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2017年02月の記事は以下のとおりです。

私に新しい何かを迫った京都マラソン2017

  • 2017/02/24 15:31

 私にはこれまで京都でのハーフマラソンは縁起がよかった。実は京都で最初のハーフを走ったのは2001年で、それまではこのレースの2時間という制限時間の壁がとても恐ろしく出られなかったのである。そして64歳時の2004年3月に今でも破ることのできない私のハーフの最高タイム1時間41分13秒を出すことができた。いまから考えてもどうしてこんなタイムが出せたのかはわからないが、この京都では何度か40分前半のタイムを出せ、私に自信を持たせてくれた京都はとても相性が良いのである。
 そんな京都をフルマラソンで走る機会はこれまで2度あったがいずれも故障でキャンセルしており、今回3度目の正直と勢い込んで京都にやってきた。昨年11月神戸マラソンを走った後は順調に調整できたと思っていた。ただ、こちらに引っ越してからはなかなかジムでのトレーニングになじめず、ほとんどロードを走るだけとなり、筋トレなどが極端に不足していることは気になっていた。しかし、一応目標とした月間150キロほどは走って調整してきたつもりであった。
 レース当日の早朝7時過ぎ、西京極の野球場のネット裏スタンドに入って着替えをすることにした。この野球場は、私が西京極に近い大阪・高槻にいた時に夏の高校野球・京都大会の試合を何度か観戦に来たこともあり、落ち着いた気分でグランドを眺めていることができた。ただ、前夜の小雨の後相当冷えたらしく、シートに溜まった水がカチカチに凍りついていたこともあり、朝日を浴びてはいたが底冷えのする朝であった。着替えてから荷物をトラックに預け、トイレで用を足してからウォーミングアップをしてスタートに備えたが、残念なことにトイレの数もかなり不足気味で、さらにアップのためのオープンスペースが少ないことから他のレースの会場に比べて少し窮屈な感じを受けた。
 陸上競技場のトラックに整列して9時にスタートしたが、トラックも氷の解けた水で濡れており、競技場を出てしばらくの石畳も濡れていて用心深く走ったのを覚えている。転倒が一番怖いからである。1枚目の写真は今回のコース図の写真である。写真はかなり拡大してご覧いただきたい。競技場を出てから嵐山方面に向かい桂川の堤防道路を北西に向かい渡月橋を左前方に見ながら右折して天龍寺の方向に向かうコースを取った。このあたりでは、前方に見える山々に霧がかかっていかにも京都と思わせる雰囲気を感じることができた。
 その後、一条通を東に向かって広沢池、仁和寺、龍安寺を左に見て走るにしたがってアップダウンの厳しさを実感することになった。実はコース図の写真の左上の方に黄色で高低差が表示されています。私がこの図を見て感じていたことは、いったん10キロ手前までで坂を上りきってしまえば、あとはだらだらした比較的平坦なコースと勘違いしていたことでした。よくよくその図を見ると、決してそんなことはなく、25mほどの高低差のあるアップダウンがいくつも続いていたのです。その時点ではそんなことを考えてる余裕は最早ありませんでした。14キロ時点の馬代通から上立売通へ曲がって入る地点で、あらかじめ示し合わせたかっての職場の先輩を見つけることができ、ほっとして上りを意味する北に向かって順調に走っていきました。その順調さは、2枚目の写真の5キロごとのラップによく表れています。このあたりの賀茂川沿いの道路は、かって京都ハーフマラソンを走った時のコースのはずで、十分なじみがあり、穏やかな気分で走れたように思います。
