W杯−1、対クロアチア戦の後
 対クロアチア戦後、NHKテレビでのラモス選手の言葉は見苦しいの一言である。日本は第一戦の対アルゼンチン戦での守備的布陣への自信をもとに、より攻撃的な姿勢を随所に示した。結果としては、中盤での中田のミスパスをカットされ、試合を決める1点を失うことになった。
 しかし、この試合後のラモスの言葉には、何かチームに対する敵意が込められていたように思う。要するに彼が言いたいのは、「頑張りが足りない、さぼっている」という一点に絞られ、そんな選手は連れていかなければよかったんだ、入れ換えたいという意味のことまで口走っている。
 批判されるべきことは、ラストパスの精度にみられる技術レベルの低さや経験の浅さであり、「頑張りの程度」のようなことではない。W杯に集う多くのサッカー先進国はこれまで常に互いに相まみえ、死闘を繰り返してきた歴史を背負っている。それは民族、国を代表するという形で戦われてきたのである。それは歪んでいるとは言え、スポーツ特にサッカーが背負ってきた歴史である。そして、そこで培われてきた自信、技術の高さに残念ながら日本は遠く及ばないのは事実である。
 ラモス選手のいらだちを理解できるとは言えないが、ある意味では分かるような気がする。しかし彼の言う「頑張る」という精神は、彼が好む「大和魂」という言葉と同義語であり、その言葉は過去の何回かの外国との戦争で民族意識昂揚の言葉として使われてきたものである。そして、その言葉は、大和民族のためとして使われながら、実は惨めな敗戦へと自らを追い込んだことも自明であろう。しかも、この言葉を中心としての日本のスポーツの指導原理は、スポーツの技術の進歩を著しく阻害し続けてきたのである。その意味で、日本人はW杯をもっと別の角度から戦わなければならなかった宿命を背負っていたのである。
 ラモス選手のテレビでの言葉には、失点に繋がった中田選手のパスへの非難めいたくだりもあった。しかし私は、あの「ドーハの悲劇」に際し、相手からの最後の反撃のきっかけはラモス選手の左タッチライン際での軽率なプレーからであったことを忘れてはいない。その反省の弁を不幸にして私は聞いていないし、聞きたいとも思わない。大和魂が自分の過ちを忘れさせるのかもしれない。
 岡田監督は選手達のモチベーションが、国や民族のためではなく自分たちのためであることをよく知っていた。「自分たちのため」は、命をも脅かされる戦争に比べればモチベーションのレベルは低い。したがって岡田監督は、「大和魂」や「国と国との戦争」というモチベーションのレベルで戦うのではなく、未熟な技術を組織力をもって一級品の力に変えて戦うという、「スポーツの枠組み」のなかで戦おうとし、それが未だ未完成であることを示すことになったのである。それでよかったと私は思う。
 W杯出場国の中にも、W杯は戦争ではなく、楽しいもの、楽しむものだと考える国もあると聞く。スポーツが国や民族の摩擦のガス抜きであるしかないと考えるのは全く悲しい。戦争ははからずも科学・技術のレベルを著しく向上させてきた。それと同じことはサッカーにもあったのは確かである。そのようなモチベーションで戦われるスポーツは、ドーピングや広い意味でのフーリガンなど今後致命的になりかねない問題点を生み出してきている。果たして、それ以外のモチベーションは無いのだろうか。それを探し出すのがこれからのみんなの仕事である。しかし、やはりW杯は面白く、また楽しい。(1998年6月24日)
追伸:
 
 この意見と言葉使いは異なるが、全く同じ意見が6月29日付けの「朝日新聞」夕刊9面(大阪)に「ラモスに告ぐ、君の根性論は醜い」として渡部直己氏によって発表されている。                                              (6月30日)