日本の野球の”いやらしさ”とスポーツ選手のエンタテイナー化
から感じること
野球の季節になると気になる”いやらしさ”
 春の高校野球、プロ野球の開幕そして夏の高校野球をテレビで見るたびに思うことは、プロであるとアマチュアであるとを問わず野球選手のなんとも言えぬ”いやらしさ”である。それは、バッターとしてバッターボックスに入ったときのことである。審判はプレー開始を宣し、ピッチャーが投球動作に入る。その瞬間多くのバッターは”ちらり”とキャッチャーの方を”盗み見”するのである。それはプロ野球選手から高校野球の選手、子供達もそうなのである。しかしこれはテレビの発達で分かってきたことで、テレビがバッターの目の動きをはっきりと見せるようになってからのことである。したがって、テレビを通さずに”観察”することは難しく、またその目の動きの本当の目的は不明である。名前は書かないがオリックスの主力選手をはじめとする多くのプロ野球選手もそのような行動をしているように思える。思えるとしか言いようがないのである。しかし、それを見るとこちらは全く不快である。

 本当のところは不明であると書いたが、野球をことのほか好きな私としては、そのように頭を動かさずとも目を動かせばある程度キャッチャーの位置を見ることは可能であることを知っている。だからやりたくなるのである。なぜこのようなことが横行するようになったかであるが、特に日本でキャッチャーが動いて投手の制球を助けるようになったことと、変化球が全盛になってきたため、投球の前にキャッチャーの位置を確かめてそれに早めに対応するようにとの思いからであろう。この行為は、しかし、キャッチャーのサインを盗み見すると同じである。キャッチャーのサインを盗み見することは、かっては二塁ランナーが行ってそれをバッターに伝えることが行われたが、いまは禁止されている。もちろん外野席(センター)から望遠鏡で眺めて(あるいはカメラで)それを伝達することも禁止されているが、残念ながらしばしば話題になることである。ようするに、バッターがキャッチャーの位置を盗み見することはキャッチャーのサインを盗み見することと同様禁止行為である。

 このような行為は、ほとんど外国では見られないように思える。野茂がドジャースに移籍してからは日常的にメジャー・リーグのテレビ中継が行われるが、そのような光景はほとんど見られないのはうれしい限りである。やはりメジャー・リーグだと思うし、これだけでも日本の野球よりは遙かに上を行くと断言できる。今年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝戦で面白い光景が見られた。ある日本選手のバッターボックスでの行動にキューバのキャッチャーが文句をつけたのである。私には、そのキャッチャーがバッターのキャッチャーの位置確認の行動に対してクレイムをつけたもののように思えた。審判はそれを特に取り上げなかったが(多分取り上げるルールがない?)、それ以降はそのような日本選手の行動が極端に減ったように私には見えたのである。

  このような「いやらしい」、別の言葉で言えば「卑怯な」、「ルール破り」の行動を何故プロ野球機構や高校野球連盟は厳しくチェックしないのだろうか。もしきちんと規制をしていてそれを知らない私は無知であるとしたら、それを堂々と行っている野球選手達は一体どんな人間集団なのであろうか?”高校野球選手らしい”などという美辞麗句は全く的はずれである。技術とスピードの粋を尽くすはずのプロ野球選手、そんな選手の多くがバッターボックスでピッチャーのボールを待つ直前に目をキャッチャーの方に動かすのを見るのは苦痛である。昨年優勝した阪神の選手にそんな光景をあまり見ないのは、野球が大好きなひとりとしてとてもうれしい。

 近年、日本選手のメジャー行きが珍しくなくなるに連れ、また実力のある選手の流出を嫌がる人達によって、「メジャーの質が落ちた」ので日本選手の活躍する可能性が高まったのであって、日本選手が良くなったのではないなどの言い分が流布されている。確かにメジャー・リーグは以前に比べて大幅に球団数を増やした結果、選手のレベルが下がり、その結果中南米系の選手や日本選手の入り込む余地が増えた。これは部分的には事実であろうと私も思うが、しかし日本選手がメジャーに行きたいと思う理由には、ある意味では上に述べたような日本的な「いやらしさ」との、あるいは「ベンチワーク」にがんじがらめにされている状況との決別がその底流にあると私には思えるのである。そしてかれらは力と力の勝負をしたいと思っているのであろう。それがスポーツの大きな醍醐味であることは確かである。

