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2013年06月の記事は以下のとおりです。

中山道の旧醒井(さめがい)宿を訪ねる

  • 2013/06/19 18:09
 以前から醒ヶ井のことは少しは知っていたし、かって高槻から原チャリで名古屋まで帰った時にはそこを通ったことをよく覚えている。しかし、そのときもマスの養鱒場は国道からはかなり山奥に入るためにそこまで入り込むことはありませんでした。今回醒ヶ井に行こうと思ったのは、美しい川の中に咲いている梅花藻の花がここしばらくテレビ画面で幾度となく流されたからでした。
 そこで早速6月の第3週に出かけました。高槻駅からはJRの新快速に乗って米原まで1時間ちょっと、そこから東海道線大垣方面への電車に乗り換えてわずか1駅で醒ヶ井に到着です。その醒ヶ井は過去に中山道の醒井宿の名残を強く残していると言われる。その醒井宿についてWikipediaは次のように言う。
 「醒井宿(さめがいしゅく、さめがいじゅく)は中山道61番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は滋賀県米原市。古代からの交通の要衝であり、『日本書紀』の日本武尊伝説に登場する「居醒泉」(いさめがい)が醒井の地名の由来であるといわれる。豊富な湧き水があったことが、旅人の休憩場所として最適の条件であったことは間違いない。今も地蔵川の清らかな流れが町を潤している。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、醒井宿の宿内家数は138軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒で宿内人口は539人であった。」
 その醒井宿の趣きを維持しながら見事に整備された旧中山道の民家沿いや、その脇の地蔵川沿いにはサボテンの花やザクロの花などが品よく並べられており、また川面に咲く白く名前のわからない花々が訪れる者の気持ちを和ませてくれる(1枚目の写真)。またその上の石橋には多くの鉢が置かれ、見事な風景であった。その中のひとつに面白いカフェがあった。それはいま評判のNHK放映の、自転車で人々の故郷を廻る火野正平の「こころ旅」で、彼ら一行がその店を訪れてそこで一息を入れた場面で知られていた。私もその放映を見ていた。そこはきれいな湧水で入れた美味しいコーヒーをわずか100円で提供してくれ、お茶はダダ、ほとんどのものは100円硬貨1枚ですむ珍しいカフェであった。私たちもそこで一服し、アイスコーヒーやわらび田楽をそれぞれ100円でいただき、その店長の心意気を楽しんだ(2枚目の写真)。なお、その組み写真には、醒ヶ井を有名にしている養鱒場(今回は行けなかった)で育てられたマスの甘露煮の写真が入れてある。それは駅の近くにあるお店で作られていたもので、帰って食べてみて実に美味しかった。皆さんに自信をもってお勧めする。
 その街道沿いには面白い銀杏の木があった。それは了徳寺というお寺の境内に建つ巨大な銀杏の木で、それが3枚目の写真である。天然記念物である珍しい銀杏の木で、できれば看板を読んでいただきたい。また、その銀杏の木についてのウェブサイトには次のように言われている。「『了徳寺のオハツキイチョウ』。幹周/4.4m、樹高/25m、樹齢/150年 イチョウの前にある『御葉附銀杏(おはつきいちょう)』の説明板では、幹周は2.5m、高さ12mです。地上には足の踏み場もないほどに銀杏(ギンナン)がいっぱい落ちていました。でも『お葉つき』をしばらく探しましたが残念ながら見あたりませんでした。オハツキイチョウとはイチョウの変種で、葉の上(葉の縁)にギンナンが実るという珍しいものです(http://www.guitar-mg.co.jp/title_buck/25/ryotokuji/ohatsuki_icho.htm )。」
 私も同様に銀杏が葉っぱに付いている写真は撮れないかと探し回ったが、まだ時期的にも早いことや、木の高さが非常に高いことから望みの写真を撮ることは梯子でもない限り容易ではなかった。やっとの思いで撮った写真を見て分かることは、葉っぱの色が普通のイチョウとはすごく濃いことと、銀杏と思われる写真も撮っては見たが、それが葉の縁から出ていることを証明するまでには至らなかった(3枚目の写真)。でも、それはそれなりに私には面白い発見ではあった。そんな葉っぱに実った銀杏をいつの日か見てみたいものである。
 最後の2枚のコラージュはお目当ての梅花藻の写真である。梅花藻【キンポウゲ科】とは、水温が年間を通して14℃前後の清水に群生する多年草の水草で、5月中旬~9月頃にかけて梅の花に似た小さな花をつける。見頃は7月中旬(梅雨明け頃)~8月下旬(http://www.biwako-visitors.jp/search/event_445.html )。
 4枚目と5枚目の写真は、異なる場所での花を撮影して組み合わせたものである。この辺りは湧水が豊富で、地元の人に伊吹山からの伏流水かと聞いてみたがどうもそうではなく、鈴鹿山系からのもののようである。すぐそばに名神高速道路が走っているが、よくぞその水脈が途切れなかったものだと感心した。同様の湧水のことは水が命のサントリー山崎蒸留所についてもいつも感じるが、あそこの水脈もよくぞ守られたものだと思う。
 そんなことはともかく、本当にきれいで希少生物であるハリヨやシラハエなどが生息している地蔵川には沢山の梅花藻の花が咲いていた。まだ満開ではないが(満開は7月~8月)、奇麗な水から出て、また水中に咲いている白い小さな花は全く美しい。ひとつひとつというよりは全体としての美しさを感じるので、あまり拡大した写真ではないが、是非皆さんは醒ヶ井を訪れてお楽しみいただきたいと思う。花はこれからである。

