私たちはなにをテロと考えればよいのか
2004年10月31日夜、イラクで拉致されていた香田証生さんはついに殺害され帰らぬひととなったと報道された。まさに混迷の度を深めているこの世界で、私達は一体何を考えればよいのだろうか。私が子供の頃は、いま日常茶飯事のように起こる殺人など滅多に起こることはなかった。社会は決して進歩していないし、人間も相変わらずであり、いやむしろより凶暴化していると考えるべきかもしれない。何物にも代え難い人間の命が簡単に奪われるようになったこの社会を進歩したと言えるはずはないのである。進歩したと言えるのは、限られた意味での科学技術であろうが、これが社会や人間の進歩と連動していないのは、それを生きる糧としてきた私には悲しい。

 米国ブルックリン研究所によれば、10月25日現在、イラクでの主要戦闘が終結したとされる昨年5月以降イラクで拉致された外国人は152人で、そのうち31人が殺害されたとされる。それ以前に拉致された外国人は今年3月までは1人だったのが、600人のイラク人が死亡したと言われるファルージャでの米軍と反米武装勢力との戦闘以来一挙に増加し、イラク人も標的にされ始めたことからイラクは外国人にとってもまたイラク人にとっても恐怖の戦場だと言ってよい。今回の香田さんの件で拉致した武装勢力は、日本の自衛隊の48時間以内でのイラクからの撤退を要求したが、小泉首相は「テロに屈してはならない」として直ちに拒否を言明した。

 テロとは、もともとは直接の政敵を武力で倒して自己の主張を通そうとする行為を指していたと思われるが、いまはこれが直接の政敵に止まらず、その周りの人たちを含めて大規模・組織的に行われるようになってしまった。テロは人の命を奪うことによって目的を達成するという意味で憎むべき行為であるが、それと「抵抗運動」との境は元々明確ではない。テロと抵抗運動とを分ける論理は、簡潔に言ってそこに「大義」が存在するかどうかであり、無差別殺人であるかないかである。しかし、この大義はそれぞれ個人または組織の考え方で大きく変わり得るもので、主観的な考え方であると言った方がよい。

 今回のザルカウィ派の犯行といわれる残忍な殺害は、彼らが拉致・殺害の対象とする人たちの国籍、宗教、性別などが多岐にわたることから、抵抗運動の一種とは私には考えられない。犯行グループにとってどうでもよいことかもしれないが、今回のことは明らかにテロと指弾されるべきであると私は思う。しかし、問題はもっと根深いと言うべきだろう。イラクは、たとえフセイン政権下であったとしてもこれほどの混乱があったと報道されてはいなかったし、外国人にとって決して危険な国ではなかったはずである。

 イラクがこれほどまでに混乱し、無法地帯化した原因は、明らかにイラク戦争である。アメリカ・ニューヨークの貿易センタービル2棟を攻撃されたアメリカは、これを宣戦布告と受け止め、首謀者とされるウサマ・ビンラーディンが潜伏しているとされたアフガニスタンを攻撃し、さらに彼らアルカイダと深いつながりがあるとされ、また大量破壊兵器を持ち、いつでもそれを使いうるとされたイラクを攻撃し、フセイン政権を崩壊させたのである。さらに、正常な市民生活を支える基礎となる治安回復が全くなおざりにされた結果、イラク全土にわたって混乱が続いているようである。

