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2012年09月の記事は以下のとおりです。

続々育つ“ヤングなでしこ” 堂々のU20 W杯銅メダル

  • 2012/09/10 11:50

 日本で初めてのFIFA U20(20歳以下)女子ワールドカップが8月19日から宮城をはじめ5会場で開催された。当初はウズベキスタンの代替開催ということもあって盛り上がりが心配されたが、昨年のワールドカップドイツ大会でなでしこが優勝、また今回の大会直前のロンドン五輪でなでしこが銀メダルを獲得し、男子U23チームの活躍もあり、しかも大会中は“なでしこ”の妹分の“ヤングなでしこ”が大活躍したこともあって結果としては大いに盛り上がったといえる(写真は9月9日の読売新聞の記事)。
 その“ヤングなでしこ”の活躍は素晴らしかった。春にアメリカチームが日本に遠征しての強化試合では、フィジカルをはじめとしてスピードのなさなどが大いに気になっていたが、それから数か月後のこの大会でのチームは、同じチームかと目を疑うほどの大変身をしていた。
 なんだか、良いお姉さんたちがいると賢く立派な妹たちが育つという感じがひしひしとした。パス回し、集中力を切らさない守備はお姉さん譲りだが、それ以上に素晴らしいと思ったのは非常に攻撃的で、ゴール前では個人での突破を繰り返し繰り返し、飽きずに試みてゆく点だと思う。この点は、これまでの男子の日本代表チームにもない特徴で、中南米かスペインのチームを見ているような感じがした。どうやら監督の吉田弘氏の指導の成果であったらしい。
 その点で特に異彩を放ったのは柴田と西川のペアの動きだった。3位決定戦のナイジェリア戦の2点目でも見られたように、柴田がドリブルで切れ込んで西川が冷静に蹴りこんだシーンなどはこの2人の動きは鮮烈だった。さらにMFの田中美南、田中陽子はサイドをよく切り崩し、特に田中陽子の左右どちらでも決定的なボールを蹴れる能力はお姉さんの宮間をも上回れる可能性を秘めていて楽しみである。FWの横山もドリブラーだがもう少し瞬時のスピードがないとペナルティエリアで相手を切り崩すのは難しい気がした。
 中盤には守備にも攻撃にも参加できる楢本や藤田がおり、後ろにはまだ16歳の土光が高木らがGKの池田ともども頑張っていた。私の住んでいるところをホームタウンとするチームではFWの浜田が左サイドバックで頑張ってはいたが、ボールの扱いとパスの正確さがもうひとつで、そのためか少し消極的なプレーが目立ったのは残念であった。FWとしての彼女のプレーも何度か見たことがあるが、そんな弱点が克服されればFWとしても一皮むけると期待される。
 私は全ての選手を十分に知らないのでこれくらいの選手しかその名前をあげられないが、けがをして大会に出られなかった京川をはじめとして多くの逸材がいるようで、これからのこの世代の成長を大いに期待したいものである。そして、多くのこの世代の選手が次回女子Wカップに出場してくることを楽しみにした。
 私は国旗を揚げてスポーツをする、あるいは語るのはあまり好きではないが、今回ヤングなでしこはロンドン五輪で男子のU23チームが敗れたメキシコをグループリーグ初戦で、また準々決勝で韓国を破ったのは金星であった。しかし、ドイツには歯が立たなかったのは残念で、次の対戦を楽しみにしたい。とにかく、なんであれスポーツはフェアで息詰まるゲームを見たいものである。その意味で“ヤングなでしこ”がフェアプレー賞を受賞したのは素晴らしいの一語に尽きる。

