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2012年09月02日の記事は以下のとおりです。

熊本の人吉から鹿児島を走り回って420キロ-(3)長崎鼻から開聞岳へ

  • 2012/09/02 16:56

[$F01 style="float: right; width: 150px"] 三日目の朝指宿温泉の宿泊ホテルを出て、同じ指宿の長崎鼻に向かった。その途中、「フラワーパーク かごしま」に立ち寄り、世界の花や植物を見る機会を得た。その敷地は36.5ヘクタールと広大で、今回は時間の関係でそのほんの一部を見せていただいた。全体としてやはり南国の植物が多い感じで、例えば沖縄の植物を見ているような感じがした。花は咲いていなかったが、世界一大きい花が咲くと言われるショクダイオオコンニャクなども見ることができた。またチャンスがあればゆっくり来てみたい感じがした。
 そこからすぐのところに有名な長崎鼻がある。Wikipediaによれば、「長崎鼻(ながさきばな)は、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。鹿児島県指宿市(旧山川町)に位置する。指宿カルデラの外輪山の一角を成しており、一帯は火山岩にて形成されている。長崎鼻(ながさきばな)は、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。」という。「鼻」と名のつくところは、一般に岬の基部が末広がりになって三角形になっている場所を指すようで九州には殊の外多いという。
[$F02 style="float: right; width: 150px"] その長崎鼻を少し手前の高台から撮った写真が1枚目の写真の上部分で、なかなか良い眺めである。この形状は、その右側に位置し、かって活発に活動した開聞岳の外輪山の一部をなしているようである。開聞岳は薩摩半島(錦江湾の西側の半島)から太平洋に突き出す格好になっていて、長崎鼻の延長線上の外輪山は海の中に没していると考えるのだろうと思う。2枚目の写真の地図を見ていただければお分かりになるであろう。その地図では真下に長崎鼻があり、その西側で海に突き出した形で開聞岳がある。右上にある池田湖はそのカルデラ湖である。なお、この岬には竜宮伝説もあり、竜宮神社が造られていた。
 長崎鼻の近くから見た開聞岳の写真が3枚目で、あいにく雲がかかって頂上の方は見えなかったが、まことに形の宵山で薩摩富士と称されるのは分かる気がした。開聞だけに関してWikipediaに聞けば、「4,000年前頃活動を開始し、有史以降の噴火記録は6世紀ごろからあり、貞観16年3月4日(ユリウス暦874年3月25日)と仁和元年(885年)7月・8月に大噴火した。このとき、山頂に溶岩円頂丘が噴出し、現在の二段式の山容となった。山体は主に粘性の少ない玄武岩だが山頂付近の溶岩ドームは安山岩でできている。」という。
 車で登山道を上がるとすぐに「開聞山麓自然公園」が広がっており、その間を縫って3合目まで上がることができた。途中の展望台から長崎鼻方面を撮った写真が1枚目の下部分である。その自然公園でのんびり草を食んでいたのは、なんと日本の馬の在来種のひとつトカラ馬であった。トカラ馬(トカラうま)は、トカラ列島(鹿児島県鹿児島郡十島村)で飼育されてきた日本在来種の馬で、体高はおよそ100-120cmと小型で、在来馬の中でも最小クラス。ポニーに分類される。毛色は鹿毛のものがほとんどである。暑さに強く、古くから農耕や運搬、サトウキビ搾りなどに利用されてきた。1953年に鹿児島県の天然記念物に指定されている。なお、この馬は明治30年頃に喜界島から移されたものだとも言われている。
 その写真をまとめたのが4枚目の写真である。現在は絶滅の危機から脱しているようであるが、いまでは農耕などへの利用価値が低いこともあって先行き難しい問題があるようである。それでも、この広い自然でのんびりと生きて増えて行っているのはうれしい気分ではある。
 なおWikipediaによれば、「太平洋戦争において、知覧の特攻基地から出撃した戦闘機は、まず開聞岳へと進路をとり、富士山にも似たその山容に故郷や家族への別れを告げつつ南方へと向かったという。」なんとも言いようもない状況だったに違いない。特攻基地については別のブログで報告したい。

熊本の人吉から鹿児島を走り回って420キロ-(2)「君が代」の“さざれいし”とは?