二つの美術展、ひとつの恐竜展のメモ

  • 2013/06/15 14:46

 私は芸術的センスのない男だが、でもいいものはできるだけ沢山見ておきたいと思い、そのためしばしば美術展を観に行く。まずはリヒテンシュタイン侯国の「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展についてメモっておこう。
 リヒテンシュタイン公国(あるいは侯国)は西ヨーロッパに位置し、スイスとオーストリアに囲まれた小国で人口わずか3万人強の立憲君主制の国である。その国のコレクションを日本で展示する主催者の朝日新聞のウェブサイトは次のように言う。
 「オーストリアとスイスの間にあるリヒテンシュタイン侯国。同国の国家元首であるリヒテンシュタイン侯爵家は、優れた美術品収集こそが一族の栄誉との家訓のもと、500年以上にわたってヨーロッパ美術の名品を収集してきました。その数は3万点に及び、英国王室に次ぐ世界最大級の個人コレクションといわれています。本展では同コレクションから名品を選りすぐり、日本で初めて公開します。世界屈指のルーベンス・コレクションからは、愛娘を描いた《クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像》などが来日。ラファエッロ、クラナッハ、レンブラント、ヴァン・ダイクをはじめとする巨匠たちの名画や、華麗な工芸品が一堂に並びます。」
 その「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」を用いたのが展覧会のチケットである(1枚目の写真の右部分)。展示品は絵と工芸品の両方がある珍しい展示で、私の目から見ればどれも素晴らしいものばかりであった。その中でも私を驚かせたのはルーベンスの「果物籠を持つサテュロスと召使の娘」(1枚目の写真の左部分)に見る光り輝くブドウの描写である。絵の描けない私にしてみれば、どうやればあんな絵が描けるのだろうとただただ不思議である。その超絶技巧とは別に私を感激させたのはフランス・ハルスの「男の肖像」の、何とも言えない、しかし重苦しくはなく、ただただ堂々とした圧倒的な存在感のある肖像画である(2枚目の写真)。とにかくどれをとっても素晴らしい作品ばかりであった。
 二つ目の美術展は「ボストン美術館 日本美術の至宝」展である。大阪市立美術館のウェブサイトは次のように言う。
「東洋美術の殿堂と称されるアメリカのボストン美術館は、世界随一の在外日本美術コレクションを誇り、国内でいうところの国宝・重要文化財級の優品も数多く所蔵しています。そのコレクションは、明治時代に教鞭を執るために来日し、後にボストン美術館日本美術部長となったフェノロサ(1853-1908)や、彼とともに東京美術学校(現東京藝術大学)設立に尽力し、後にボストン美術館にも在籍した岡倉天心(1863-1913)などによって形成されたものです。本展では、フェノロサ、日本美術収集家であったビゲロー(1850-1926)の優れたコレクションを含む日本美術の名品をこれまでにないスケールで紹介します。」
 この展覧会では残念ながら気に入った絵のはがきを買ってこなかったために皆さんにお見せすることはできないが、それはそれは素晴らしいものが山のようにありました。保存が本当に素晴らしくユーモアも溢れた「吉備大臣入唐絵巻」、長谷川等伯の「龍虎図屏風」、思い切ってグリーンを多用した尾形光琳の「松島図屏風」、曽我蕭白の「雲龍図」(3枚目の写真のチケットに部分的に見える)や「鷹図」など圧倒的であった。前回に長谷川等伯について書いた時にも思ったが(http://www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=19 )、このような作品群が海外に流失したのは廃仏毀釈などの影響が大であろうが、それでも理解することは難しい。また、印象派の画家の多くを知ってはいても、我が国にいた多くの多才な画家や仏像師などの存在を私たちはそれほど知ることなく過ごしてきたことは異常でもある。丁度、敗戦後に私たちを含めてそれ以降の世代が近代史の教育を全く受けてこなかったことと同様で、何かが欠けているような気がして嫌な気分である。チャンスがあれば今後もできるだけ観ておきたいと思う。
 最後は大阪市自然史博物館における「発掘!モンゴル恐竜化石展」である(4枚目の写真)。この博物館では前回巨大な海獣展を観たが、今回は恐竜である。どんな種類のどんな大きさの恐竜がモンゴルのゴビ砂漠(もとは必ずしも砂漠ではなかった)を跋扈(ばっこ)していたかを、目の前の様々な化石から想像することができて楽しかった。その恐ろしい恐竜の姿に比べてその頃からひそかに始まっていたちっぽけな哺乳類の姿は痛々しかった。しかし、いまや立場は逆転したのである。その原動力はいまだ不明だが、それが“進化”である。最後の写真は巨大な骨格化石の恐竜であるが、その名前はタルボサウルス。写真は一緒に恐竜展を楽しんだ菅原氏からいただいたもので、ここに感謝の意を表したい。なお、モンゴルでのこのような発掘作業に大金を投じてきた林原のメセナ事業に大いなる拍手を送りたい。

