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2013年02月の記事は以下のとおりです。

第42回法隆寺マラソンで好記録を出すも余計な転倒劇の付録も!

  • 2013/02/12 18:23

 2013年1月14日の枚方ハーフを悪天候のために回避した私にとって法隆寺ハーフマラソンは、初めて当たった3月10日京都マラソンでの走りを占う絶好の機会であった。当日は快晴でも折からの寒波で冷え込み、最低気温2℃最高気温7℃と予想され、スタート地点の「すこやか斑鳩・スポーツセンター」でもスタート前からかなり厳しい冷たい風が吹いていた。でも、今回は思い切った展開をひそかに考えていた。
 私がフルマラソンの最高記録を作ったのは2005年の12月(66歳のとき)、しかしその2年程前から突発的に発生する頻拍という不整脈に悩まされ始めていたが、幸いその年のホノルルマラソンでは頻拍が発生しなかった結果ベスト記録を出すことができた(3時間51分45秒)。しかしその2年後再度訪れたホノルルでは中間地点で頻拍が発生し、ベストより1時間遅れで完走するのがやっとという惨敗であった。東京マラソンも同様で、第1回の2007年と第3回の2009年ではともに30キロ地点で頻拍が発生し4時間を切ることもできなかった。そんなことはハーフマラソンでも同様で、頻拍を警戒するあまりスピードを落とした結果タイムは下降線をたどっていった。そんな困難を断ち切るための様々な難しい検査の結果、幸運にも原因をつかむことができ、2010年にそれを心臓カテーテルを用いる焼灼術によって根治することができた(http://www.unique-runner.com/catheter1.htm )。
 そして2011年秋からレースに復帰して徐々に元のタイムに戻し始めた。昨年の長野マラソンでは何とか4時間18分までに戻し、そして昨年2月11日の法隆寺ハーフマラソンで1時間48分40秒と久しぶりに50分を切って復活を果たした(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/137 )。しかし、疑いもなく私も歳をとってゆくことから思い切りよく走るチャンスは徐々に少なくなってゆくのは当然である。そこで、昨年はロードでのスピード練習にも精を出したが、残念ながら昨秋2012年10月の滋賀県での2レースではいずれも1時間52分で目標を達成できなかった。そこで今シーズンの最後の法隆寺ハーフが1時間50分を切ってさらに45分に近づける最後のチャンとなった。
 というわけで、今回の目標は思い切りよく1時間45分、キロ5分のペースである。このコースは厳しい上り坂が前半にある私向きのコースと自分に叩き込んで(同様の京都ハーフで1時間41分のベスト)、その目標ペースで走ることにした。気温も低く風も強くて厳しかったが、10キロ地点で50分04秒とどんぴしゃり、そして少なくとも17キロまではその目標を達成できた。今回もGPS機能搭載のGarminの時計データを参考にしていただきたい。1枚目の写真は、データをグラフにしたものである。赤は心拍数、青はキロ当たりのどちらかと言えば瞬間的な速度で、給水などで止まったりカーブで速度が落ちた時などは急激に高く表示される。