ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)始まる
ー松井秀喜選手や井口資仁選手は非難の対象かー
WBCはまともに組織されたのか?
 二年にわたってもめ続けた野球の国別対抗戦ーワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のグループA予選が3月3日東京ドームで開幕した。WBCの親善大使を務める元ドジャースの監督、トミー・ラソーダ氏が1月中旬わざわざ日本に来て広報活動をする一方、ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手やシカゴ・ホワイトソックスの井口資仁選手の不参加にあからさまな不満を口にしたと報道されたが、それが私には多いに不満である。彼の言い分は「国に誇りを持ち、国に恩返しをすべきである」と伝えられた。同様の批判は国内にもくすぶっているようであるが、これには私の目から見て2つの問題が横たわっていると思われる。

 ひとつの問題は、これまで国別対抗戦の最たる大会であるオリンピックに参加を拒否し続けたアメリカ大リーグ野球機構(MLB)が、MLB内のこれまでの対応が、間接的ではあるが、2012年ロンドン大会からの野球とソフトボールの廃止につながったとの明確な反省に至らなかったことである。したがって、MLBがまずそのことによる各国との不協和音の解消を第一の目標とはせず、自ら主導権を握って企画したWBCへの参加を各国に強要して開催にこぎつけたのが今回のWBCに他ならない、と私には思えるのである。いかにも超大国のアメリカらしいやりかたである。

 元々この大会は2005年の開催を目指して企画されたが、あまりの問題の多さに1年先送りされたようである。今年も、開催される直前まで勝率計算の仕方や投手の投球制限数が決まらず、もっと驚いたことには野球王国キューバの参加を許可するかどうかさえ決まらない有様であった。つまりは、どこでどのように物事が決まっているのかがさっぱり分からないのである。おまけに選手にとって困ったことは、その日程がキャンプとレギュラーシーズン開幕との間にセットされたことで、異なる調整方法で開幕を迎える個々の選手に難題をふっかけることになってしまった。こんなことの連続では選手が参加に二の足を踏むのは明らかであり、MLB傘下の選手でもこの大会への参加については意見が様々である。

 こんな状況の中、悩みに悩んだ末松井秀喜選手が選択したのは参加辞退であった。彼は世界最高の舞台で自らのすべてを磨き、その全力をぶっつけてワールドシリーズの制覇を目的として狭い日本を飛び出し、アメリカのMLBでの活躍にすべてを賭けたのである。

 最初のメジャーリーガーとしてサンフランシスコ・ジャイアンツで1965年から活躍した村上雅則選手は別として、それ以降メジャーリーグを目指した日本の選手たちは経営側や先輩たちから多くの非難を浴び続けてきた。その理由はいろいろあろうが、ひとつにはプロサッカーの誕生などスポーツの多様化の中で先細り感のある野球界から、さらにトップクラスの選手の多くが流出することに対する上層部の危機感、またプロ野球選手をがんじがらめにする契約条項に対して選手側から大きな不満が出始めたことに対する上層部の危機感、などであろう。

 このような環境の中で、しかし、野茂英雄選手やイチロー選手をはじめとして多くの選手がまなじりを決して(こんな言葉は使いたくはないが、しかし事実であろう)日本を飛び出してメジャーを目指し、その結果大きな成果を収めてきた。まさに非難ごうごうの中で飛び出していったのである。いまは亡き仰木監督や彼等の心中を察してサポート役に回った王ダイエー監督らの存在がそんな先駆者達を支えたと言える。彼等こそ日本の野球を世界に知らしめた立派な伝道者だといってよい。その中に松井秀喜選手や井口資仁選手もいた。そんな彼等が自らの現状に照らしてWBCへの参加の是非を真剣に考え、それへの参加を結果として否定した。参加を是としたイチローとそれを否とした松井選手や井口選手のどちらが正しいかの判断は無意味である。その理由は、彼等が置かれた状況はさまざまであり、決して彼等だけで判断できるような状況には置かれていないと考えられるからである。それにしても、そんな王監督からの要請を断らざるを得なかった松井秀喜選手や井口資仁選手らの心中は察して余りある。

 私からみれば彼等の立場は悲壮である。松井選手がメジャー行きを決意したときの会見を思い出してみればよい。彼はファンに謝罪をしなければならなかったのである。どうして?簡単にいえば、日本の野球界は、選手達をそのような立場に追い込むことによって成り立っていたからである。ファンもそのような関係の上に存在するのである。しかし、彼等のメジャーへの挑戦をファンは温かく見守ってきたのは私にはうれしかった。だが、それにもまして不満なのは、経営者側や多くの先輩達の対応である。私に言わせれば、その方々こそ若い実力ある選手達が国を出て世界で活躍するのを助けるべき立場にいるべきであった。つまりは、ファンに謝罪してから出なければならないような形ではなく、またメジャーの他の選手達と対等の立場に立てるような契約をきちんと結べるに必要なMLBとNBLとの間の交流協定をとっくの昔に確立しなければならなかったのである。しかし、プロ野球とアマチュア野球との交流計画すら何十年経とうとまともに成立させられない日本の野球界に、一体なにが期待できるのであろうか。お寒い限りである。だからまた、これからもメジャーへの挑戦を希望する選手は益々増え続けてゆくであろう。サッカーの世界の組織、FIFA、そして日本サッカー協会のありかたを一度しっかりと勉強してもらいたいと望むのは私だけではあるまい。 ただし、下に述べるように”国を代表する”ということから来る多くの問題、特にフーリガンなどのきわめて危険な側面を忘れるわけにはいかない。