 いま夏の高校野球のテレビ中継を見ながら思うのであるが、ランナーがいる場合バッターはベンチのサインを見て直ぐにピッチャーの投球に向かわなければならない。自分で投手の次の球種や状況を監督のサイン確認のあとにとっさに読むことはほとんど不可能である。こんなことでは考える選手が育つひまなどないのである。これはなにも高校野球に限ったことではない。勝ち負けに極端にこだわる日本のスポーツ選手の多くは、上下関係などを含めていろいろな意味でがんじがらめになっていて、そのはけ口のひとつが姑息な手段を使っても勝ちたいとする欲望を生み出すのであろう。だから、”高校野球選手らしい”などと言われるはつらつとした、必死のプレーの裏側には、上に述べるような複雑な心情が隠されている。グランドに出れば自分で判断するしかないサッカーの場合でも、ジーコやオシム監督から「考える」ことを求め続けられるのである。これは日本の文化のひとつの「結果」でもある。いや、文化そのものであろう。
スポーツ選手のエンターテイナー化について
 先日のボクシングWBAライトフライ級王者決定戦での亀田興毅(19=協栄)判定勝ちの判定については日本中が騒然とした。ただ、その判定はホームタウンディジジョンだったように思うが、そのようなことはなにもいまに始まったことではなく、ボクシング界ではしばしば問題にされてきた古い話のひとつであり、ここで特に問題にするつもりはない。それよりも、亀田選手などの若いボクサーの過激なパフォーマンスが気になる。これがスポーツ選手かと思うほどである。問題なのは、そのようなパフォーマンスには実はテレビ中継のキー局などが絡んでいると言われていることである。上にあげた亀田興毅選手などはきわめて繊細で論理的な選手であるとの報道もある。もしかしたら、そのようなパフォーマンスをしなければ視聴率が上がらないなどのある種のやらせがテレビ局と選手側にあって、暗黙のうちにそのようなことが行われているのではないかとさえ思うのである。 誰がファイトマネーを支払っているのだろうか?

 同様のことはプロ野球でも見られる。特に新庄選手を中心とするパフォーマンスは良識の枠を越えているように感じることがある。人気獲得になにもできないプロ野球機構に成り代わって新庄選手は頑張っているつもりであろうが、度が過ぎるとピエロのようになってしまう。また、高校野球では、ヒットを打ったといってガッツボーズをし、長打を打ったといってガッツボーズをしている。特に長打を打ったあとなどまるでボールを見ないでガッツポーズをしている有様である。プロの選手からアマチュアの選手まで、スポーツ選手は軒並み自分を派手にアピールすることが求められている状況をただ実践しているのであろう。つまり、変質してしまった社会の有り様は、そのままスポーツ選手の動きに丸写しになっているのである。なんとも嘆かわしい限りであるが、これはあらゆる分野で同様である。

 外国、特にアメリカなどではスポーツにおけるエンターテインメント的な要素は、チアガールやハーフタイムショーなど、スポーツをする主体とは別の人達によって担われている。このことはよく考えるべきことで、逆にいえば、スポーツ選手はプレーに専念することが要求されているのである。その意味で、一見派手に見えるアメリカのスポーツ運営は、実はかなり落ち着いているというべきであろう。ガッツポーズなども相手のことを思いやって決してやらないと言われている。また、ファンのこともよく考えられており、メジャーリーグのオールスター戦は、それに勝てばその年のワールドシリーズ最初の試合の開催権を与えるなどで真剣勝負の場となるよう努力している。それに比べて何のアイディアもないのが日本のオールスターであり、したがって真剣勝負というより見せ物に化しているというべきであろう。誰かが目立った活躍をすると、すかさずテレビのアナウンサーや解説者が、「○○選手は自動車のハンドルを手に入れましたね」に類するような馬鹿な放送ばかりしているオールスター戦なんて、誰がまともに見るであろうか。こんなことの積み重ねが人気低落の要因のひとつであるとどうして気がつかないのであろうか。こんなところにもメディアの暗い陰が潜んでいる。
まとめ
 要するに私の独断で言えば、日本のスポーツ選手、特にその大きな部分を占める野球選手達はなにも考えられないように育てられ、そのようなシステムの中で活かされており、したがって何のアイディアも出てこない状況におかれ続けている「巨人の野球から見える私たちの姿」参照)。そして、そのことは私たち自身にも当てはまることである。いま、また高校野球のテレビ中継を見ながら書いているが、彼等は一度たりとも負けられないトーナメント戦を戦わなければならず、全てを監督に一任して、それに忠実に従うことで責任を全うしようとしている。そこからはなにも生まれない。だから、キャッチャーの位置の盗み見もやるしかないのであろう。

 日本がWBCで優勝したとき、誰かが「日本はトーナメント戦に慣れている」と誇らしげに言っていたのを思い出す。実はあの勝利だってラッキーの一言だと言えばその通りなのである。あまり図に乗るのもいい加減にしろと言いたい。それはともかく、トーナメント戦が主な戦い方であることによって失うものの大きさを誰も気づいていないのだろうか。こんなことあんなことなどを考えると、多くのプロ野球選手がメジャーリーグで活躍したいと願う気持ちがよくわかる。そんな彼らは、自分の頭で、自分の技術で、そして自分の力で勝負したいのである。私はそんな選手達を強く応援したい。
                                                                                               (2006年8月12日)
追記:
 それでもやっぱり私は高校野球が好き。今日も甲子園に行って来ました。
                           (2006年8月13日)
 
追記:
 もうひとつ日本の野球に普通に見られる気持ちの悪いことは、キャッチャーのキャッチング動作である。明らかに審判のストライク・ボールの判定を味方に有利にするための偽装である。この偽装動作を全くしないキャッチャーを日本の野球界で見つけることは非常に難しいくらい広く行われている行為であるが、メジャーリーグの試合でそれを見ることはほとんどない。ヤクルトの古田捕手がそれをそれほどあからさまにはやらないのはうれしい限りである。
 この文章の本文を書き終わったときに、偶然の一致かプロ野球セントラル・リーグの広島カープ監督ブラウン氏が、アンフェアーな(非紳士的な)行為が行われていると記者に語ったとの記事が報道された。ことの真相はまだ明らかではないが、彼はなにかを感じているようである。
                           (2006年8月15日)