W杯−3、日本のサポーターとフーリガン
 日本のサポーターは、対アルゼンチン戦、対クロアチア戦の敗戦にもめげずに、ゴミの後片づけをきちっとしてスタンドを後にしたようである。外国のマスコミがそれを高く評価したという意味でも何ともうれしい話であるが、それ以上に、彼らがW杯でのゲームを国と国との戦争、あるいは民族の戦いというような視点から応援してはいないことを証明しているものとしてわたしは歓迎している。
 また彼らは、ゲームの前あるいはゲームの後で相手チームのサポーターと一緒になって応援あるいはエールの交換をしてきてもいる。彼らは何がなんでも勝てばよいという応援ではなく、あくまでフェアプレーを前提として応援を考えている証である。W杯のアジア最終予選の場合でも彼らは韓国のサポーターとエールを交換し、これまでには考えられなかった新しい日韓の関係を作り上げようとしてきた。かっての悲惨な日韓の関係を作り、それを未だにどうしようも出来ない政治家達の遥か上をいく行動であろう。
 このような日本のサポーターの行動は、決してこれまでのW杯の見方では処しきれないものだと思う。「W杯−1、対クロアチア戦の後」にも書いたように、彼らの基本には民族の戦いも、国同士の戦いもなく、ただ素晴らしいプレーで日本に勝ってもらいたいとの希望が溢れていただけなのである。
 しかしサッカーの評論家は、そんなことでは世界の強豪の集まるW杯では勝てないと言うであろう。そうかもしれない。しかし、そうであるなら、その人は戦争のような極限的な状況を作り上げなければW杯で勝てるようなモチベーションは生まれない、と言うことを宣言したと同じことである。
 かっての第二次世界大戦で、窮地に追い込まれた日本軍は圧倒的に優位な連合軍を苦しめたといわれる。それは多分高いモチベーションで戦っていたのであろう。そのようなこれまでのW杯での戦い方を地でいっているのが広い意味でのフーリガンだ。彼らの行動を見ていれば、それはいつかはW杯を潰してしまう可能性すらある。強力な警備のもとでは、潰されることは現実味を持たないが、しかしそれほどの警察力や軍隊を投入しなければならないこと自体が、W杯の危うさを如実に物語っている。国同士の戦いや民族の戦いなどと平然と言っている評論家諸氏は、W杯が無くなることに危機感はないのだろうか。そんなモチベーションで戦い続けることが正しいと思っているのだろうか。新しいモチベーションをどのように構築するか、それが課題なのであって、そのことの創造を日本のサポーターは探し、日本チームも探しているのが現状であろう。