 その後、賀茂川沿いを下りながら北山通りに入り、さらに府立植物園の中を巡って再び賀茂川の右岸を走ることになりました。実はこの29キロあたりからの賀茂川(鴨川)河川敷コースは私にはかなりきついコースでした。その理由は、狭く、またコンクリートの石畳や土の部分が混在していたことや小さな起伏がたくさんあることでじりじりと疲れを感じ始めてきました。また、目がしょぼしょぼし始めたことと、非常に疲れると身体が左に傾いて左に斜行する癖が出始めたので、あまり無理をしないようにとどこかで歩くことを決め、30キロあたりでしばらく歩き始めてしまいました。3枚目の写真は、私のGPS時計でのデータで、黄色いペース(分/キロ)の線が上に向かって急に上がっており(ペースが落ちている)、紫色の心拍数が急に下に向かって下がっている(スピードが落ちている)地点が最初に歩いた地点を表しています(なお、11キロ手前の同様のデータについては思い出せない)。その後32キロ地点とそれ以降に何度か歩き、40キロまでの10キロが私にとっては地獄のような時間でした。この間、元気を出すために給食として用意されているミカン、パン、好きな生八つ橋などに手を出すのですが、それらを一口口に入れるだけでまともに食べられず、手に持っているだけで口からもぽろぽろこぼしている有様でした。こんな自分を情けない思いで見ていました。疲労の極致とはこんなことを言うんでしょうね。
 今出川通の最後の折り返しで、係の人に“あと3キロ、下るだけやで!!!”と大きな声で励ましを受け、最後まで間違いなく行けることを確信して気を取り直し、走り始めました。それでも、京大に近い東大路通で一度歩きましたが、あとは我慢し続けました。そして、東大路通から何度か左右に曲がって平安神宮の大鳥居の真下に入ってゆくのですが、まっすぐに走れず、左に斜行してやっとゴールの左端に入ってゆくことができました。ゴール後、荷物を受け取り更衣場の床に座り込んだまま貰ったドリンクも飲めず持っていたバナナも食べられず、一緒に走った仲間や応援に来てくれた方々とメールで連絡を取るだけで1時間半何もできませんでした。でも、2時間半後にやっと三条京阪まで歩き、その方々とおいしいビールを飲み“給食”を食べ、やっと生き返りました。タイムは4時間52分25秒。目標には10分以上届きませんでした。
 一昨年の神戸、昨年の長野と神戸、そして今回の京都マラソンを振り返ると、加齢が進む中4時間後半のタイムを脚力で押し切れる時代は終わりつつあるのかもしれないと感じている。もちろんトレーニングを積んで脚力を維持・強化することを考えているが、その努力で42.195キロというマラソンのなが~い距離を克服するのはとても難しい。それよりもどこまで精神的に頑張れるか、我慢できるにかかっているようである。その意味からすると、この4つのフルマラソンでは、必ずしもタイムはよくないが、しかし最後まで走り切りたいという精神力に支えられている、つまり、我慢する力は失われていない、そんなことを感じている。もうしばらくはがんばれそうである。
 しかし、問題は今回思いのほか早く“斜行する”悪い癖が出てきたことである。つまり、体の軸が不安定化しているのであろうか。私はこのブログの最初に、最近筋トレが不足していると書いた。今回早い段階にそれが表れたことが何によるのかはわからないが、脚力ではない筋力、特に体幹の筋力が不足しアンバランスになっているためと考えることもできる。これから1か月半、それを明確に意識して強化し長野に臨んでみようかといまは考えている。

