国内国外を問わずの汚い言葉の投げつけ合いに嫌気がさして・・・
- 2017/10/13 09:42
国内では、なりふり構わず野党側の窮地を狙ったとしか思えない安倍首相の突然の解散劇と、それに伴う政界の混乱と汚い言葉のやり取り。そして国外では、北朝鮮の核武装と核ミサイルを巡ってのガキ大将同志の汚い言葉の投げ合い。さらに今朝の新聞にもあるようにトランプ大統領による国連ユネスコからの脱退宣言など、一体何を考えているのだろうかと唖然とするばかりで、そんな大統領を何ともできないアメリカ国民とアメリカメディア。いつなんどき何かのはずみで攻撃のボタンが押されるかもしれない。それがないとの保証もない。そんなトランプに愛想よく付き合うわが首相を担ぐ我々国民とメディア。我々はどちらを、どこを向いていればよいのだろうか?
そんな気分のなか、少し出かけてきた。まずは、東京都文京区駒込にある六義園(りくぎえん、と呼ぶ)。これは都立文化戝9庭園のひとつである。そこのパンフレットの冒頭に次のように書かれている。「六義園は五代将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15(1702)年に築園した和歌の趣味を基調とする『回遊式築山泉水』の大名庭園です。当園は池をめぐる園路を歩きながら移り変わる景色を楽しめるせんさいで温和な日本庭園です。江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治時代に入って、三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、昭和13(1938)年に岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和28(1953)年に国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。」
その記載通り、庭の門を入った正面にある池を中心として、その周りを巡る、いわゆる回遊式の庭園で、その静かなたたずまいを楽しむことができる。残念ながら私はこの手の文化財について解説を加えることなど不可能で、ただその雰囲気を伝えられるように3組の組み写真をお届けする次第である。1枚目はこの庭園の正門と江戸から明治にかけての変遷を残すように洋風のレンガで作られた塀とその説明、およびこの庭園を造営した柳沢吉保が故郷和歌山を意識しての庭園構成の簡略図を示す写真などである。2枚目は庭園の中心である池周り全体の雰囲気を示す写真で、取水場には水の方向を分ける珍しい水分石も見られる。3枚目は、柱と梁に滅多に使われることのないツツジ(3本はサルスベリ)で建てられた簡素な「つつじ茶屋」と、それより下ったところにあり、甘酒や和菓子を楽しませてくれる「吹上茶屋」の写真である。そこに外国のご婦人が座ってゆっくりと庭園全体を眺めている姿はよい風景である。この茶屋は、2枚目の写真に池の反対側からも見えている。この茶屋の屋根上に猫が寝そべって毛づくろいしているのもゆったりしていてよい。
この庭園を訪れたのは10月の初めで、ちょうど花が少なかったのが残念だったが、桜の季節には園の入口にある巨大なしだれ桜が見ものであろうし、秋にはつつじ茶屋に山側から覆いかぶさるようなモミジは壮観であろう。ぜひまた訪れたい。
その数日後、テレビで小田原城下での“小田原おでん祭り”の報道があった。何を思ったか、いや小田原名物のおでん食べたさに、1時間少しで行けることもあり一人で出かけた。もちろん前回小田原城に出かけた時には天守閣耐震補強などの工事中で中に入れなかったこともあった。まず、小田原城に行き、小田原城とそれを巡る様々な出来事や小田原城がその始まりとされる“総構え”を城内での展示などで勉強させてもらった。ただ惜しむらくは、たとえば彦根城のように築城当時の天守閣内部の様子を見ることのできないのは残念である。
4枚目の写真は、きれいな白壁が光る天守閣とその天主の展望デッキから見える海側の写真である。右下の写真の左側には遠く伊豆半島があり、その左側の写真の左端にはわずかに三浦半島を望むことができる。右側中断の写真はその間の海側である。風もないこともあってか少しかすんで見えている。戦国時代には海側の防御にも神経をとがらせていたのであろう。5枚目の写真は、城を見物した後二の丸公園で開かれていた骨董とおでん祭りに出かけた写真である。なお、左上の写真は、天守の展望デッキから右を見た、つまり伊豆半島側の方向の下に見える小田原駅あたりの写真で、小田原城は駅がすぐそばで観光にうってつけの場所にあることがわかる。というわけで、練り物のかまぼこで有名な小田原のおでんをしっかりいただいて、うっとうしいニュースがテレビから聞こえる我が家に戻ることになった。