北朝鮮からの拉致被害者家族の帰国、そして邦人イラク人質事件で想うこと
 昨日、小泉首相が再度北朝鮮を訪れて金正日総書記と会談し、拉致被害者の家族5人の即日帰国が実現した。しかし、拉致被害者家族連絡会や拉致議連会は猛烈な反発を示し、特に「拉致された家族の気持ち・感情」が全面に出た強い批判は、今回の訪朝を”問題はあるがプラス”と評価する意見を消し去ってしまいかねないほど強く、それへの批判を封殺しかねない。私にはそのような批判は必ずしも有効だとは思えないのである。

 このような、国中が何か一枚岩でなければいけないとの雰囲気は少し前に起こった邦人イラク人質事件の際にも感じられた。それについては、「イラク人質事件ー飛行機代を出せだと?」に怒りの一端を書きなぐった。それは、政府与党を中心とした「自己責任論」として現れ、その雰囲気の最後には、4月26日柏村参議院議員の「反日的分子」発言に代表された。この雰囲気は外国からの批判もあって時間とともに少しずつ沈静化したが、しかし私の目には日本のマスコミを含めてきちんとした議論が行われることはなかったと感じている。

 この二つの出来事から私が感じることは、太平洋戦争中は国民に「鬼畜米英」と言わせ、逆に敗戦後には一転して「占領軍」ではなく「駐留軍」として受け入れさせようという体制のあり方と似たものであった。このようなことから最近の日本には、世界的にテロ(なにがテロであるかは問題であるが)が横行するなどの事情もあってか、個人の意見が抹殺される、あるいは微妙な心の動きが消されて、そんなことより「国家」、「安全」、「有事」、「危機意識」、「憲法改正」などの言葉が飛び交い、私は背中に寒いものを感じている。要するに言いたいことが言いにくい、かっての戦時下の日本のような、あるいは9.11テロ後のアメリカ(いまもそうだが)のような雰囲気が出来てしまっているのである。全く恐ろしいことである。国が全面に出たときほど恐ろしいときはないのである。

 今回の小泉首相訪朝のことを考えてみよう。彼は出発前に「敵対関係を友好関係に、対立関係を協力関係にする大きな契機にしたい」と述べ、また「長い間、大変つらい思いをなさってきたご家族は、本当につらい思いをなさってきたご家族は、本当に悲痛な気持ちで待っていると思う。その気持ちを胸に首脳会談に臨みたい」と語り、朝鮮半島の平和という大きな枠組みの中での拉致被害者家族の帰国という位置づけであったことが、拉致被害者家族連絡会や拉致議連の考えることとは違っていたようである。私はこの小泉首相の訪朝の位置づけを支持する。その大きな枠組みの中での「拉致」の問題設定は、二度にわたって一国の首相が訪朝するという枠組みとしては当然であろう。

 今回の訪朝の評価に関しても、”北朝鮮のひどさ”のような話がもっぱらテレビなどで語られている。しかし、その”ひどさ”に至る過程で日本の果たした役割は一体何であったのだろうか。アジア・アフリカ・中南米あるいは中近東で起こる多くの内戦や、それに伴って難民や貧困の発生は、いわゆる欧米列強の植民地政策の結果であるといわれているが、1945年までの日本帝国36年間の朝鮮半島蹂躙はそれと同じではなかったのか?この間に何万、何十万あるいはもっと大勢の人たちが日本につれてこられた、いわゆる拉致されたのである。現在日本におられる高齢の在日韓国人、在日朝鮮人の方々は好んで日本に来られたとは思えないのである。これに関して日本は何かしたのであろうか。何か補償をしたのであろうか。また、朝鮮半島分断となった19 50年からの朝鮮戦争の特需で日本が経済復興を果たしたのは全く歴史の皮肉である。このことをきちっとやるのが国交正常化交渉であり、「敵対関係を友好関係に、対立関係を協力関係にする大きな契機にしたい」ということであると理解したいのである。このことをきちんとやろうとしない日本に対して北朝鮮が60年間にわたってどれほどの”恨み”を抱いているかは想像に難くはないのである。

