“父の足跡をたどりながら感じた日本軍上層部の無責任さと下級兵士の惨めさ”
はじめに
昨日は無謀にも真珠湾を奇襲攻撃した日であった。ここ数年、毎年夏が来るといつも思うことがある。その多くは、かっての戦争体験者の高齢化に危機感を感じるNHKが展開する、「戦争・証言記録:兵士たちの戦争」の番組に触発されている。そしてその気持ちは昨年 2008年9月2日に「『戦争の記録』と私」として当ホームページに発表した。それは、なにも出来ない自分に対するある種のいらだちであり、焦りの表現である。

今年もまた幾つかの同様の番組を見たこともあり、忸怩たる想いを禁じ得ない。今年特に衝撃を受けたのはNHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言 『第三回 第二の戦争』」であった。これは戦後海軍の上層部にいた人達が二度と過ちを繰り返さないためにと長い期間にわたって開いたいた「反省会」がなぜか公開されなかったため、NHKがその膨大な記録テープをつぶさに検討したものであった。第一回と第二回の放送もきわめて重要な内容であったが、私にとっては第三回目の放送が特に衝撃的であった。その理由は、私の父が戦犯であったらしく、そのために「公職追放」の身であったと子供の頃度々聞かされてきたと、おぼろげながら思っていたからである。
父は戦犯であったのか?
私が父の足跡をたどろうと思ったきっかけは、これもやはりNHKが放送した「BC級戦犯 獄窓からの声」(2008放送)であった。それによれば、東南アジアなどの戦場において通常の戦闘行為を逸脱した行為や特に日本軍によって頻繁に行われたとされた捕虜虐待などによって連合国側からBC級戦争犯罪人とされた軍人などが多数逮捕され、死刑判決を受けたと放映された(BC級といえども大将や中将などの大物もいた)。いろいろ調べてみると東南アジアの逮捕者だけで1万人を遙に越えたと言われる。読売新聞社刊「検証 戦争責任II」によれば、国内外49の法廷で裁かれ、920人が処刑されたらしい。NHKの放送によれば、父がいたインドネシアではジャカルタ(バタヴィア、ジャカルタは1942年の日本軍による軍政以来の都市名)で裁判が開かれ、死刑の判決も出たとのことであった。

実は私が小学生に成り立ての頃、終戦後帰国した父からは敗戦直後に現地で“捕まった”と聞いていたこと、帰国が敗戦後二年も経ってからと思っていたこと、そして公職追放のため以前職業としていた教師の職に就けないと聞いていたことから、父は戦犯としての経歴があるのだと直感した。そしてそのようなことをもっとはっきりさせたいとの願いから、2、3年前から父の経歴を調べ始めたのである。そのようなことをあちらこちらに照会して調べていた矢先、上に書いたようにNHKは今年の夏「日本海軍 400時間の証言」という特別番組を放映したのである。これは、軍というもののあり方を私の想像通りに暴き出したもので、軍上層部の無責任と末端の兵士の惨めさを感じることになった私は、「父の足跡」に引っかけてそのことを書いておこうと思ったのである。
父の経歴を調べる
父のことをよく知っていた姉二人が既に他界したいま、父の経歴を調べることはそう簡単なことではなかった。しかしたまたま私は昭和42年に母のために、死去した父に関する普通恩給改定請求書を総理府恩給局に提出し、その答えを昭和46年になって三重県知事を通して受けとっていた。その答えは満足すべきものではなかったが、しかしそこには三重県知事が保証した父の詳細な経歴が記録されていたのである。その履歴書の発見によって始めて父の成人してからの記録を見ることができたのである。その記録の全貌を以下に記す。今回の調査の目的は上に述べたように2つあった。ひとつは、インドネシアのジャワ島における役割である。もうひとつは、父がどうゆう経歴を持って生きていたひとだったのか。つまりは父の活動範囲を知ることであった。
陸軍司政官としての役割ーはたして戦犯であったのか?
私はどうしても知りたいとの思いから国に頼ることはあきらめ、父の本籍が三重県にあったこともあり本籍地の町と三重県庁に問い合わせることにした。三重県は北川知事以来情報公開が徹底されていると聞いていたので期待していたが、期待に違わず本籍地の町と県庁が一緒になって調査にフル回転してくださった。特に真摯に対応してくださったのは三重県庁健康福祉部社会福祉室の女性職員で、戦後陸軍の資料を自治体が引き継いでいることから個人情報開示請求をするように勧めて下さった。開示請求書を提出し、回答を待った。しかし、父が戦犯であったか田舎についての情報は遂に発見することができなかった。対応して下さった職員の方は厚生労働省や総務省に掛け合って下さったようであるが、何も実のある情報を引き出すことができなかったとのことであった。ただ、一応教職を元にした恩給が支払われていたことから戦犯、あるいは公職追放ということはなかったのではないかとのことではあった。