奈良“西ノ京”を歩く

  • 2013/06/13 09:36
 梅雨入りと言われながらほとんど雨の降らない週末の6月8日、いつものように山の神先導で近鉄西ノ京駅そばにあり、世界文化遺産に登録されている唐招提寺と薬師寺を訪れることにした。京都駅から近鉄に乗り換えて確か50分弱で西ノ京駅に着き、そこから徒歩で10分も歩けば初めて見る唐招提寺があった。唐招提寺と言えば鑑真和上とつながるが相変わらずその内容は空白で、いつものようにWikipediaにすがるしかなかった。Wikipediaは唐招提寺と鑑真について次のように言う。
 「唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有する。唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
 『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の『招提』は、サンスクリット由来の中国語で、元来は『四方』『広い』などの意味を表す語であったが、『寺』『院』『精舎』『蘭若』などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、『唐僧鑑真和上のための寺』という意味合いである。
 鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。
 鑑真は仏教者に戒律を授ける『導師』『伝戒の師』として日本に招請された。『戒律』とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき『規範』『きまり』を意味し、一般の仏教信者に授ける『菩薩戒』と、正式の僧に授ける『具足戒』とがある。出家者が正式の僧となるためには、『戒壇』という場で、『三師七証』という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、『具足戒』を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。
 こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。
 遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。」
 こうして来日した鑑真は東大寺での5年間に戒壇を整備し、後にこの唐招提寺を建立したとされる(1枚目の写真)。初めて見る唐招提寺金堂は簡素なたたずまいで、しかしおきな柱が立ち並ぶちょっと変わった建物で、パンフによればギリシャの建築様式がシルクロードを通って日本まで伝来した様式であるという。そして巨大な廬舎那仏坐像、薬師如来立像そして十一面千手観音菩薩立像が観る者を圧倒していた。当日は鑑真和上坐像が特別公開されていたのでその参拝に御影堂という建物にむかった。これも簡素な建物でそこに鑑真和上坐像が置かれており、それを参拝させていただいた。そこには東山魁夷が描いた襖絵などがあり、それも鑑賞することができた。それにしても、5回の渡航失敗にめげず、6度目にやっと来日した鑑真の仏教伝来にかける執念にはただただ驚かされる。私の友人に10度のベトナム脱出を試みて失敗し、やっと11度目に渡米を果たした家族がいる。突き動かすものが違うとは思うが、ひとはそこまでできるのだと知ることは大切なことであろうと思う。

 唐招提寺を出て10分も歩けば薬師寺である。私は二度目であるが、調べてみると面白いことがいろいろある。しかし、ブログとしては長すぎるのでほどほどにしたい。薬師寺についてのWikipediaの記述を短く拾うと次のようになる。
 「薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇、道昭、義淵である。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は山田法胤である(2009年8月着任)。
 薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。」とある。
 2枚目の写真は、世界文化遺産登録の印と與楽門とそれを通してみる大講堂とそこに納められている薬師如来の台座である。その台座の四面には白虎などの守り神が彫られている。3枚目は金堂と西塔で、いずれも新しい建物である。実は平城京に移転された薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の兵火で多くの建物を失った。創建当時から残っているのは東塔だけだと言われ、現在は7年かかりでの解体修理が行われている。それが見られるのは2018年である。
 4枚目の写真の上部分の左に高い囲いに囲まれた建物がある。それが東塔を収めているものである。下の部分はたまたま修学旅行の中学生に若いお坊さんが薬師寺についての講義をしているときの写真である。このお坊さんは話上手で、ユーモアを交えて軽妙に生徒に語りかけ、我々のような一般の人もたくさんそれに聞きほれていた。ここまでに薬師寺の本尊・薬師如来などについては写真を撮るわけにはいかないので何も書いてないが、言うまでもなく、その姿は何も言う必要がないほど美しい。この像の説明をしているのが写真の下部分である。彼曰く、薬師如来はお医者さん、日光菩薩は昼間に働く看護師さんで月光菩薩は夜寝ずに働く看護師さん。“皆さん寝ずに私たちの面倒を見てくれているんですよ”との言葉はなかなか説得力があった。さらに“塔”という字は土と草に出会うところでお墓、日本の“衣裳”はツー・ピースを表しているなど沢山面白い話を聞かせていただいた。感謝の一言であった。
 最後にこの二つのお寺ですごく気になったものがあった。アルバイトのお姉さんに聞くと、それは“シビ”であるという。ネットによれば「鴟尾(シビ)瓦と言います。棟の両端を反り上げる後漢の頃の様式が装飾として変化したもので、その後、鯱(シャチホコ)に変化します。恐らく、金色に塗られるのかな?金箔?」(http://blogs.yahoo.co.jp/arc3391/50388530.html )。それが最後の写真で、左上と右下が唐招提寺のもので、右上と左下のが薬師寺のものである。

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