 イラク戦争を引き起こしたブッシュ政権にとって一握りの日本人が亡くなることなんてなんとも思わないのであろう。彼らはすべては国益のためであると考えているのである。アメリカの政策は、すべて「国益」を基準として立案されており、それがたとえ侵すべきではない他国の領土内に関することであろうとも厭わないのである。このような考えに基づき、朝鮮戦争以来のベトナム戦争への介入、自国の裏庭との意識からのキューバなどの中米諸国への度重なる侵入または干渉、湾岸戦争、そして国連軍の一員としてのレバノンやソマリア派遣など多くの軍事行動を行ってきたのである。このことについては、山崎雅弘著の「アメリカの戦争」(学習研究社発行)に詳しい。なお、このアメリカの国益優先は経済問題・環境問題にも貫徹され、京都議定書にも国内経済を守るためとして調印しないなど驚くべき姿勢を見せていることを書き留めておきたい。
 2001.9.11の攻撃を受けて以来、アメリカは国益を守るためであれば「先制攻撃権」もあるとする、さらに先鋭化した立場に変わったのである。しかし先制攻撃をしなければならない理由が、誰が見ても納得できること、つまり「大義」となりうるものであればともかく、今回のイラク戦争を引き起こす際にはその判断すら国連の圧倒的な反対を押し切ったアメリカの独断だったのである。上にあげたその理由は、当初から具体性確実性に欠ける内容であったにもかかわらずであった。その理由を確定すべく大々的に行われてきた捜索でも大量破壊兵器を発見できず、米政府調査団は10月5日、千ページに及ぶ報告書を公表し、最終的に大量破壊兵器は存在しなかったと結論せざるを得なかったのである。また同じ日に、ラムズフェルド米国防長官はニューヨークの外交問題評議会で、当時のフセイン大統領とアルカイダとのつながりも証明できなかったと述べた。

 一体、それではアメリカ軍によるイラク攻撃にはどんな大義があったのだろうか。それはないと断言せざるを得ないし、元々そんなものは存在しなかったのである。あったのはアメリカの石油を巡る「国益」だけだったとの推測が支配的である。このように考えればアメリカの行動は、文句なしに「国家テロ」である。千人以上のアメリカ兵が戦死したとされるが、イラクではすでに10万人以上のイラク人が死亡したと言われる。つい数日前にウサマ・ビンラーディンはテレビで貿易センタービル攻撃に関与したことを認めたとされるが、いつの日にかアメリカはこの攻撃を国家テロだったと認める日が来るのであろうか。その日が来ない限り、アメリカはこの先長い間、いつ起こるかもしれないテロに恐れおののくことが予想される。ウサマ・ビンラディーンが強い関心を持ち続けてきたパレスチナの人々の、国連安保理の決議にも従わないイスラエルとそれを支持し続けるアメリカによる長い長い侵略と占領への反発が、9. 11だったのだと私には思える。

 このようなアメリカの国家テロを許容し、支持し続けているのが日本政府である。今回の香田証生さんの死は、そのほころびのひとつであろう。この政策をいつまでも続けていれば犠牲者は10人20人と増え続け、いずれ無差別攻撃テロが日本のどこかで起こる危険性を感じる。そんな日本にしてしまいそうな小泉首相にいつまでも付き合うわけにはいかないのである。小泉首相は「テロに屈してはならない」と言い続けるが、支持するアメリカの行動が国家テロであるとすれば、その言葉は”one phrase politics”以上に空疎そのものである。こんな首相に、米国ワシントン州にある米国陸軍第一軍団司令部の座間移転などをまかすわけにはいかない。アメリカでは至る所に警官・軍隊が配備され警戒に当たっているが、最近の日本でも同様である。それほどまでに警戒が必要になってきたとの認識が政府をはじめとする日本の警備担当者の間に行き渡ったことを意味している。

 もうすぐアメリカの大統領選挙が行われる。アメリカが少なくともブッシュをあきらめることによってこれまでの誤りを間接的に認めるのかどうかが問われている。それを実現できないとすれば、アメリカという国はもはや信頼に値する国ではなくなったと見なすべきであろう。わたしはかって「遠ざかりゆく星条旗」という文章を書き、アメリカの一国主義を厳しく批判した。このままでアメリカが突き進むとすれば、この国は門戸を閉じ、アメリカの活力源そのものであった外国からの優れた人材の導入にもかげりが見え始めるであろう。そうなり始めれば、これまで自らを救い続けてきたグローバル化が、逆に自らにたてつくことになり、あっという間に凋落の方向を向く可能性もあるのである。
                            (2004年11月2日)