また緑は標高を表していてある程度の高低差を見ることができる。横軸は距離をキロで表してある。このグラフデータをキロ当たりの平均値としてあらわしたのが2枚目の写真のデータ表である。なお、心拍数については、今回心拍計を装着するベルトが少し緩かったため度々心拍計の部分を指で持ち上げるなどと動かした結果、ガタガタしたグラフと高い最高心拍数を表すことになったが、データシートの平均心拍数を見れば安定した値を示していることが分かり、安心である。
 しかしいいことばかりではなかったのが残念であった。そのデータ表をご覧いただきたい。私はそのアクシデントを17キロ過ぎと思っていたがどうも17キロ少し前のようである。1枚目のグラフの17キロ地点に2本(なぜ2本かは不明)の鋭い速度変化が記録されている。そのアクシデントとは、畑の中の十字路を越えて急に少しだけ下りになったところで突然強風に見舞われた。そして帽子が飛ばされそうになったので両手で帽子を押さえようとした瞬間、バランスを崩しざらざらした路面にシューズをひっかけて瞬時に左横向きに転倒した。転倒しそうだと分かって転倒したのではなく、この時私でも時速12キロくらいで走っているので瞬時のことなので防ぎようがなく、両肘、両膝の左側面を強打し、さらに左腕が左胸の側面に入った形で胸を強打することになった。メガネも飛び、左腕の時計のガラスは中が見えないくらいに傷つき、さらに前のゼッケンが破れ1か所でぶら下がるだけとなってしまっていた。
 起き上がって直ちに走り始めて走れることが分かったが、左脇腹上部と右ひざ内側が痛く、眼鏡の蔓などが曲り焦点が合わなくなってしまっていた。ゼッケンを失っては記録なしになるピンチなので片手でゼッケンを抑えながら走るしかない苦境となった。とにかく、4キロ前後を走り続けて完走するしかなかったのである。幸い何とかゴールできた。データによれば最後の4キロのキロ平均はおよそ5分25-30秒でそれまでの値から見るとキロ当たり少なくとも20秒は失ったことになったと思われる。「たら・れば」は言ってもしょうがないが、それでも言ってみたくなる。ひょっとしたら46分、あるいはギヤ・チェンジができれば45分台が可能だったかもしれないからである。これまで何度か転倒を見たきたが、注意はしていたので私にお鉢が回ってくるとは思ってもいなかった。これからはもっと注意を払いたい。
 でも、良かったことを言えばこのレースでは自分の力が決して落ちてはいないと分かったことであった。次を目指して努力を続けたい。なお、レース翌日の今朝、近くの整形外科病院で検査した結果、左第五肋骨の骨折であった。いまは咳をしても痛く、着替えもままならない日がまだ数日続くだろうけど、まあ、時間がたてば治るのであるからただ我慢するだけである。でも、なんだかまたまた言い訳の多いブログのような気がするが、お許し願いたい。
 最後の写真は9時前会場に到着した時の写真で、右側は一緒に参加した菅原氏である。ペースダウンしてしまった残り4キロ、進境著しい若い菅原氏の追い上げを恐れていたが、十数秒という僅差でやっとの思いで振り切ることができた。いずれやられてしまいそうである。なお、画像はクリックで拡大してご覧ください。