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国に誇りを持ち、国に恩返しをするとは?
 もうひとつの問題は、ラソーダ親善大使が参加を辞退した松井選手や井口選手に対して、「国に誇りを持ち、国に恩返しをすべきである」と言ったと伝えられる場合の「国」というものを私たちがどう考えるかであろう。私はかって「遠ざかりゆく星条旗」や「私たちはなにをテロと考えればよいのか」という文章の中で、国旗が全面に出てくるような、そしてあらゆる意味で「国益」が優先されるような状況は決してよいものではないと述べた。国と国との外交的折衝における外交官の立場と、スポーツを通して結果として国を体現する民間人とは立場は全く異なると言うべきであろう。

 世界各地で起こるさまざまな紛争は、多くの場合国を代表する政治家や民衆(民間人)の「愛国主義」や「民族主義」の発露の結果である。我が国もかって国民に国への忠誠を強要することで外国の民衆に対して屈辱的な体験を強要してきた。現時点でこの「国」ということに関して私が行い得る最大限のこととしては、「個」の最大限の発展・発揮を通して結果として「国」の発展が保証されればよいとすることである。私は退職するまでの36年間を国の職員である公務員として過ごしては来たが、国を意識することはなかった。しかし、研究者としてあるいは教育者としてその全力を尽くしてきたつもりである。私たちのような立場の人間が、誇らしげに「国」を背負うものとして機能しようとすれば、韓国の黄教授がやってしまったような、あってはならない研究業績の捏造にはまりこんでしまうのである。民衆の愛国主義もまたそれに拍車をかけたことは明らかである。 だから私は、参加するそれぞれがベストを尽くすことのみが必要なことであって、それ以外のことを要求すべきでないと考えるのである。

 私たちはこのようなことを体験的に自覚しているようである。社会全体が右傾化していると言われる今日でも、国の祝祭日に国旗を揚げる家庭はそれほど多くはない。これは、いろいろな見方があるようであるが、国旗を揚げるひともあれば揚げないひともいるという意味で私にはまだ相対的には健全な国の証であると思っている。突然国を代表して戦えというWBCが不完全な形態のまま組織され、そしてそれへの参加を求められた選手達。しかしみずからのやるべきことは別にあるとしてそれへの参加を辞退した松井秀喜選手や井口資生選手の存在は、また健全な人間の存在の証であると私は考えたいのである。私は、彼等に国への忠誠を誓えという方々に、国の祝祭日に日の丸の旗を揚げているかと問いたい。私たちは「国」という言葉にそう簡単に振り回される必要はないのである。微力ながら、私は彼等を支持したい。

                                          注: 文字用の領域がありません!
あとがき
この文章を書いているとき、グループBでこのWBCの優勝候補筆頭であるアメリカが格下といわれたカナダに敗れ、自力で予選突破する可能性はなくなったと報じられた。最後までなにが起こるか分からないのがスポーツの世界であるが、アメリカのいまの戦力がアメリカ最強だとはとても思えない状況である。まさに、このWBC組織化の不十分さがあからさまに暴露されたと思われ、ラソーダ親善大使がわざわざ日本まで来て松井秀喜選手や井口資生選手の不参加に不満を言う前に、それをまず自分の国の経営者や選手に言うべきだったのだと言いたい。
 もうひとつ言っておきたいことは、私たちがスポーツの世界、特にプロの参加する大会でみたいのは、美しく力強い最高のパフォーマンスであるということである。アテネ五輪で野口選手に喝采を送ったのも、あの小さな身体のどこにそんなパワーが潜んでいるのかという驚愕の喝采であったし、そのためへの途方もない努力に対するものであった。また、トリノ五輪での荒川選手の活躍に私たちが驚喜したのは、それまで全くメダルを取れなかったこともあったであろうが、彼女の美しく優雅な、そして高い技術に支えられたなんとも言いようのない舞に対してであって、決して「我が日本」の「偉大さ」に対したではなかったであろうということである。
                                           (2006年3月10日)
追記
 審判の誤審、対韓国戦2連敗などで決勝トーナメント進出が危ぶまれた日本チームだったが、メキシコチームの活躍もあって幸運にも準決勝に進むことができた。その結果、準決勝戦で韓国チームを、そして決勝戦ではアマチュア球界世界一の呼び声の高いキューバチームを連破し、日本チームは第一回大会の優勝チームとして歴史に名を残すことになった。このことを私は率直に喜びたいと思う。
 しかし、喜びたいのは日本チームの各選手がもつ高い技術と集中力、そしてそれを発揮しようとする強い執念に対してであって、「日の丸の日本」ではない。国際大会を国威発揚の場と考える国も多く、日本もその例外ではないが、偏狭なナショナリズムは排除されるべきであろう。私はあの決勝戦の九回にみせた、西岡選手の絶妙なプッシュバントや、川崎選手のあれ以外にはセーフになりようもない完璧なスライディングのようなプレーを、ただただそれを称えればよいのではないかと思う。本日の読売新聞朝刊に、ロサンゼルス・タイムズが伝えた次のような王監督の言葉があった。「我々は、野球選手として戦った。アマやプロではなく野球選手は野球選手なんだ」との言葉はそれを表しているように感じる。しかし、同じ新聞にあまりに「国」を意識したような他国の記事をみると、このような大会を率直に喜べない自分を感じる。勝ってはもちろん負けてもなにか明るさを感じるラテン諸国のようにありたいものである。スポーツはそうゆうものでありたい。こう書いていると、「クール・ランニング」を思い出す。
                                          (2006年3月23日)