  • 2012/09/02 14:11

 雨が降ったりやんだりの天候のため、えびの高原に上がっても何も見えないことは百も承知の上で車で駆け上がった。はるか40年以上も前、学会か何かで九州を訪れたとき秋のえびの高原にまで足を伸ばし、その紅葉の美しさに圧倒された思い出があり、その時の風景と重なるものがあるかと考えていた。今はすっかり車道も整備されており、季節が違うこともあって昔の面影を感じることはできなかったが、天候がよければきっと素晴らしい展望が開けていたのだろうと思った(1枚目の写真はWikipediaから借用したえびの高原の写真で、背景は韓国岳)。
 Wikipediaによればえびの高原は、「標高は約1,200mあり、宮崎県えびの市の南東部に位置する。狭義のえびの高原は韓国岳北西斜面に広がる面積約0.8平方キロメートルのなだらかな火山性扇状地を指すが、広義では韓国岳、蝦野岳、白鳥山、甑岳に囲まれた面積約5平方キロメートルの盆地全体を指す。霧島屋久国立公園の一部となっており、年間約80万人の観光客が訪れる。」とされる。
 残念ながら当日はえびの高原は雨が降ったりやんだりで、霧が出たこともあって視界は不良のため動き回ることはせず、「足湯の駅えびの高原」にとどまって物産品を眺めていた(こうゆう場所に来るとなぜか孫たちのための木製のおもちゃがあるのが不思議である)。2枚目の写真でお分かりのようにかなりの霧でよくまわりが見えないのがお分かりであろう。しばらくの間、よくは見えないがなんとなくえびの高原の雰囲気を感じた後に下山することにした。そして、霧島神社に向かった。
 霧島市にある霧島神社についてWikipediaは次のように言う。「欽明天皇の時代(6世紀)、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。実際の所は高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社であろう。(…中略…)しかし、火山の麓にあるという立地のためたびたび炎上する。(…中略…)現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物である。明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。」。要するにこの神社は山岳信仰がその始まりであったようである。当初は霧島山全体がこの神社のものであったようであるが、廃藩置県や戦後の宗教改革などの結果現在の規模に落ち着いたとされる。
 そのことより私に興味があったのは、一番奥の鳥居の右手前に「さざれ石」が展示されていたことである。その写真が3枚目の写真で、小さな石がくっついて固まり石になったものが映っていて、その横に説明書きがある。それを拡大したのが下の写真で、その説明はおおむね理解できる。それについてネットで検索してみると、「さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味で、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものを指します。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。」とある(http://30469720.at.webry.info/201105/article_9.html )。なお、このようなさざれ石は岐阜県・滋賀県県境の伊吹山が主要な産地であるという。
 その上でそのウェブサイトの著者は、「君が代は ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて こけのむすまで」(「古今和歌集」巻第七から引用されている)の国歌を現代訳すれば・・・
「わが君は、永遠の世々に、小さな石が大きな岩と成って 苔が生い茂るさきざきまで長く、おすこやかにあらせられませ」となる、とする。確かに素直な解釈で、「『君』は尊敬する人を意味する一般用語ですが、ここで収められている賀歌は皇統に対してのものなので、この「わが君」は天皇とみるのが妥当のようです。」。そして、「君」を尊敬すべき大事な人と考えれば、人それぞれに意味を込めて歌うことができるかもしれないと書き記している。
 遠い九州の霧島神社まで来て、ひとつ勉強をしたような気がした。そして一気に指宿温泉まで走って、まだ経験したことのない「砂蒸し温泉」で“砂蒸し”を初体験した。無理をしないでということで10分間だけ経験したが、もちろん体全体が熱くなり、きっとそれなりの効用があるのだろうと実感した。

