やオーナーの一言できまるのか、ということである。特に阪神球団というのは、膨大なファンを抱えているせいかファンの意向には鈍感で特にその意見を聞こうとは考えていないように見える。そうでなくともプロ野球の球団とファンの距離が日本では非常に遠いのが残念である。サッカーJリーグの場合はその距離は非常に近く、あまりにひどい場合にはファンが大きい影響力を行使することがしばしばある。
 プロ野球もサッカーJリーグもファンあっての存在である。最近、東日本大震災時の取り組みにプロ野球界はJリーグより大きく見劣りした行動をとった。そんな行動に星野楽天監督が「またJリーグに負けた」、とじだんだ踏んだのはよく知られたことである。その理由は、プロ野球球団は、Jリーグのように地域やファンが絡んだ経営ではなく、その親会社が運営しているからである。親会社にとって球団は、データは持たぬが“天下り先”のような気がする。だからかどうかは別として、プロ野球選手には野放図な給料が支払われているが、Jリーグはそうではないから選手の給料ははるかに低いのである。しかし、その給料は今の日本の社会情勢から考えれば妥当な額であるが、プロ野球選手の給料の高さはプロ野球が我々の意識からはるかにかけ離れた存在であることを如実に表している。残念なことである。選手が給料だけで動くものでないことは「なでしこジャパン」のことでよくわかる。
 ごちゃごちゃ言っていて最後になってしまったが、阪神球団はコーチの入れ替えではなく監督の交代が必要である、と言いたい。

[簡易復元] 大分から熊本までの九州横断ドライブ310キロの旅ー(6)大観峰で楽しいものを“観”た!!!

  • 2011/09/19 08:20

 阿蘇中岳を後にして、最後の終着駅の熊本とは方向が違うが、抜群の展望台を言われる「大観峰」に向かった。その途中に「阿蘇神社」に立ち寄った。あそ神社についてWikipediaは次のように言う。
 「阿蘇神社(あそじんじゃ)は熊本県阿蘇市一の宮町にある神社である。式内社(名神大)、肥後国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約450社ある「阿蘇神社」の総本社である。現地には「阿蘓神社」と書かれた銘板も存在している。全国的にも珍しい横参道で、参道の南には阿蘇火口、北には国造神社が位置していると言われている。…(中略)… 東向きに楼門があり、境内には社殿が3棟ある。「日本三大桜門」に数えられるその桜門は、高さが18mあり、神社では珍しい仏閣の様式で建てられた二層桜山門式である。」
 まったく珍しい仏閣様式の山門がとても印象的であった(1枚目の写真)。それとまた珍しかったのは教育勅語に関するかなり大きな石碑が2つもあったことである。それについての説明はなかったような気がするが、ちょっと不思議だった。
 そこを後にして大観峰に向かった。大観峰とは阿蘇外輪山の北の峰にあるようで、そこからは阿蘇のカルデラや中5岳が鮮やかに見える“天然の展望台”だと言う。まったくその通りで、そこからの絶景を堪能した。でも、私が堪能したのはそれだけではなかった。なんと大の男数人が大観峰の端(2枚目の写真)、絶壁に近い少し下がったところに集まって数機のグライダーを飛ばしていたのだ。そのグライダーは3枚目の上の写真で分かるようにかなり大きなもので、スポイラーのようなものもついていて、操縦席を見るとちゃんと人魚が座っている。エンジンはないが無線操縦である。じゃ、どうやって飛ばしているかといえば、それは横風と上昇気流を使って飛ばしているのだ。
 その横風と上昇気流がその絶壁にそって上がってくるのを見計らって、そのグライダーを風上に向かって投げるのである。そしてあとは無線で巧みに操縦する。まるでトンビやタカのように空を高く回るようにまた遠くを飛び(3枚目の写真の下部分)、時には急降下させる。まるで鳥である。それを見ていると彼らが飛ぶにはそれほどのエネルギーを使わないのだと分かる。自然の「再生可能なエネルギー」を使っているのだ。そんな美しく飛ぶ姿を4枚目、5枚目の写真でお楽しみください。
 では、グライダーを下すときはどうするのかといえば、最後に風上に向かって低く飛ばし、彼らが立っている深さ数十センチの草むらに軟着陸させるのである。まさに芸術的なランディングだ。それを見ていると、これは大人の高級な遊びだと実感した。それを見れば誰しもやってみたいと思う。そんなことを可能にする場所がこの大観峰なのだ。
 ついに阿蘇を離れて熊本に向かう時が来た。そして予定通り夕方に熊本駅近くに来た時、突然の雷雨に驚かされた。秋雨前線が東北から日本海に張り付いていた時期にもかかわらず、幸い旅の途中は比較的良い天気に恵まれて幸せだった。九州新幹線も幸い帝国に動き、はじめて「さくら」に乗ることができた。新大阪に定刻に着いた時、なんと東からの新幹線は大幅に遅れており、日本天体が大荒れの天候だったことを知らされた。

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