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2012年02月の記事は以下のとおりです。

第41回いかるがの里・法隆寺マラソンを楽しむ

  • 2012/02/12 12:13

 一昨年に初参加し、そのめまぐるしく変化するコースはランナー泣かせであると共に結構面白い法隆寺マラソン。昨年は大雪のために中止され、2年ぶりに開催である。一昨年は雨模様の天候であったが、今年は快晴だが、スタートの頃には冷たい風が吹き始めた。でも、絶好の条件ではあった。
 今回もGarminのForerunner 110のGPS機能を使って、タイム、ラップタイム、コースとその標高差、そして心拍数をチェックしたので、そのデータを以下にお示しする。1枚目の写真は、コースをGoogle Mapに重ねたもので、法隆寺を中心にして北の中宮寺、法輪寺、それから藤の木古墳、そして南の田園地帯の曲がりくねったコースを走り、途中には人家の間で幅2メートルほどしかない道もある。そのカーブであるが、あまりに曲がり角が多いので先ほどざっと数えてみた。驚いたことに60前後ある。急角度で曲がるカーブは我々素人が走るスピードでも脚に負担がかかりなかなかきつく、その都度スピードも落ちるので厄介である。この数は、たとえば先月走った武庫川新春ロードレースの場合は(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/127 )数は7つ、11月に走った大阪リバーサイドマラソンの場合は(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/101 )12前後と比べると法隆寺マラソンの60前後は圧倒的に多い(写真はすべてワンクリックで拡大できる)。
 さらにこのコースの難儀で面白い点は、アップダウンのきつさだ。2枚目写真のグラフをご覧ください。青い線は1キロ当たりのラップタイムで、5キロ地点の値を除けばキロ4分53秒から5分18秒の間におさまっており、緑色の標高の変化を考慮に入れればほぼ完全なイーブンペースで走れていることがわかる。このデータの元になっている数値は3枚目の写真の表であるが、右端の方にある「上昇計 m」と「下降計 m」はその1キロ内での上昇したメートルの合計や下ったメートルの合計を表している。その合計は上昇が157メートル、下ったのは153メートルで、差が4メートルあるがスタート、ゴールが同じなのでこれは誤差である。使うGPSの数の問題もあって計算は水平距離に重点が置かれていて高低差の誤差は大きいと言われている。それにしてもこれだけのアップダウンがあるのはハーフでは珍しいと思われ、それなりに面白い。そんなこともあって私はかなりアップダウンのある自宅の裏山を走ってトレーニングはしてきた。なお、赤い線は心拍数で、スタート直後に少し高くなっているが全く何も感じない値で、外の気温が下がった秋後半から走り始めに少し心拍数が上がる傾向があるが、すぐに落ち着いてくるのが分かっているので安心である。
 レース前から身体がよく動いてはいたが、それでもこのチョット難しいコースで公式タイム1時間48分52秒、ネットタイム1時間48分40秒はご褒美ものである。心臓の手術からのカムバックを図ってきた昨年10月の「あざいお市マラソン」の1時間59分、大阪リバーサイドマラソン1時間56分、武庫川新春ロードレースの1時間53分、そして今回の1時間48分と順調にタイムを短縮し続けてきた。もはや50分を切るのは難しいだろうと思ってはいたが、でももしかしてと思ってやってきた走法の改善やトレーニングなどが着実に実を結んできたようだ(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/126 , http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/128 )。幸い故障の発生もなく、50分切りはなんと2007年の「マキノ健康栗マラソン」の1時間47分以来である。
 案外、この難しい変化に富んだコースがランナーには意外なモチベーションになっている可能性もある。皆さんも来年のこの大会に是非参加されてこのコースを楽しまれることを期待している。私は今回かなりスピードのある仲間と一緒に走っていたが、彼は東京マラソンへのトレーニングなどのこともあり、6キロあたりから私の後をゆったりと追走していたようである。私は自分の走りに集中していて一度も振り返ることもなかったが、ゴール直前に一緒になり同時にゴールした。この集中力もよいタイムに貢献したのかもしれない。

追記:書き忘れたが、実はゴールしたとき時計のスイッチの押し方不十分で14秒ほど動いていたことから、21キロから最後のタイムと速度やラップの計算はもっと異なったものになる。1時間48分40秒というのは主催者発表のネットタイムである。
追記2:スタート直後から数分間の高い心拍数については、その後の検討から、心拍計と胸部前部との密着性が不十分のためである可能性が高いと判断している(2月20日)。

あんなさみしいU-23日本代表のゲームは見たくもない!