 私がこのように思う理由は、私個人の生い立ちの歴史にもある。私はホームページに別の文章「母からの遺言」を載せた。その中にも書いたが、私は日本が朝鮮半島を占領していた1939年にいまの韓国仁川で生まれ、私が5歳の時に日本に引き揚げてきた。まだ敗戦前であったので特に問題もなく引き揚げが出来たのであるが、敗戦後に引き揚げた、特に中国方面から逃げまどいながら引き揚げた方々には想像を絶する困難があったようである。その朝鮮半島を通っての逃亡過程で、引き揚げ者は北朝鮮の方々に多くの援助をいただいたという。私も引き揚げが遅れていれば、どうなったかわからなかったのであり、日本の朝鮮半島支配の歴史は言葉では言い表せないほど重いものであると思う。北朝鮮との交渉の中で、そのような大切なことがどこかに飛んでいってしまって、ただただ”ひどい”国だというだけの報道は何とも残念であり、だから敢えてここに書いておきたいのである。
 今回の首相訪朝の評価についてはいろいろあるであろう。現在の北朝鮮の状況は決してまともだとは思わないが、それはこれまでの歴史の中で大きく歪んでしまって結果だと感じている。そんな北朝鮮を相手にして、物事が一挙に解決すると考えるのはいささかばかげている。その重い扉を開けるのは一朝一夕にはいかないであろう。わたしは、行方不明者10名についての新しいデータが何もなかったということや人道支援についての問題はあるにせよ、一つ一つ解決してゆくしかないと考えてのことだと理解している。それほどまでに日本と北朝鮮との関係は歪んでいるのであろう。でも、素直に5人のご家族の帰国を喜びたいと思う。

 今回の話にはもうひとつ書いておきたいことがある。今回のことで家族会や議連の方々は、なぜ「制裁」を表に出して交渉しなかったのだと批判している。最近、残念なことに国内あるいは世界中で「制裁」、「飴と鞭」、「力の行使」、「復讐」(「リベンジ」)の言葉が横行し、国会でもその手の法案が成立する時代である。イラク・アフガニスタンへの力の行使は逆に大きな反撃を受け、武力の行使はますます拡大の一途をたどるしかないのである。テロに対する復讐は、また新たなテロを産み続けている。しかし、よく考えてほしい。私たちが持つ平和憲法は武力の保持そしてその行使を禁じている。そのことは平和の維持は力に頼るのではなく、正当な誠意を持った交渉に求めることを意味し、従って私たちの平和憲法はいまの地獄のような世界とは別の世界を私たちに求め続けることを期待したのではなかったのだろうかと思う。

 そのような歴史を私たちは60年歩み続けたのである。その結果、私たちも私たちの指導者も「力の行使」にもとづく交渉も上達せず、ただ「人道支援」をこれまでも乱発するしかなかったのであろう。しかし、それこそが日本の歴史であり、私たちはそれを許容するしかないのである。私は、日本がパワーゲームの得意なアメリカや北朝鮮のようにはなってほしくはない。現在の日本は、あらゆる意味でアメリカのパワーゲームの産物である。日本にはもっと人の気持ちがわかる国になってもらいたいのである。それでは国は立ち行かないという批判はあるであろう。でも、いままで60年間なんとかそれでやってきたのであり、日本の”軍人”は戦後60年間自国民はもとより他の国の人を殺してはこなかったのである。こんな素晴らしい歴史を作ってきた国民のいる日本は、なにも大国になる必要はなく、資源もないのであるからその身の丈にあった小さな国であればよいのである。そして、日本を滅ぼそうとする国があるのなら、小さな抵抗運動をしよう。その結果はどうなるかわからないが、それはそれで良いであろう。世界は黙っていないであろうから。

