「サイパン」
 「写真が語る20世紀 目撃者」という写真展示会を見て再び思い出した光景がある。それは、初めて「サイパン」という本を見たときのことである。
 それは、私が小学校の高学年か中学生のはじめの頃のことだったと思う。私が勉強部屋や寝室にしていた部屋にたまたま父の本箱が置かれていた。父は化学の先生でもあったので(朝鮮仁川商業高等学校教諭)、元はドイツで出版され、翻訳された化学の本が何冊かあり、それ以外に2冊の興味深い本があった。1冊は、「八海事件 法は人を殺せるのか」(この題名はあやふや)、もう1冊は「サイパン」という写真集であった。私の叔父がサイパンで戦死したことでそんな本があったのだと思う。
 それは、当時としては珍しい鮮明な写真を数多く使った写真集のようなものであった。その写真の大半は米軍の撮影したものだったと思う。その時の記憶をたどれば、「目撃者」という展示会に出ていた写真と類似のものが多くあった。戦争が終わって比較的落ち着いた生活をしていたそんな折、その写真集を見たときの衝撃は今も忘れることができない。
 なにも分からない子供にとって、こんなことがどうして起こるのだろうかとの思いでただただ一杯であった。日本兵の隠れている洞窟を火炎放射器で焼き払う米兵。その洞窟から出て手を挙げている日本兵。集団自決した日本兵の写真もあったように思う。でも、そんな写真より遥かに大きな衝撃を与えたのは、女子供達が断崖の絶壁から集団で飛び降りる多くの写真であった。小さな子供を抱えた女たちが飛び降りて行くのである。そこは「バンザイ・クリーフ」(バンザイ岬)と呼ばれ、彼女たちは「バンザイ」を叫びながら飛び降りて行ったという。写真を撮った人はどんな気持ちで撮ったのだろうか。
 最近、「太平洋5000キロ豚輸送大作戦」という番組をテレビで見た。それは、沖縄占領を米兵として経験した沖縄出身者が、沖縄にもはや豚がいなくなったことを懸念してその状況をハワイの沖縄出身者に伝えたところから始まった。それを知った沖縄出身者たちの必死の沖縄救出のための金集め、豚集め(チェスターホワイト)、そしてその豚550頭を米国ポートランド港から機雷の浮遊する太平洋5000キロの必死の輸送。7人の沖縄出身者と30数名の米軍関係者の苦労のかいあって、536頭の豚は沖縄のホワイトビーチに届けられた。その一部始終を記録したカラーフィルムによる映像もまた衝撃的であった。その連帯感のすさまじさが戦後の、そして現在の沖縄を支えている。その連帯感は、江戸時代からの権力による搾取に伴って形成されたものであろうことは想像に難くはない。
 そんなこと、あんなことを考えたとき、私になにが残せるのだろうかと思う。もっと研究がしたい、そのためのお金がもっと欲しい。でも、残すべきものはそんなことなのだろうか。あと3年もすれば私は大学を辞める。せめてもう一度、あの「サイパン」という本を見たいと思う。いま、それはどこに消えてしまったか分からない。(1999年9月17日)