  • 2012/02/08 10:06

 ロンドン五輪の出場権をかけたヨルダン・アンマンでの対シリア戦、どのようなゲームプランで天王山と呼ばれた試合をやるつもりだったんだろうか、と関塚代表監督に聞いてみたい。私はこれまでもこの監督の指導力に満足していなかったが、今回も同様であった。
 初めから中盤が開きすぎていてシリアに中盤を握られて後ろが下がり、押しまくられる展開の中、不運にも山崎が思わぬ負傷退場でぽっかりと集中力の途切れた時間帯の後、ゴール前に蹴りこまれてオウンゴールとなってしまった。前半終了間際に大迫・永井で同点としたが勝ち越すまでには至らなかった。
 後半も事態は全く変わらず、中盤のキーマンとしてけがを克服して登場してきたはずの山村も、その存在価値を全く示せないまま中盤を握られ続けた。ハーフタイムで一体何が語られたのか、私には想像ができない。要するにキッキングゲーム、つまりは押し込まれて蹴り出すだけのサッカーをやっていたんである。相手もそうであったかと言えばそうではなく、かなり正確にボールを繋いでいた。そして、最後にその差が結果として現れただけのことであった。
 今回のゲームは、それがアンマンで行われることが決まってから執拗にピッチの悪さが報道され続け、日本の良さが出ないのではないかとゲームが始まる前から言われ続けてきた。ピッチが悪くてパスサッカーができないのなら、それだけの技術ということであり、ピッチの悪い状況でしっかり練習をすればよいだけだろうと思う。このU-23日本代表チームは、日本で行われたゲームでもそれほどちゃんとしたパスサッカーをしてきたとは思わない。
 今回のゲームは、悪態をつけば少年サッカーを見ているようなものである。いや、少年サッカーの方がまだましかもしれない。私は昔名古屋で少年サッカー大会のサポート役を何度も続けさせてもらった。そのとき、当時強いチームとして定評があった京都紫光サッカー少年団のチームを何度も招待したが、どんなに厳しく押し込まれてもサイドラインからボールを外に出さない、ボールを繋ぐサッカーをしていたのを思い出している。昨年の京都サンガは、前身である紫光チームのそんなサッカーを思い出したように良いサッカーをして見違えるような成績を上げた。そんなボールを大事にする意識が今回の代表チームの選手や監督にあれば、あんな無様なゲームをしなかっただろうと確信している。
 ただひとつ、自分たちの努力で勝ち取った自分たちのボールを大事にキープする、それだけのことだろうと思うのは私だけではなかったようである。昨日2月7日の読売新聞に元ヴェルディ総監督の李国秀氏が選評を書いている。写真をクリックして拡大してご覧ください。恐れ多いが想いは私と同じである。選手はもちろんであるが監督の大いなる奮起を期待したいものである。