 それより、地村さんご夫妻と蓮池さんご夫妻にもっと明るく朗らかに喜んでほしいと思う。それを許さない昨日からの日本の空気は、イラク人質事件で「自己責任論」が頻発したときと同様に何か日本の恐ろしい未来を感じさせるのである。両夫妻の家族の帰国を喜んでくれた曽我ひとみさんのためにも大いに喜んであげてほしい。
                                          (2004年5月23日)

追記:
 今日の読売新聞は小泉訪朝の評価についてのアンケート結果を掲載し、「評価」するが63%に上ることを報じた。全面的な解決には7割が悲観的な見解を持っていることが併せて報じられているが、アンケート回答者の6割以上がマスコミ以上に冷静な判断を下しているように私には思える。                                             
                                          (2004年5月24日)

追記:
 5月25日の毎日新聞、26日の読売新聞は、22日の家族会などが行った訪朝結果への強い批判に対して、多くの批判的意見が「救う会」に寄せられたことを報道し、「救う会」 やメディアが行った報道と多くの国民が得た感覚とは異なっていることを改めて示した。
 このことに関して、拉致被害者家族などは自分たちの空しさや苦しさがわかってもらえていないと苦しい胸の内を述べていた。こんな談話が述べられるときによく聞かれる言葉は、「自分の娘や息子が拉致されたのであれば、そんな安易な交渉は出来ないはずだ」などである。しかしこれは無い物ねだりだと言わざるを得ない。残念なことだが、人間はそう簡単に他人の苦しみや悲しさをその人と同じように感じることは出来ないのである。出来ないことを前提として私たちはものを言わなければならないのであろう。そして、その壁を越えられたときに初めて感情の共有が可能なのである。
 私は上に、日本の敗戦後中国から北朝鮮・朝鮮半島を通って日本に逃れようとした人々が、日本に長期間支配されていたにもかかわらず逃げまどう日本人に暖かい救いの手をさしのべた人たちが朝鮮半島にいたことを述べた(藤原てい著、「流れる星は生きている」、青春出版社)。私はそんな方々のような人間になれればと思う。しかし、残念なことに私たちは彼らの受けた苦しみを共有することはこの60年間出来てこなかったのである。それは直接の帝国支配をあわせれば96年間という気の遠くなるような年月になるのである。だから、私には今回のことに関して「制裁」という言葉は出てこないのである。たとえ、怪しげな人道支援であろうともまだその方がましである。           
 そんなことを言っているから北朝鮮に手玉にとられるような交渉になるのだ、といわれることは火を見るより明らかであろう。しかし、そんな批判は、一瞬ひとの口を封じるのには役に立とうが、問題の在処を明らかにするには何の役にも立たないであろう。そのような批判だけがこの何十年間、なぜかこの負けたはずの国に横行し続けてきたのである。だから私は上に、人の気持ちのわかる国になってほしいと書いたのである。
                                                                  (2004年5月29日)
 上の本文中に私は次のように書いた。「現在日本におられる高齢の在日韓国人、在日朝鮮人の方々は好んで日本に来られたとは思えないのである」。ここで「好んで」と書いたのは、暗に「強制連行」を意味したのである。実はこのことについて私に100 %の確信があったわけではなかったので、少し調べるつもりで最近次の本を読んだ。鄭大均著の「在日・強制連行の神話」(文春新書)である。それによれば、強制連行されてきた人たちのほとんどは日本の敗戦後に進駐軍の命令によって帰国し、残った方々のほとんどは自らの意志で帰国しなかったとされている。しかしこれらの事実は、戦後の複雑な加害者意識と被害者意識が錯綜する中で「強制連行」として神話化したと著者は述べている。私はこの本を読む限りにおいて、著者の主張を認めたいと思う。今後、このような問題点の議論に注意を払い続けてゆきたい。ただし、この主張を認めても、私が上に述べた主旨に何の変更もない。
                                                                   (2004年7月10日)