ところが、インターネットで必死に情報を探し求めていたところ、分厚い2巻からなる復刻版「公職追放に関する覚書該当者名簿」(長浜功監、明石書店発行)を発見することができた。このような名簿が存在することくらいは国の関係者は認識していて当然であるが、そのことすら我々に伝えられることはなかったのである。なんという国であろうか。ところで公職追放とは、敗戦後GHQの指示で行われたもので、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者、さらには戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部などが、政府の要職を含めた公職や民間企業の要職に就くことを禁じたものである(Wikipediaによる)。

その本は近くの茨木市図書館の蔵書としてあったことからそれを閲覧することができた。 20万人以上の追放者名簿であるから膨大であるが丹念に父の名前を探したが遂に見つけだすことはできなかった。はたしてこの名簿が全てであるかどうかは全く不明である。しかも追放にはもうひとつあったのである。それは教職追放である。しかし、これに関してもどう調べてみても私の手には負えず、県庁職員の手にも負えなかった。我々には真実を知る方法がほとんどないのである。
それにしても下級兵士は惨めであった
最初のところに、A級戦犯ではなくBC級戦犯は国内外49カ所で裁かれ、その内920人が処刑されたと書いた(「検証 戦争責任II」読売新聞社刊)。この中には、朝鮮や台湾から徴用され、捕虜の監視などに就いていた軍人がかなりいたようである。彼等の多くは捕虜虐待の罪で処刑されたと言われる。一方東京裁判で裁かれたA級戦犯はどうであったのであろうか。上の本の報告によれば、最終的には28名のA級戦犯容疑者が起訴され、絞首刑に処せられたのは東条英機(首相)をはじめとして7名で、最後まで拘束されていた岸信介ら17名の容疑者は、東条などが処刑された昭和23年12月23日(現在の天皇誕生日)の翌日に不起訴となり釈放された。

NHKが放映した「日本海軍 400時間の証言」の第3回「第二の戦争」はきわめて衝撃的であった。つまり、太平洋戦争を押し進めた海軍軍令部は東京裁判を第二の戦争と位置づけ、そこで裁かれるのを「戦争」になぞらえて闘ったのである。そこには、軍令部の総長が宮様であったという事実を前面に出し、もし軍令部あるいはそのメンバーが裁かれるようであれば天皇にその影響が及ぶことを連合国側に認識させ、海軍関係者をA級戦犯容疑者とすることを回避させたのである。海軍で容疑者になったのは僅か1名に過ぎなかったのである。

満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争と進んだ日本の戦争政策の犠牲者はおよそ合計 310万人、その内軍人210万人、民間人90万人、そしてこれら戦場での死者の総数は2000万人といわれる中で、政策を推し進めた政治家、陸軍、海軍の上層部で処刑されたのは、その裁判がいかなるものであれ、僅か7名だったのである。それに比べて主として東南アジアで行われたBC級戦犯容疑者の裁判では920名もの処刑者が出たのである。海軍軍令部が巧妙に行ったように「第二の戦争」と位置づける術もなく、現地で処刑された者はきっと下級軍人が多かったのであろう。ましてや、その戦闘に巻き込まれて命を落とした多くの民間人にはもちろんなす術もなかったはずである。
あとがき
戦争とはやはりそうゆうものなのであろう。軍隊というものもそうゆうものなのであろう。昨夜NHKの「クローズアップ現代」での、「さまよう兵士たちの“日の丸”」は私には衝撃的であった。アメリカでは日本兵が肌身離さず持っていた、武運長久などと書かれた日の丸の旗が売り買いされているというのである。そんな市場主義のアメリカの現状には吐き気がするが、しかし、アメリカの人達から戦場で得たそのような日の丸の旗を遺族に渡そうと送られてきても、厚生労働省はその大部分についてはほとんど為す術がないようである。その番組に出演していた半藤一利氏や澤地和枝氏は、多くの人達は310万人の犠牲の上に今日がある、なんて言うが、本当はそんなことを考えてもいないのだろう。あってはならないこの未曾有の惨事を二度と繰り返さないと本当にそう思うのなら、“さまよう日の丸“なんてことは決して起こらないであろうし、また115万柱がいまだどうなっているのかも分からないなんてことなど起こるはずがない、と言う。私は半藤氏の「昭和史」を読んでいるが、当時の政治家や軍の上層部のあり方はどうしようもない、個人と組織の防衛しか考えていないのだからあきれてものが言えないのである。

そんな戦争であり、またそんな軍隊でありながら私の父は志願の文官として遅まきながら参戦したのである。なんとかしなければと思ってのことであったのであろう。しかし、父がどう思って志願したのかはともかく、ジャワ島での最後の行動をどうしても知ることができないのである。もはや私は国の機関にその相談をする気はさらさら無い。相談するとすればオランダである。この国に住む者としてこの感情は致命的である。軍人名簿さえまともに保存されていないこの国が作る軍隊、これまでの軍隊と違うという保証は全くないのである。結局、軍隊というのは最後は国民に刃を向けるのが常である。私は昨年末田母神論文の問題に関して、ある人達に次のような正直なメールを送った。

