橋下市長の常とう手段-経済的基盤を揺さぶって目的を達成する
- 2013/01/13 12:51
前回のブログにも書いた今回の桜宮高校の体罰による自殺事件、橋下市長の常とう手段によって一件落着したように見える。しかし、これは決着というよりは橋下市長による恫喝に恐れをなした教育委員会などの腰砕け以外のなにものでもない。橋下市長の常とう手段は、経済的基盤を揺さぶることで自分の言い分を貫徹することである。
それが象徴的に現れたのは文楽協会との交渉であった。しかしそれは交渉というようなものではなく、ごり押しに近いものであったというのが私の感想である。橋下市長の言い分は、文楽協会は補助金で生計を立てているばかりで、自ら努力して生計を立てる気概が不足しているというものであったと思われる。その後の経緯を見ると確かにそれもあったかとは思われるが、問題は、関西を起点とする文化的遺産を一般の競争原理の中に放り込んでいいものかどうかである。例え文楽協会が補助金に安住してきた歴史があるにせよ、それを指摘してそれを正してゆくにはそれなりの時間が必要であると思われるが、橋下市長は圧倒的な得票で市長に選ばれたことを背景にして短兵急に成果を求めるという手法をとる。
現在の日本社会には、“決断できない政治”とか“責任を取らない政治家”とかいうような、なにか呪文のようなキーワードが氾濫しており、長い政治・経済の停滞から一般市民もそんなキーワードに迎合している気配がある。橋下市長はそれに便乗して短兵急に事を運び、きちっとした説得や納得ではなく、経済的基盤を揺さぶることによって強引に事を運ぶ手法が常態化してきている。はっきり言えば、予算執行権をちらつかせる最も汚い手法というほかない。これは教育機関や一般の会社で問題とされる、権力を背景に事を構える“パワーハラスメント”となんら変わることはない。
今回の桜宮高校体罰事件でも同様で、最初の記事を読んでもらえればわかるが、昨年の秋にはある程度の体罰はしょうがないなどと言っていた橋下市長は、今回の事件が報道されるや否やあっという間に自らの体罰に関する考え方は前近代的であったと反省の言葉を口にし、返す刀でスポーツ関係の学科の入試中止を強硬に主張し始めたのである。まさにあっという間である。その間に、自らも高校時代にラグビー選手として厳しいトレーニングの場に自らを置きながら形成した来た“体罰”にかんする自らの考え方を、どれほどの苦悩をもって反省したかは知る由もないが、あっという間に“前近代的”と切り替えられたのは、彼特有の思考回路なのであろうか、スイッチの切り替えのごとく単純に切り替えたのである。
はたしてそのような簡単な切り替えで人を納得させられるのであろうか。2枚目の写真のように今回の決定は、“看板掛け替え 入試”と読売新聞に報道されている。要するに看板を架け替えただけとの報道である。私もそう思う。数日前までは体育科でも普通科でも大して違いはないですよ、と言っていた市長は、今回の決定の後には“単なる看板の掛け替えではない。体育科としては募集しない。これは決定的な違いです。(受験生には)これまでの桜宮高校のクラブ活動を想定して、受験されても困る”と語ったとされる(2枚目の写真)。カリキュラムなど何も決まっていないのにこのように方向付けしてしまう橋下市長とは一体なにものか!こんな市長に対して現3年生で桜宮高校の運動部元キャップテン8人は「私たちの心の傷は、同じ傷を受けた先生にしか治してもらえない」と教員の総入れ替えに反対した。また、体育系の募集停止には、「なんも関係のない中学生が巻き込まれるのはおかしい。今しかない一瞬をつぶされている」と話していると伝えている。なにも表立って言わない教師たちよりはるかにましのように見える。
今回の橋下市長の手法を批判する声に対しては、「僕を選挙で落とす権限を有権者は持っている」と述べている。それなら、直ちにそれを行使させてはどうか。辞職して再び立候補すればよいのである。それはしないのである。また、今回の決定に際して、教育委員会の会議の前に自らは教育委員会に対して意見を述べる場を作ったが、桜宮高校の教員たちの主張や生徒たちやその保護者の教育委員会に対しての意見陳述の場を設けたわけではなかった。弁護士らしく巧みに事を運んだといえる。
それにしても橋下市長が大きな権限を行使できている理由は、今回の件だけではなく一般のスポーツ関係指導者が安易に体罰に走り、教育委員会は自殺防止についても何もできず(大津市の件についても同様)、またこれまでの府知事や市長が膨大な赤字の垂れ流しなどで何もできてこなかったということに対する有権者の積もり積もった不満を背景にすることによって成り立っているというべきだろう。したがって、橋下市長を支えているのは、もちろんエネルギッシュな行動力と膨大な勉強、それに強気と大量得票、などであろうと思われる。しかし、だからと言って彼が私たちが安心して任せられるような、思慮深く信頼できるような人物であるとは残念ながら思えないのである。
政治家にとって言葉は極めて大事だと思われるが、彼は今回のことについて、「一番重要なことは亡くなった生徒のこと。(受験生は)生きているだけで丸もうけですよ」と述べていて、“生きているのだから文句を言うな”と暗に言っているのである。はたしてこれから高校受験を控えている中学生に言うべき言葉であろうか?こう言えば彼はきっと、「そんなことを言っているからダメなんですよ」と切り返すのはわかっているが、そろそろそんなことを言わせないようにしないと恐ろしい大阪、強権国家・日本が“維新”を通して実現されてしまうのではないかと案じている。私は彼を早く落選させた方がよいと確信している。ただし、それにはもっとまともな政治家が育っていなければならない。そこが問題である。そんな弱点があちらこちらに“・・・政治塾”が乱立する要因になっているのであろう。
なお、このブログを読まれた方は、できればひとつ前のブログ「桜宮高校体罰事件から『日本のスポーツの限界』について想う」(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/184 )をお読みいただければ幸いである。