熊本の人吉から鹿児島を走り回って420キロ-(1)人吉での愉快な出会い

  • 2012/09/02 10:44

 昨年の同じ時期に九州の中央部を大分から阿蘇を通って熊本に抜けるコースを走って様々なところを見て楽しんだが、今年は熊本の人吉から鹿児島のルートを楽しむことにした。新大阪から九州新幹線で熊本まで3時間、そこでレンタカーを借りて九州自動車道を南下して人吉市に入った。
 人吉市についてはWikipediaは次のように言う。「熊本市から直線距離で真南に約70kmの場所に位置し、熊本県の最南端に当たる。北部と南部は九州山地の一角をなす山地である。市域南部は標高1,000m級の山地で宮崎県えびの市と鹿児島県伊佐市に接している。市の中心部は人吉盆地の西端で、球磨川が東から西に貫流する。市内では万江川・山田川・鹿目川・胸川など多数の支流が球磨川へ流れ込んでいる。中心部は古くからの城下町の町並みが残っており、小京都と呼ばれる。」
 予約したホテルは水のきれいな球磨川沿いに建ち、人吉城跡に面していたのでチェックイン後、中世から明治初期まで変わらず人吉を拠点とした相良家の城跡辺りを散策した。少し雨模様ということもあり城跡を眺めただけで登ることはせず(1枚目の写真)、ゆったりとした人吉の雰囲気を楽しんだ後、その近くに繊月酒造という焼酎製造会社を発見した。球磨の焼酎といえばもちろん米焼酎である。幸い人吉の会社は酒造会社からみそ・しょうゆの会社、それに鍛冶屋まで見学をさせてくれるようになっていて、その繊月酒造も私たちともう1人の女性の3人でもしっかりと米焼酎造りの過程を丁寧に案内してくださった。しかもその後ゆったりと存分に試飲をさせていただき、様々な種類の米焼酎を楽しむことができた。お陰で自分のためやお土産に数本を購入し、あとはお土産のことは考えず気楽に旅することになった。なお、この会社の写真を撮らなかったので、パンフにあるその会社のお酒の写真を掲載しておく。なお、これ以外に瓶で熟成させた古酒などがあり、とってもおいしかった。
 ゆったりとホテルで一泊した翌日、ホテル近くの街並みを少し歩きまわっていた時、楽しいおじさんに声をかけられた。3枚目の写真でお分かりのように、その“おやじ”は小さな「佐々木食肉店」を経営していて、店内にNHKの看板番組「鶴瓶の家族に乾杯!」への出演予定が張り出したあり、店の入り口左にあるシャッターには「鶴瓶の家族に乾杯!に出演した佐々木肉屋です」のビラがおどっていた。
 このおやじは実に面白い人で、聞けば何でも話してくれて、そのテレビ番組に出演することになったいきさつや、NHKが突然出演することになった人たちへの数々の心配りなどもいろいろと話してくれた。私はその番組を観ていたので、その時話題になった大相撲の番付が板に書かれていたもののことなどを訪ねたところ、なんとその肉屋の前の化粧品店にあるのだと言われた。確か二つ話題になったはずだと聞いたところ、もうひとつは濱田屋さんというすぐそばのまんじゅう屋さんにあるという。わざわざ見せてほしいとお願いするのも気が引けたので見ることはなかったが、いずれにせよ、家族に乾杯のお陰で思わぬ会話を楽しむことができた。こんなのが本当の旅の楽しみかもしれない。焼き鳥もごちそうになり、昼食用に胸肉の照り焼き様のものを買い、サヨナラを言ってお別れをした。
 その後もその街を散策し、小さな鍛冶屋さんを覗いて珍しい刃物を1本買い、またみそ・しょうゆ蔵の釜田醸造所を見学させていただいた。うなぎの寝床のような感じの工場で、その空間には無数の多彩な菌類が生きているのだろうとなぜか思えた。見学の後いろいろ試食・味見させていただき、2種類の醤油を買うことになった。人吉の方々は外からの人達になんとも優しいとひしひしと感じた。
 その後、国宝の茅葺の本殿や鐘楼と門がひとつになった青井阿蘇神社をおとずれ、また「幽霊の掛け軸」が残されているという永国寺も訪れた。なお、西南戦争時に西郷隆盛が一時本陣を置いたところのようで、後に戦況悪化で小林方面に撤退したとのことで、明治維新後の混乱収束の動きを感じさせられた気分であった。そしてその後えびの高原方面に車を走らせた。

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