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2017年02月08日の記事は以下のとおりです。

冬の出雲を旅する (2)出雲大社とその周辺

  • 2017/02/08 17:41

 出雲大社には10年ほど前に一度訪れたことがあるが、今回のように出雲大社やその周辺の神社をいくつか訪れたことは初めてで、いろいろなものを見学し、帰ってきてからも様々な書き物を読むチャンスがあって収穫の多い旅ではあった。今回はそのあたりのことを書いておきたい。まずはその出雲大社についてのWikipediaの記述を簡単に紹介したい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE )。
 「出雲大社(いずもおおやしろ)は島根県出雲市大社町杵築東にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は『いずもおおやしろ』(歴史的仮名遣いでは『いづもおほやしろ』)であるが、一般には主に『いずもたいしゃ』と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一『大社』を名乗る神社であった。」
 また、この出雲大社の「祭神」については次のように言う。
「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。1142年(康治元年)在庁官人解状に『天下無双之大廈、国中第一之霊神』と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。」確かにこの出雲以外では11月は“神無月”であるのに対し、この出雲では“神在月”と呼ばれるようである。
 私のように自然科学を仕事としてきた人間にとっては、この出雲地方の神々の正体をどう感じたらよいのかがなかなか問題で、そう簡単に入り込むことは難しい。旅から帰って様々な資料を読んでは見ても、出雲大社の創建についても、また何を祭っているか、つまりは「祭神」についてもその移り変わりが激しいことが分かった。たとえば、平安時代前期までは大国主大神であったが、神仏習合の影響下で中世のある時期から17世紀までは八岐大蛇退治で名高い素戔嗚尊(須佐之男命)、その後、また神仏分離・廃仏毀釈政策の影響下に古事記や日本書紀の記述に沿って大国主大神に戻ったとされる(Wikipedia)。そのように歴史的にも様々な見方が挙げられていることが分かってきたが、考えようによってはそれはきわめて当然のことで、近世から現代においても、いや第二次世界大戦以降においても神話ならずとも歴史(歴史書も)は常に為政者によって都合よく主張され、書き換えられてきているからである。したがって神社・仏閣などの創建以降の歴史もそう見るのが健全であると私は思う。
 そうは言っても、この出雲地方に伊弉諾大神、伊弉冊大神、天照大神、月読命、素戔嗚尊(須佐之男命)などの兄弟とその子孫とされる大国主大神などを祭神とする神社が多数存在することは事実である。出雲大社とともにそのいくつかを今回めぐることができた。最初の写真は、私が最も気に入っている写真で、早朝と夕刻の境内に入ったあたりから南に向いて最初の大鳥居の方向を見たものである(拡大してご覧ください)。手前が境内である。三瓶山は見えていないが右の方にあり、遠くの正面に見えているのは多分比婆山連峰かなと思うが正確ではない。その山々から霧、あるいは雲が立ち上がるようにも感じられ、この出雲の枕詞でもある“八雲立つ…”雰囲気を感じることができる。このようにきれいに見えるのは、ここが島根半島の西端に位置するからであろうか。
 2枚目の写真は、出雲大社の社殿群を集めたものである。私が今回学んだことの一つは、屋根の上にたすき掛けの形で乗っている“千木”の尖った先が上を向いているのが男性の神を祭っている証で、横を向いているのが女性の神の場合であるということである。でも、祭神が変わることがしばしばあるのですべてそうであるとは言い難いようである。
3枚目の組み写真では左上が佐太神社、右上が八重垣神社、下2枚は神魂神社(かもすじんじゃ)のものである。佐太神社には社殿が3つ並立しており、極めて珍しいとされる。祭神も12柱(神の数は柱と呼ぶようである)、猿田彦命と関係があり、出雲大社と並ぶ品格という。八重垣神社については、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで姫と住居を構えた地に須我神社が創建され、そのご幾度かの変遷を経てこの神社となったと言われる。縁結びの神とされる。下2枚は神魂神社であるが、上に述べた千木は尖った先が横に向いていて女性の神を祀っていることを示している(拡大してみていただければ分かると思います)。社伝によれば伊弉冊大神(イザナミノオオカミ)が主神である。
 4枚目の写真は、左上が上に述べた和歌を詠んだと言われるところでそのため和歌発祥の宮と言われる須我神社である。左下は素戔嗚尊(須佐之男命)がこの出雲の最後の開拓地であるからと地名にしたとされる須佐の神社である。右上は、出雲大社の海寄りを10分ほど車で走ったところにある日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)で、写真が少ないが山の傾斜を巧みに使った大変美しい神社で、その少し奥に日本で一番高いと言われるきれいな灯台がある。それが右下の写真で、建設後100年以上経つがいまだに現役である。
 最後に、出雲の神話の中心にいる素戔嗚尊が悪さをして高天原から追い払われてこの地に降り立ち、心を入れ替えたか八岐大蛇に食べられそうな娘櫛名田比売(クシナダヒメ)を救う活躍をする石見神楽を宿舎で演じられるのを観ることができた。主人公が八岐大蛇に強い酒を飲ませて酔わせ、それを太刀で退治した時その尾から出てきた剣を得た。それが後に草薙の剣と言われるものである。その5枚目の組写真は十分ではないので、その雰囲気だけでもお楽しみください。
 今回の旅の後、多くの方が書かれたレポートを読ませていただき、勉強させていただいた。そして、神話の世界と現実の姿とのすり合わせの難しさと、時にはそのロマンも感じることができた。その神話に様々な説が存在すること自体は健全であると最初に書いたが、2000年に発掘された巨大な柱も「島根県古代文化センター」で見ることができた。これは巨大な古代社殿の柱であるとも報じられたが、いまはどちらかと言えば中世1248年造営の本殿の遺構だと考えられているようである(前傾のWikipedia)。これからも建設的な議論が積み重ねられることを期待したい。
 最後に、出雲でいただいたカニとのどぐろとそばは美味しかった。

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