冬の出雲を旅する (2)出雲大社とその周辺

  • 2017/02/08 17:41

 出雲大社には10年ほど前に一度訪れたことがあるが、今回のように出雲大社やその周辺の神社をいくつか訪れたことは初めてで、いろいろなものを見学し、帰ってきてからも様々な書き物を読むチャンスがあって収穫の多い旅ではあった。今回はそのあたりのことを書いておきたい。まずはその出雲大社についてのWikipediaの記述を簡単に紹介したい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE )。
 「出雲大社(いずもおおやしろ)は島根県出雲市大社町杵築東にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は『いずもおおやしろ』(歴史的仮名遣いでは『いづもおほやしろ』)であるが、一般には主に『いずもたいしゃ』と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一『大社』を名乗る神社であった。」
 また、この出雲大社の「祭神」については次のように言う。
「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。1142年(康治元年)在庁官人解状に『天下無双之大廈、国中第一之霊神』と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。」確かにこの出雲以外では11月は“神無月”であるのに対し、この出雲では“神在月”と呼ばれるようである。
 私のように自然科学を仕事としてきた人間にとっては、この出雲地方の神々の正体をどう感じたらよいのかがなかなか問題で、そう簡単に入り込むことは難しい。旅から帰って様々な資料を読んでは見ても、出雲大社の創建についても、また何を祭っているか、つまりは「祭神」についてもその移り変わりが激しいことが分かった。たとえば、平安時代前期までは大国主大神であったが、神仏習合の影響下で中世のある時期から17世紀までは八岐大蛇退治で名高い素戔嗚尊(須佐之男命)、その後、また神仏分離・廃仏毀釈政策の影響下に古事記や日本書紀の記述に沿って大国主大神に戻ったとされる(Wikipedia)。そのように歴史的にも様々な見方が挙げられていることが分かってきたが、考えようによってはそれはきわめて当然のことで、近世から現代においても、いや第二次世界大戦以降においても神話ならずとも歴史(歴史書も)は常に為政者によって都合よく主張され、書き換えられてきているからである。したがって神社・仏閣などの創建以降の歴史もそう見るのが健全であると私は思う。
 そうは言っても、この出雲地方に伊弉諾大神、伊弉冊大神、天照大神、月読命、素戔嗚尊(須佐之男命)などの兄弟とその子孫とされる大国主大神などを祭神とする神社が多数存在することは事実である。出雲大社とともにそのいくつかを今回めぐることができた。最初の写真は、私が最も気に入っている写真で、早朝と夕刻の境内に入ったあたりから南に向いて最初の大鳥居の方向を見たものである(拡大してご覧ください)。手前が境内である。三瓶山は見えていないが右の方にあり、遠くの正面に見えているのは多分比婆山連峰かなと思うが正確ではない。その山々から霧、あるいは雲が立ち上がるようにも感じられ、この出雲の枕詞でもある“八雲立つ…”雰囲気を感じることができる。このようにきれいに見えるのは、ここが島根半島の西端に位置するからであろうか。
 2枚目の写真は、出雲大社の社殿群を集めたものである。私が今回学んだことの一つは、屋根の上にたすき掛けの形で乗っている“千木”の尖った先が上を向いているのが男性の神を祭っている証で、横を向いているのが女性の神の場合であるということである。でも、祭神が変わることがしばしばあるのですべてそうであるとは言い難いようである。
3枚目の組み写真では左上が佐太神社、右上が八重垣神社、下2枚は神魂神社(かもすじんじゃ)のものである。佐太神社には社殿が3つ並立しており、極めて珍しいとされる。祭神も12柱(神の数は柱と呼ぶようである)、猿田彦命と関係があり、出雲大社と並ぶ品格という。八重垣神社については、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで姫と住居を構えた地に須我神社が創建され、そのご幾度かの変遷を経てこの神社となったと言われる。縁結びの神とされる。下2枚は神魂神社であるが、上に述べた千木は尖った先が横に向いていて女性の神を祀っていることを示している(拡大してみていただければ分かると思います)。社伝によれば伊弉冊大神(イザナミノオオカミ)が主神である。
 4枚目の写真は、左上が上に述べた和歌を詠んだと言われるところでそのため和歌発祥の宮と言われる須我神社である。左下は素戔嗚尊(須佐之男命)がこの出雲の最後の開拓地であるからと地名にしたとされる須佐の神社である。右上は、出雲大社の海寄りを10分ほど車で走ったところにある日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)で、写真が少ないが山の傾斜を巧みに使った大変美しい神社で、その少し奥に日本で一番高いと言われるきれいな灯台がある。それが右下の写真で、建設後100年以上経つがいまだに現役である。
 最後に、出雲の神話の中心にいる素戔嗚尊が悪さをして高天原から追い払われてこの地に降り立ち、心を入れ替えたか八岐大蛇に食べられそうな娘櫛名田比売(クシナダヒメ)を救う活躍をする石見神楽を宿舎で演じられるのを観ることができた。主人公が八岐大蛇に強い酒を飲ませて酔わせ、それを太刀で退治した時その尾から出てきた剣を得た。それが後に草薙の剣と言われるものである。その5枚目の組写真は十分ではないので、その雰囲気だけでもお楽しみください。
 今回の旅の後、多くの方が書かれたレポートを読ませていただき、勉強させていただいた。そして、神話の世界と現実の姿とのすり合わせの難しさと、時にはそのロマンも感じることができた。その神話に様々な説が存在すること自体は健全であると最初に書いたが、2000年に発掘された巨大な柱も「島根県古代文化センター」で見ることができた。これは巨大な古代社殿の柱であるとも報じられたが、いまはどちらかと言えば中世1248年造営の本殿の遺構だと考えられているようである(前傾のWikipedia)。これからも建設的な議論が積み重ねられることを期待したい。
 最後に、出雲でいただいたカニとのどぐろとそばは美味しかった。

