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2013年11月29日の記事は以下のとおりです。

北九州の長崎・平戸・唐津を巡る-唐津から吉野ヶ里へ(2)

  • 2013/11/29 17:42

 唐津くんちの曳山を見てから1時間少しかけて、最後の訪問地の吉野ヶ里遺跡を訪れた。弥生時代の環濠集落として有名な遺跡であるが、私はほとんど知るところがない。そこでいつもの常とう手段であるWikkpediaに頼ることにする。
 「吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるものであり、1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。…(中略)…
 吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。
 内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。また、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘された。
 多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっている。」
 私のつたない知識によれば、この遺跡の時代である弥生時代というのが実はよくわからない。縄文時代の後紀元前3世紀から紀元後3世紀の間をさすようで、その時代に稲作を主とする定着しての農業を開始した時期とされていると思われる。しかし稲作は近年もっと早い縄文時代からすでに始まっていたとも言われており、その時代の定義ははっきりしない。その分からない時代の遺跡という意味ではやはり貴重な資料を提供する遺跡であるだろうと推測できる。その訳のわからない時代の遺跡が、上の文章にあるように「吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である」と思えるような形で出土したというのが当時の日本人にとっても、そして今回この遺跡を見た私にとっても衝撃的である。
 1枚目の組み写真にあるようにその造りは戦いに負けないような仕掛けである。この復元された遺構に目立つのは幾つもの物見櫓であり、自らの生活の場を護る柵、その外側に掘られた濠である。またその写真の左下に見られるように、柵の内側には「逆茂木(さかもぎ)」と言われるような、侵入を難しくするための鋭くとがった木を植えこんだ防御装置である。よく言われることは、農業によって富の蓄積と貧富の差が生じるようになり、それを護って生きるための戦いが始まってしまったということであろう。
 それらに護られて出来上がった集落には様々な建物が見いだされたようで、普通に想像されるような住居や高床式から2枚目の組み写真にあるような3階建てのようなものも推測されていて、それは祭祀のためのものとして展示されていた。そこにはそれぞれの復元された建物に「成人の住居」「市長の住居」「妻の住居」など極めて具体的に書かれていて少し驚いたので、近くにおられた係りの人に聞いてみたが、それほどの具体的な証拠はないというのが本音のようである。まあ、分かりやすく見てもらうためのひとつの仕掛けであろうと思う以外にない。
 でも、やはり驚いたのは甕棺(かめかん)であり、多くの出土品はそれに関するものであったことである。3枚目の組み写真の右上の写真は展示室に展示されている大小さまざまな甕棺である。実は甕棺というのは丁度大砲の弾のような形をしていて実は2つの甕をつなぎ合わせて棺になっている。この作り方には驚かされたが、甕棺は斜めに埋葬されていて、まず下の部分の甕に遺体を座る形で入れ、さらに上体部分にかぶせるようにもうひとつの甕をかぶせてその継ぎ目を粘度のようなもので封じ、最終的にその全体を埋めることで完成する。そのような甕棺が列をなして埋められているところが見つかっており、3枚目の写真の左の上下の写真である。
 実はその甕棺が列をなして埋められているところとは別に4枚目組み写真の左下のような墳丘墓と呼ばれる場所があった。そこには甕棺が14基まとめて埋められており、その剣のような副葬品から判断してもっと位の高い、たとえば首長の位の墓だったと思われる(4枚目の左上)。しかしそれも同様の甕棺で、その墳丘墓の中の甕棺はすべて本物のであった。3枚目の写真の右下のものも本物が復元されていた。
 4枚目の右上と下の写真はショッキングなもので、甕棺の中の遺骨に首から上がないことを示している。上の写真はそれを説明していて、残っている脚と腕の骨にナイフで切られて様な跡が残っていることから、この人は戦闘で殺され、首をとられたと説明されていた。これは墳丘墓の中のものではなく、列のように甕棺が埋めれれていた中のひとつに見つかったようで、それらは兵士の墓であったと推測されているようである。それにしても最初に引用したように、この遺跡の印象はやはり、「吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である」ということであった。このような社会の構築の形は実は今も全く変わっていないということなのであろう。人間全く賢くなっていないとつくづく感じてさびしいものである。

 今回長崎をスタートにして北九州西部を3泊4日で廻ってきたが、今回ほど見逃してきたポイントが多数あると後から感じる旅はなかったような気がする。できれば、再び今回のコースを再度楽しみたい気持であることを、ここに書いておきたい。

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