熊本の人吉から鹿児島を走り回って420キロ-(6)仙巌園と尚古集成館

  • 2012/09/04 21:45

 南九州の旅の最後は、南九州特に薩摩・大隅半島を800年にわたって統治してきた薩摩藩主の別邸とその事業を眺めることになった。その別邸の庭園は仙巌園(せんがんえん)と呼ばれ、錦江湾を挟んで桜島の反対側の鹿児島市にある。桜島を築山(人口の山)、錦江湾を池とみなして作られたようで、背後にも山があるため錦江湾に沿った細長い庭園になっている。その庭園から桜島を眺めた写真が1枚目の写真である。2枚の写真を合成して作ってある。
 その庭園に入ったところに2枚目の写真に見える巨大な大砲が展示されている。150ポンド大砲と呼ばれるもので、薩摩藩が後に述べる近代的産業国家を目指した集成館事業の推進によって製造が可能になったと言われ、それは見るものを威圧するに十分である。その庭園には巨大な灯篭などを配置しており、見る者を驚かせる(3枚目の写真)。また、歌遊びをしたとされる曲水の庭も作られているが、東北・毛越寺のそれに比べると少し雑なような感じである。しかし、それも後に発掘された部分であるとのことでやむを得ないのかもしれない。
 仙巌園を出るとそれに隣接して「尚古集成館」がある。Wikipediaは次のように言う。「尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)は鹿児島県鹿児島市吉野町にある博物館である。薩摩藩第28代当主島津斉彬によって始められた集成館事業の一環として、1923年5月22日に開館した。現在は島津興業によって運営され、島津家に関する史料や薩摩切子、薩摩焼などを展示する。本館は1865年に建てられたもので、国の重要文化財である。仙巌園に隣接する。日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築物。」(4枚目の写真。写真を撮影しそこなったのでネットからお借りした。http://www.yado.co.jp/kankou/kagosima/kagosi/syouko/syouko.htm
 また斉彬の目指した方向については「特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、社会インフラの整備など幅広い分野まで広がっている点が他藩と一線を画す。」とし、それは薩摩藩の危機感の表れとしている。
 それについては、その博物館の展示物を見ていると納得できることが多い。包括的な印象を言えば、薩摩という国は日本の中で全く特殊な位置にあったのだと思われる。それは鎖国という時代の制約があっても、琉球を介して中国・東南アジアそして西洋と幅広い交易を営むことができるために、半ばそれは幕府によって黙認されていたといってもよいほどである。そしてそのルートからの情報から、外の世界の慌ただしい変化を詳しく知ってしまうことによって、大いに危機感を感じ、近代産業推進の方向へ大きく舵を切ったといえる。その結果製鉄業の発展を基盤にして蒸気船までも作る能力を獲得し、海軍力を著しく増強し、将来の明治政府の海軍に多くの指導者を送り込んだのである。
 そうは言っても幕府の厳しい制約はあったのであろう。薩摩藩は斉彬の時代に19名の若者を偽名を使ってイギリスやアメリカに送り込んで勉強させたのである。そこからも多くの人材を輩出している。驚くべき先見性である。
 薩摩藩、そして鹿児島を含めた南九州は総じて豊かに発展してきたように思える。しかし、一方で桜島という観光資源でもあるが爆弾でもある難しい問題を抱えている。絶えず小爆発を繰り返し、風向きによってさまざまな方向に火山灰を降らせている。最近では新燃岳のような噴火もある。鹿児島を歩いていて感じるのは、どこでも足もとに火山灰を感じることである。それは我々が普通感じる“灰”というようなものではなく、岩石の細かい粉末の砂でありもっと厄介である(追伸参照)。それでも鹿児島の方々はそれを克服する術を知っていて、それを迎え撃つ覚悟を持っているように見える。
 仙巌園の入り口から少し入ったところに、「克灰袋」という黄色い袋にそんな火山灰を入れた袋の集積所が用意されていた(5枚目の写真)。それは鹿児島市民の意気込みを表す象徴的な表現なのか、実際仙巌園での灰を集めて灰の捨て場に持ってゆく前の一時集積所なのかはわからない。いずれにせよ、その場所には、「かっては『降灰袋』として市民に配られていたが、そんな受け身ではなくそれを克服するという意味を込めて『克灰袋』と名前を変えた」という趣旨の鹿児島市の言葉が添えられていた。“灰には負けぬ”という強い意気込みを感じた。
 そしてその夜、鹿児島中央駅から九州新幹線“みずほ”に乗り、わずか3時間44分で新大阪に戻ってきた。

追伸:このブログを書いた2日後の読売新聞(9月6日夕刊)の「地震・噴火…富士山崩壊」の記事に、火山灰について次のように書かれていた。「マグマが砕けて出来る火山灰は、炭とは全く違い、主成分はガラスと同じだ。目や肺に入ると有害で、屋根に10センチほど積もって水を含むと、住宅を潰すほどの重さになるので被害は甚大となる。」