追記:
 3月末に前立腺がんから骨へのがん転移検査のために骨シンチグラフィーを行った。その結果、骨折・挫傷を示す強いスポットが左肋骨4本に見られ、X線検査では明確な骨折は1本であったがこの検査では骨折と同程度の損傷を受けた肋骨は4本に達していたことが分かった。そのためか回復が遅れ、やっと当たった3月の京都マラソン、そして4月の長野マラソンを残念ながらキャンセルせざるを得なかった(5月30日)。

おねがい!!!“ものが言え、自主独立性をもった子供たちが育ってほしい”

  • 2013/02/09 11:09

 いま日本は日中間の軋轢の他に体罰問題で揺れている。ここにあげた写真は、最初の2枚は2月7日の、そしてあとの2枚は2月8日の読売新聞朝刊の体罰問題の記事である。そこにあげられていることは告発の匿名性の問題、他国に比べて圧倒的な男性社会の問題、体罰がこれまでも繰り返されてきたことの問題などが指摘され、それらに対する何らかの解決策が模索されている。それらの記事については、画像をクリックして拡大画像でお読みいただければ幸いである。
 私も前回、前々回と二度にわたってこのブログに私の思いつくままを書いてきた。これで最後にしたいが、もう一度個人的な感情を含めて書いておきたい。個人的な感情と書いたのは、私にとってこのブログは私自身の経験を記録に残しておくために書いているからでもあり、そのことを少しばかりお許しいただきたい。
 私は前々回のこのブログの「桜宮高校体罰事件から『日本のスポーツの限界』について想う」に次のようなことを最後に書いた(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/184 )。
 「最後に、私が家族とともにアメリカに滞在した時の経験を書いておこう。子供たちは当然のようにサッカークラブに入ってサッカーを楽しんでいた時のことである。中学1年の長男が所属していたチームの試合を見ていて、ハーフタイムになった。そのときコーチ(監督)は彼らのプレーについて意見を言った後子供たちの意見を聞いた。そのときゲームに出ていなかった補欠の選手が、サイドラインで見ていた親たちがゲーム中にプレーにうるさく注文を付けていたことに猛然と反発したのである。おそらく日本では全く考えられないことであろう。子供たちがそのように育てられていることに私は強い衝撃と深い感銘を受けた。そんな国を相手にして今も昔もとても勝ち目はないのである。」
 もう一つ書いておこう。それは、上の経験をする少し前、アメリカに移住してびっくりするような大きな家に住み始めた頃であった。隣の家にはスパニッシュ系の家族が住んでいて、4、5歳かと思われる可愛い女の子が家にやってきて我が家の娘と〝Your turn?, my turn"などと言いながらよく遊んでいた。ある時私が裏庭でたばこを吸っているとその女の子が近づいてきて、〝Why don't you stop smoking?" と私に言うのである。彼女はまだ小さいのでゆっくりしゃべってくれて、私にはよく理解できた。私はこれには唖然として答えに窮した。そのときに何が言えたかは全く記憶にない。
 かの国の子供たちは一事が万事こんな感じである。一般的に言えば彼らは旺盛な発言力があり、声も大きく、自己主張は活発で、討論の力もある。彼らはそのように教育されているのである。これに対して日本の子供は私を含めてそのように教育されているとは全く言えない。日本の社会はいまでも、国の構成から学校、家庭まで縦社会の権力が貫いていて、上を向いてものをいうことは難しい。このことがいじめや体罰を陰湿にし、蔓延しやすい環境を整えているといえる。
 私自身もおとなしい子供だったと思う。父から厳しい体罰を受けた覚えは全くないが、さまざまなことに実力を持っていた父は怖い存在だった。何か大事なものをなくしたことで夜中まで座らされたことはあったし、野球ばかりで勉強をしなかった時にグローブを金庫に隠されたこともあった。こんな私は大学での研究や当時の“大学闘争”(やはり私には“紛争”ではなかった)に簡単に耐えられるような存在ではなかった。特に大学がもめた数年間というものは、私にとっては最大の教育期間であった。私は様々な意見を持つ相手に対して、きちっと筋道を立てて討論しなければ一歩も前に進まないという苦境を味わった。私は自分が主張しなければいけないことをノートに書き、相手の意見も想定してそれに反論する詳細なノートを作ることを習慣にした。これが私のその後の人生に大きく影響し、いまでもその時代の遺産で生きている感じがする。
 先日、私の子供たちとお寿司を食べ、お酒を飲みながら話をしたことがあった。そのときなぜか私が子供たちにどう接したかということも話題になった。彼らは、私に勉強のことを聞いても、私は彼らに筋道立てて考えることを求めたと言われた。それが本当だったとして、上の経験が子供の教育に少し役立ったのだと知り、安堵した。だから、きっと我が家には体罰はなかったのだろうと思う。でも、一度だけ男の子二人を平手打ちにしたことは覚えている。それはもはやとっさの親子の喧嘩である。でも、多分フォローが効いていたから体罰にはならなかったのだろうと思う。
 もちろん、ものが言えて自主独立性があればそれで十分なのではなく、それが拠って立つ価値観が問題である。その両方が相まってまともな人間が生まれ、正常な社会が建設される。しかしいま問題になっている体罰などの問題は、指導者と選手、親と子供、教師と生徒・学生の関係が対等に保たれることによって防がれ、双方の成長が期待できるのである。そのためにはあらゆる場面で、子供たちの自主性を尊重した教育がなされなければならない。その積み重ねの中から明るい、前を向いた子供たちの笑顔が見られるのであろう。これが達成されなければ体罰問題はなくならない。例えば日本学生野球連盟による体罰や暴力事件による高等学校の処分は、もう何十年も前から繰り返し行われれてきたが、毎度毎度新聞で報道されるように改善された気配は全く感じられないのである。

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