世界を大混乱に巻き込んでいる新型コロナウイルスが我々に突き付けている基本的な問題とは何か?
- 2020/12/03 15:20
もう3週間ほど前から日本全国で新型コロナウイルス感染者が急増し、メディアではステージ3だとか、いやもう4になっているとか大騒ぎになっている。しかし菅首相率いる政府の動きは相変わらず鈍く、また東京都を含む自治体との連携もうまくいかず、良く統制され制御された形での新型コロナ対策が動かないのにはほとほとあきれてものが言えない。私なんかは”経済も回さなけりゃ”などを考えるよりは、単純に”とにかく命を守るのが先だよ”と考えて事を運びたい。そう考える者にはお偉方の頭の中が全くよくわからない。世の中を見てみるとまずは感染を徹底的に抑え込んでそれから経済をと考えて動いた中国、韓国、またニュージーランドなどは感染の抑え込みと経済活動をうまく回しているのに、と思うばかりである。であるから、そのあたりの話は、もうほとんど語るのが嫌になったのでどこかにしまい込んでおきたい。日本のトップの方々のお手並み拝見である。
というわけで、まったく別の話を紹介したい。それは、5月23日にNHKBS1のスペシャル番組「コロナ新時代への提言~変容する人減・社会・倫理~」で放映された、私にとっては刺激的な内容についてである。不思議なことに別の場所で見ていた家族も同様に興味深い内容であったと意見が一致したのはうれしかった。
この番組は、コロナ禍であることを考慮し3人の識者に個別にテレワークでインタビューしたものを巧みに編集したものである。三人とは、哲学者の国分功一郎、人類学者の山際寿一、歴史学者の飯島渉の面々である。ここではあまり詳しく紹介することはできないので、彼らの主張と私の感覚が一致する部分を簡潔に紹介して皆さんに問題提起をしておきたい。
歴史学者飯島は、人類と感染症の関係を考えるとおよそ1万年前あたりからのことを考えるのが妥当ではないかと主張する。その理由は、ちょうどその頃から人類は農業を始めて自然に負荷をかける、つまり草原や森林に入り込み、それまで未知であったウイルスや細菌に遭遇することが始まったと考えられるからである。その後文明の発展を支えたのは、同じ感覚に生きる人同士が”集まって”仲間を増やし、さらに多くの異なる集団との間で関係を取り結ぶために”移動”を繰り返してより大きな効率的で生産性の高い社会を構成するようになったと考えられる。つまりこの過程で必須であったことは”集まる”ことと”移動する”ことであったという。
しかし、集まるという現象をより詳しく見ると、人類学者山際は人類に近いと考えられるゴリラの世界では、集団は日々個体が目の届くところにいて肌触れ合うことができる関係であることが必須だという。ただこの点に関しては、言葉を発見した人類の場合にはしばらくの期間離れていても再び仲間という集団に戻ることができる、つまり”離れ合う”能力を獲得しているとは考えられる。
これまでこのような人間集団の形成に感染症がどのように影響したかについて歴史学者の飯島はハワイの例を挙げる。ハワイはかってヨーロッパの人たちによって発見され、その結果ヨーロッパからの感染症によって大きなダメージを受けた。そして労働力を補強する必要に迫られたハワイの農業は日本人や中国人を移民として取り込み、現在のハワイが出来上がったという。
このようなことを考えた時、では、現在新型コロナ禍にある我々人類が置かれている状況とどのような接点があるのであろうか。現在感染症対策として日々我々に投げかけられているスローガンは、「3密回避」と「不要不急の外出回避」であろう。つまり、これまで人類が社会を構成するときに用いてきた基本的な動き、すなわち”集まる”と”移動する”を根底から排除することを要求されていることになる。もちろん、現在目の前にある「危機」から脱出するためにはやむを得ないことだからではある。今年になってもう半年以上も大学生をはじめとして小学生、幼稚園までまともに学校に通っているとは言い難い。今の世代の人間は”集まらない”、”肌触れ合わない”ということに徐々に無意識に慣れてしまっているのではないだろうか?いや、ちょっと考えてみると、我々はすでにそのような希薄な人間関系の中に放り投げられていて、その結果として登校拒否、引きこもり、独身増加、離婚増加、人口減少などが起きているのではないだろうかとの考えに行きつく。
話を元に戻そう。ここに登場した哲学者国分は大事なポイントを突いてくる。しばしば外国で起こっている現象としてわれわれの目に留まるのは、多くの死者は友人・親戚に看取られることもなく(基本的に日本でも同様であるが)、また葬儀をされることもなく広い墓地にあたかも投げ入れられるように埋葬されている。このような現象を見てイタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンを紹介し、「死者は葬儀を受ける”自由”」さえ奪われている、と言う。このような現実を見て哲学者国分は、このように死者に敬意さえ払わなくなってゆくという現実に深い不安・違和感を感じると言う。
さらに彼は、自由ということを考えるとき”移動の自由”ほど大切な自由は無いと言う。私たちが生きている社会における刑罰の一番厳しいものは死刑、一番軽いものは罰金、その二つの間はすべて移動の自由の制限の程度の差であるという。それほどまでに人間にとって移動の自由は大事なものとして私たちはこの社会で生きている。そして、ドイツのメルケル首相の有名な演説を紹介した。東ドイツ出身で、移動の自由の壁の高さを実感してきた彼女は、だからこそ新型コロナ対策でロックダウンという移動の自由を完全に抑え込む対策実施に際し、国民に対してそれを選択することの厳しさを説いた。その演説を私も知っている。まさに涙が出るような厳しい演説で、私たちにとっていかに移動の自由が重大かを感じさせる言葉の数々であった。
そして哲学者国分は、「生存以外のいかなる権利も認めない社会というのはいったい何なんだろうか?」と、また「過去と生きることをしない、先人を尊敬することをしない、歴史と生きようとしない薄っぺらな社会とは何か?」と激しく私たちに問いかける。その薄っぺらな社会に生きているような感じがしている私自身にも厳しい言葉であった。
実は私たちはこの新型コロナに襲われる前から「America First!」などと叫ぶような指導者が世界中にあふれる時代に入ってしまっている。つまりは自国第一主義である。つまりはグローバルな意味も含めてコミュニケーションが成り立たない時代である。それに輪をかけるようなことを迫ってくる新型コロナの前で果たして我々には何ができるのであろうか。人類が言葉を発明するより前からコミュニケーション手段として築かれてきた音楽ですら、その大声を出すという特性のゆえに忌避され、邪魔者扱いになっていてそれにも人は集まれない。そんな状況の中「自国ファースト」「自分ファースト」を叫ぶ人たちに未来はあるのだろうか?アマゾンの奥深い、通常外部と交流のないはずの原住民の中にも新型コロナは入り込んでいるという。もはや、自国ファーストや自分ファーストでは生きられないことは明白である。世界に秘境がなくなり、その結果氷や土の中から、あるいは海底深くからどんな感染症の原因物質が出現してくるかわからない世界は、さらに恐ろしい。それに立ち向かわなければならない時代にいかに様々な形のコミュニケーションの再構築ができるか、そこにこそまともな世界が作り上げられるポイントがあるのであろう。「・・・ファースト」などと宣う指導者は蹴散らしたい気分である。