「ただ、一言だけ今年の終わりに言いたいことがあります。それはあの巨大な戦争の一コマ一コマの評価ではなく、あの戦争を、たとえそれが他国からそそのかされたもの、あるいは他国のためであったという言い訳をしようとも、あの戦争を遂行し計り知れない数の生命を落とさせ、危険にさらしたことになんの反省も示さぬ軍人が日本の軍隊の中を自由に闊歩していた事実に驚愕したということです。

 しょせん軍隊は最高の力をもつ権力の暴力装置以外のなにものでもない。それは資本主義国も社会主義国も同じです。だから、徹底した文民統制が必要なのです。しょせん軍隊は、自国民を守る前に必ず自国民に銃口を向けるものである。日本の場合でも、それがあったからこそ国民は教育されたのです。自国民に銃口を向けないことを誇りとしてきた中国人民解放軍も、かっての天安門事件で遂に人民に銃口を向け、近年はその頻度が増していることを心配している。自国民を守るためとして海外に防衛戦を張ろうとする米軍も、海外で多くの自国民の死者を出す(他国民はもちろん)とともに結果としてその延長線上に今回の未曾有の金融危機を引きおこした。どれほどの人の命に該当するであろうか。まだ分からない。

 私は、問題はこれからどうすればそんなことを防げるかに尽きると思う。私は、NHKが総力を挙げて展開している「証言記録」を観て記録に残しながら、次のように思っています。戦争好きの軍隊など要らぬ。軍隊のない国をどこかが襲うなら、それに竹槍ででも抵抗し、屈するなら屈するしかないのであろう。そんなことをする国は、いずれどこかの誰かに、あるいは神にか同様に屈服させられるであろう。力の応酬からは何も生まれぬ、あの巨大な戦争から愚かな人間たちはそんなことを学んだはずではなかったのか。こう言うのを「自虐的歴史観」とでも言うのでしょうか。怒りがこみ上げてきますが、このあたりで今年を終わりたいと思います。」

今年本格的な政権交代が起こり、現在その政策遂行に関して騒がしい状態である。沖縄の普天間基地の移設に関して米国との間に摩擦があるようである。沖縄県民のことを考えれば県外・国外移設を真剣に考えるのは当然であろうし、その過程で米国との摩擦が起こることもまたやむを得ないことであろう。そのことを恐れてこれまでの政権は米国に追従してきたのではないか。核の密約も米国があったと言うのに自民党政権はないと強弁してきたのである。予算の仕分けと同様に外交についてもさまざまに仕分け・検討をし直せばよいのである。それが政権交代の意味であろうし、国民の目線で物事を考えることでもある。かって、1960年代から1980年代にわたって、米国との安全保障条約を題材にして国中が沸き立って激烈に議論してきたのではなかったのか。そのことを国民みんなが忘れてしまったとするなら、いまのさまざまな状況にも全ての国民の責任が問われるのであろう。他人事ではなく、落ち着いて考えたいものである。
あとがきのあとがき
今回書こうとしたもうひとつ目的は、父の足跡を示す経歴からひとつ上の世代の活動状況を知りたかったからでもあるが、もうスペースがなくなったので少しだけ書いておきたい。父は師範学校を出て小学校の教師になり、薬専に入り直して薬剤師の資格を取ると共に中等学校の教師の資格を取ったようである。しかしなぜか陸軍に1年だけ志願兵として入り、そこでは看護の勉強をしていた。それからなぜか朝鮮半島にわたって教師になった。ジャワ島から復員してきた父は、公職追放や教職追放のことがあったのであろうか、当時村にはなかった薬局を開くことになった。私が小学校に入った頃であった。それから私は父の行動をつぶさに見ることになった。父は薬局経営と百姓をやりながらジュースの製造販売、それがうまく行かないと写真屋を開き、それを軌道に乗せた。いずれも薬専での勉強を下地にしたようである。また、野球を中心にしてあらゆるスポーツに長け、その野球で仁川商業の教諭の時代に監督として2度も同校を甲子園に連れてきたのである。さらに、メジロやさまざまな鳥の飼育にも精通していた。その当時既に屋根の上に太陽熱による熱水の供給装置も作りあげていた。驚くべき活動範囲であった。多分それは当時の社会状況がそうさせたような気がする。良きにつけ悪しきにつけ失敗を恐れぬ活力が必要とされたのであろう。私は父から多くのことを学び、私にはとうてい乗り越えられぬ存在であった。
今年の9月、毎日新聞の「親子の日」に関連して親子インタビューに出ることになっていろいろと考えた((http://www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=5 )。父の経歴を見ていると、時代が進むにつれてひとの活動範囲が狭められてゆく感じがしていたので、親は子ができるだけ広い活動範囲をカバーできるようにサポートすべきだろうと話したことを覚えている。
(2009年9月28日毎日新聞朝刊)  (2009年12月9日)