冬の出雲を旅する (1)足立美術館

  • 2017/02/05 23:40

 ひとつ前の記事(記事番号No. 259)「夢から引き出されてくる遠い昔・・・」に書いたように、私の生活圏はきわめて狭いものであった。そんなことを知ってか知らずか1月の中旬に息子が私たちを出雲の国への旅に招待してくれた。大雪が降って飛行機が飛ぶのか飛んでも空港に降りられるか不明の中、全く幸運なことに無事出雲空港に降り立つことができて、多くの楽しみを得ることができた。その中ではもちろん出雲の国つくりと関係の深い出雲大社に関わることもたくさんあるが、それは難問なので後回しにして、もっと感覚的に楽しむことができた超一流の足立美術館を訪れるチャンスを得たので、最初のブログはそれに関するものにしたい。
 私が全く知らなかった足立美術館についての基礎知識を、いつものようにWikipediaに尋ねることにした。Wikipediaは言う、
「足立美術館(あだちびじゅつかん)は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした島根県の登録博物館。運営は、公益財団法人足立美術館。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で有名。
 地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899年 - 1990年)が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したものである。質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、足立コレクションの柱となっている。大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵している。
 足立全康は裸一貫から事業を起こし、一代で大コレクションをつくりあげたが、その絵画収集にかける情熱は並外れたものであったらしく、数々の逸話が残されている。なかでも大観の名作『紅葉』と『雨霽る』(あめはる)を含む「北沢コレクション」を1979年(昭和54年)に入手した際の武勇談は有名である。
 足立美術館のもう一つの特色は、その広大な日本庭園である。庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など6つに分かれ、面積5万坪に及ぶ。全康自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたという。 専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行っていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園は国内はもとより海外でも評価が高い。 日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸である。
 米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、初回の2003年から2015年まで、13年連続で庭園日本一に選出されている。2012年のランキングは日本国内約900箇所の名所・旧跡を対象にしたもので、「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などが総合的に判断されたもので、とくに細部まで行き届いた維持管理が評価されている。2015年のランキング上位5位は、1位・足立美術館(島根県)、2位・桂離宮(京都府)、3位・山本亭(東京都)、4位・養浩館庭園(福井県)、5位・御所西京都平安ホテル(京都府)。
また、フランスの旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』や『Guide Bleu Japon』にて、それぞれ三つ星(最高評価)を獲得している。」
 上の引用は総合的な部分を省略なしに行ったもので、簡潔に書かれて無駄がなく、ありがたいことに私ごときが付け加えることがない。つまり、この引用は足立美術館についての基礎知識ではなく、その全貌である。あとは私が撮った写真でその雰囲気を少しだけでもお伝えするだけである。ただし、絵画などの貴重な展示品については写真撮影が許されないので、写真はそれ以外のものに限られる。
 当日は青空ながら雪がぱらつき、降り積もった田舎の風景の中にぽつんと立つ足立美術館の姿が1枚目の写真である。そして、私が写真にしてすばらしいと思ったのは、館内から日本庭園を眺めた時の風景で、訪れた人たちはみんなそれに見とれて動かない。その強い印象から、それを2枚目の写真として出させていただいた。もちろん、庭園それ自体の風景も素晴らしい(3枚目の写真)。その感じる理由の一つは、上の引用にもあるように『日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸である』からであろうか。借景の手法とは、中国庭園や日本庭園で見られる手法で、庭園以外の自然の山や樹木などを背景として取り込む造園法であるらしい。区写真の右上と左下の写真の遠方にはまっすぐに下り落ちる滝が見える。ただ、当たり前であるが雪が降り積もっていて雪の下緑の色彩を楽しむことはこの雪の季節には望むことはできなかった。その意味では、引用にも書かれているような多彩な庭園を存分に楽しむことはちょっと難しかったので、別の季節に訪れるのが正解であろう。なお、組写真の右下の雪が青みがかっているのは、青い空の反射だろうと思われる。
 館内を足立氏の指示通りの順序で進んでいくと、やはりその風景を“額縁”のように切り取ってみせる構造を意識して作らせたことが徐々に分かってきた。それを写真にしたのが4枚目の写真である。この額縁を使えば、参加者は様々な位置から自分の好きな風景を“絵画”として眺めることが可能になるのである。何とも楽しい設計である。もちろん、庭園と建物の融合も様々に考えられていて、その組写真を1枚最後に載せさせていただいた。
 なお、美術館の目玉である素晴らしい絵の数々については残念ながらここにお見せすることはできないが、横山大観を初めとしてすばらしい大作を存分に楽しむことができたし、素晴らしい童画も楽しめて最高であった。チャンスがあればまた訪れてみたいものである。皆さんも中国・山陰地方に旅をされるチャンスがあれば安来市の足立美術館まで是非足を延ばしていただきたい。

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