寒風の中 淡路島を駆け抜ける (5) 北淡震災記念公園

  • 2012/02/07 09:42

 私たちは今回の小旅行の最後に淡路島北端に近い旧北淡町(現淡路市)にある、国が天然記念物として保存している野島断層を見学することにした。実はこの旅行の1週間ほど前に、かってその地震で西宮の自宅が崩壊し、ご親族をなくされた方の救援に駆け付けた当時の仲間とともにその再建された家に17年ぶりに集まり、当時の惨状について語り合ったばかりであった。そのことを思い出しながら断層を見学した。1枚目の写真は保存館の外観とその公園内に併設されている大きな風力発電機の写真である。
 「野島断層保存 北淡震災記念公園」のホームページ(http://www.nojima-danso.co.jp/earthquakedisaster.php )は次のように伝えている。
 「1995年1月17日午前5時46分、明石海峡の地下約14kmを震源とする兵庫県南部地震はマグニチュード7.3、最大震度7を記録しました。この地震で6,434名の方々が尊い命を失いました。阪神地方や淡路島北部に大きな被害を与えたこの地震災害は「阪神・淡路大震災」と名付けられました。
 この地震は、活断層である「野島断層」が再び動いたことで起こりました。淡路島北淡町(現淡路市)でも、長さ10kmの地震断層が出現しました。中でも小倉地区は断層による道路、生垣、畑の畦などの破壊状況が各所に見られ、いまなお地震のエネルギーの巨大さと、断層運動による複雑な地表面の変形に見られる自然の驚異を如実に語りかけてきます。
 『震災を語り継ぎ、教訓を未来に活かし、将来起こりうる大地震で少しでも犠牲者を減らしたい。』この想いで、私たちは野島断層を保存していきます。野島断層は平成10年7月31日に、国の天然記念物に指定されました。」
 私は当時高槻の官舎に住んでいたが、あまりの激しい揺れに飛び起きた覚えがある。幸い官舎は丈夫な地盤の上に建っていたようでほとんど被害はなかった。それでもそれからの何カ月間は職場であった豊中に通勤するのに箕面の山の中を通る道を迂回しなければならなかったほどであった。そんな大被害を与えた野島断層はどのように地上に現れていたのかを実地に見るチャンスであった。
 野島断層保存館に入るとすぐに阪神・淡路大震災の被害状況と淡路島にある大きな2本の断層帯のパネルがあった(1枚目の写真の右上と中央の写真)。その断層帯の写真の中の左上から左下に走っているのが野島断層で、今回の動きは2000年ぶりのものであることが明らかとなっている。実はもうひとつ淡路島東海岸寄りに楠本断層、東浦断層、野田尾断層からなる長さ約20kmの活断層系が分布するが今回はほとんど活動しなかったようである。過去16世紀に活動したことがわかっており、ほぼ2500年の周期だとも書かれていた。
 今回の野島断層の活動は、山側が最大50センチずり上がる「逆断層」で、さらに右側に最大150センチずれる「右横ずれ断層」でもあった。驚いたことにその断層が北から南へ約10.5キロも地表に出現したのである。特に北淡町小倉地区ではおよそ140メートルがはっきりと地表に現れ、それを後世に残し研究教育材料とするためにその上に屋根を付けたのが保存館である。2枚目の写真の左上の側溝の写真は、元々真っ直ぐつながっていたもので、それがまるで違う形になってしまっているのがお分かりだと思う。その下に長い断層が見える写真があるが、その主断層のそばに小さな断層が発生しており、副断層と呼ばれている(正面からの写真がある)。さらに3枚目の写真のように畔が大きくずれている写真もあるが、これらは断層を正面から見たもので、同じ色の標識はもともとつながっていたことを示している。大きく1メートル以上も右横ずれを引き起こしているのである。このような逆断層と右横ずれ断層がわずか十数秒の間に引き起こされたのであり、その巨大なエネルギーにただただ圧倒される想いである。
 さらにこれらの断層の断面を見るためにトレンチを掘り、その断面を見せた実物展示があり(4枚目の写真)、さらにその深いところの水平断面を見せた展示があった。確か数万年前に起こった断層の活動で発生した液状化の跡が、我々素人でも鮮やかに見ることができる(4枚目の写真の右下)。
 なんとこのような野島断層に引き裂かれた新築の鉄筋コンクリートの家がここに保存された場所の近くにあったのである。ただ断層が、その家本体からわずか1メートルだけ外れていたために家の中はごちゃごちゃになったが、でも破壊はまぬかれていた。もちろんその家の庭から塀は線状に破壊されたのである。特に右横ずれは1.2メートルと激しく、その家はいまメモリアルハウスとして展示されている(5枚目の写真)。
 最後に私たちは震災体験センターで震度4と7の体験をした。震度4はこれまで体験はあったが震度7は全くなく、恐ろしい体験であった。兵庫県六甲山南の海岸べりと淡路島北部で皆さんがこの震度を経験したのかと思うとなんとも言いようがない複雑な想いである(当日の写真がセンターに展示されていた)。昨年2011年3月11日、またマグニチュード9という未曾有の大地震が日本を襲い、2万人以上の方々が命を落とされたようである。今回の保存館や体験センターでの経験をなんとか後世に伝えたいと思っている。

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