熊本の人吉から鹿児島を走り回って420キロ-(5)火山の島 桜島

  • 2012/09/04 13:09

 九州最後の夜を、九州新幹線鹿児島中央駅に隣接しているJR九州ホテル鹿児島で快適に過ごした翌朝、桜島にわたってみることにした。鹿児島中央駅から桜島フェリー港までは車で10-15分という近いところにあり、フェリーも10-15分間隔で出港しているのでほとんど待つということはなかった。1枚目の写真はフェリーから撮った写真であるが、望遠レンズを使っているので直近の桜島をワンショットでというのは無理であったが、上の方が雲に覆われていて雨もぱらつくような天候は想像していただけるであろうか。
 フェリーでの時間は15分くらいだっただろうか、すぐに着いてしまったという感じであった。港の傍にビジターセンターがあり、そこでの情報を基に「黒神埋没鳥居」のある場所まで車を走らせることにした。道はよく整備されているが、急カーブがあるかと思えばなにも無いところに道路を作ったという感じの長い直線道路があったりで、火山弾が降り注ぎ溶岩が流れて作られた台地の道かと考えさせられた。
 その“黒神埋没鳥居”は桜島を半周したあたりにあり、そばに黒神中学校があった。2枚目の写真上部の立て看板をお読みいただけるとその時の様子が分かる。それは大正4年に起こった大爆発の様子とその被害について書かれており、この黒神地区でも全戸687戸が火山灰に埋没し、この写真下部に映っている鳥居もそのほとんどが埋没している。この地区に住んで火山活動を経験していない私にはそれを実感することは難しいが、恐ろしいを通り越す感覚だったのではなかろうかと思う。しかしそれも言葉以上ではない。
 そんなことを感じながらゆっくりフェリー港方向に戻り、有村溶岩展望所に立ち寄った。3枚目の写真にあるように道路は溶岩原に作られた溶岩道路であり、溶岩の崩落を防ぐためにあちらこちらに大規模なフェンスが造られていた。それはいま5千人の住民を守るためでもあり、多くの観光客の安全を確保するものである。いざ噴火となれば大小さまざまな火山弾が降り注ぐのであろう。それから住民や観光客を護るため、写真に見られるような避難所がそれぞれの家の、また人が集まるところには造られている。それは阿蘇火口に近いところで見たものと同様である。
 また、常に噴煙を上げ、小規模な爆発を繰り返している桜島には当然大量の火山灰が蓄積している。それらは雨が降れば恐ろしい土石流となって流れるのであろう。その暴走を防ぐためにあちらこちらに堤防状の構造が造られており、また土石流を安全に流すための“川”をいくつか見ることができた。写真にあるのは“引ノ平川”で、水は見られなかったが、普通の雨水を流すためでもあると共にいざという時の土石流をも制御して流すために作られているのであろう。大変な努力だろうと思う。
 私はかってハワイのハワイ島のキラウェア火山の溶岩原を見たことがある。私が見たのは比較的平坦で滑らかな溶岩原だった。それはキラウェア火山の溶岩の粘度が低く、サラサラと流れて大きな塊を作りにくいためだと聞いたことがある。そして私が見たところにはほとんど植物は生えてはいなかった。それに比べると桜島の溶岩原は、大きいものから小さなものまでさまざまな溶岩の塊があちらこちらに散在し、植物はその間に低木の松が生えている風景であった。それが山の斜面から錦江湾の水際まで続いているのである。
 いまもこの島には5000人ほどの住民がいる。この人たちを支えるのは観光産業であろうか。桜島自身が大きな観光資源であると共に極めて危険な存在でもある。それでもその観光資源を巧みに利用して生き続けるしかないのであろう。火山島のため多くの温泉があるが、水際をちょっと掘れば温泉がわき出てくるようである。そんなこともまた体験してみたいものである。ビジターセンターの鹿児島市寄りには長い足湯が造られていた。そこでは写真のように子供たちや多くの観光客が足湯で遊び楽しむ姿が見られた。そうやってこの島は生きてゆくのであろうか。

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