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2015年11月の記事は以下のとおりです。

断崖、絶壁! 神戸マラソン2015

  • 2015/11/18 17:03

 大袈裟なタイトルをと感じられる方も多いと思いますが、今回のマラソンに臨む気持ちはそんな切羽詰まったものでした。2013年の大阪マラソンでの4時間15分40秒以来何度もふくらはぎの故障を起こし、2014年の長野マラソンでは4時間48分04秒との不本意な結果に終わり、またせっかく当選した各地のレースをキャンセルすることが多く、今年76歳になるという加齢の影響も含めてのフィジカルと故障を起こさない走法の問題を解決しなければ先がないことは明白でした。
 そんな難問の解決に向けての努力の結果がある程度実っての今回の神戸マラソン2015の翌朝、ぐっすり眠れて目覚めた6時20分頃はちょうど日の出の時間でした。宿泊していた大阪・高槻のホテルの窓からの朝日は見事で、思わず小さなデジカメで撮ったのが1枚目の写真です。完全な寝不足でマラソン当日撮る気分でなかった神戸市東遊園地のスタート会場(有森裕子氏や藤原紀香氏もいた)の写真に代えて出させていただきました。
 私はこの1月ほぼ25年住み慣れた大阪から、子供たちの活動場所に近いこの神奈川に転居しました。その引越し騒動の中でのトレーニングの際、またまたふくらはぎの肉離れを起こし、京都マラソンをキャンセルしました。幸い子供たちもお世話になっていた横浜市の「佐藤治療院(院長 佐藤千可生氏)」の治療を受けることができて早期に回復しましたが、しかしトレーニング不足は否めず、迎えた4月の長野マラソンも25キロでリタイアに追い込まれてしまいました。
 その後新しいこの地にもやっと慣れ、一応順調にトレーニングもこなしながら夏の「座間坂道マラソン(10キロ)」を孫たちの応援で楽しみ、そして神戸マラソンの前哨戦と考えていた荒川河川敷での「タートルマラソン(ハーフ)」に出場しました。しかし、それ程無理をして走っていなかったはずにもかかわらず早々にふくらはぎに違和感を感じ、神戸のことも考え14キロでリタイアしてしまいました。
 この時点で、ふくらはぎの回復には自分の経験から時間がかかると考え、神戸マラソン参加はほぼないと腹をくくりました。でも、ここから佐藤先生からの密度の濃い指導を受けることになりました。いわゆるマッサージによる治療に併せて鍼による治療も受けるとともに、端々に走法の議論もさせていただきました。
 私が走り始めて20年以上経ち、運動生理学やスポーツマッサージ師の先生たちも含めて走り方の議論をするチャンスもかなりありました(たとえば、「ターンオーバーを感じて走る」 雑誌「ランナーズ」12月号、2001)。私がひたすら思っていたことは、「真下への着地脚でキックすることなく、ひたすらそれに体全体が乗り込むこと」だったのです。しかし、その話をほかの仲間にする時によく使った例えは、子供のころを思い出して、「幅1-2メートルの小川を飛び越えるときに竹棒を持って走ってきてそれを水の中に立てて棒高跳びのように飛び越す」というものでした。でも、よくよく考えると、真下着地とは言いながら着地点は無意識のうちに“重心より前”にあったようです。これがそもそもの間違いだったのかもしれません。歩幅を短くして走ると、難しいことを考えなくとも自然と着地脚に乗り込むことができるのが分かってきました。
 佐藤先生は故障回復から神戸マラソンスタートまでの策として次のような内容の助言をくださいました。「下腿の障害が多い走りの時は、あまり歩幅を広げないようにし、(中略) とりあえずリスクを負わない走り、つまりは歩幅を広げない走りでスタートまで向かってみてはどうでしょうか。」そして先生は私に、積極的・攻撃的なリハビリをするように仕向けてくれました。つまりは軽い違和感が残っていてもスピードを上げず(当初はキロ9-10分)歩幅を広げない走りで徐々に距離を伸ばし、でも15キロ・20キロなどとは伸ばさずにスタートラインに立つ、というものでした。
 私はこの方針に沿ってトレーニングを行い、徐々にスピードをあげ、距離を伸ばしましたが、スピードはキロ6分弱距離は12キロ以上走ることありませんでした。いわば突貫工事でした。それ程今回はこのマラソンに今後の私のランナーとしての命がかかっていたのです。私は定年後、新しい目標をそれまでの教育・研究から一転して、好きな野球ではないがマラソンを通して自分の肉体の限界にチャレンジすると決めていました。その方向に沿って病気の治療法も走れるような方法を選ぶと決意していました。
 あまりに緊張が過ぎたか、あるいは久しぶりの高槻に興奮したかはともかく、本番前夜は全く眠れず多分ほとんどまともに眠ることはなかったように思いました。でも、一晩くらい寝なくても何とかなると思い直し、朝4時過ぎには起き、いつもは炭水化物をたらふく食べるにもかかわらず今回は買ってあったおにぎりを2個しか食べることができませんでした。高槻から1時間かけての神戸・三宮の東遊園地では雨はほぼ止んでいましたが、気温が18.5度と高いのが気がかりでした。前日訪れた時東遊園地にある「阪神淡路大震災 慰霊と復興のモニュメント」を訪れていましたが、スタート前にもそのそばに行き、落ち着こうとしました。勿論、まだ何が待っているかはわかりませんでした。一筋縄ではいかないことは想像していました。でも、行けるところまでベストを尽くすと決めていました。
 キロ6分半ほどで行くと決めてスタートしました。比較的順調に余裕を持って走ることができましたが、しかし、7キロ過ぎあたりから故障していた左ふくらはぎに何か違和感が出てきたことを感じていました。でも、これまで3回ほど出場した仲間たちの写真を撮りに10キロ地点の須磨駅前に来ていたので、その場所がランナーからはどう見えるのだろうと関心を持っていたのでしばらくはそれほどはスピードを落とさずに走っていました。しかし、気温も上がり折り返し点(明石海峡大橋近く)が近づいてくるとふくらはぎが少し厳しくなってきたこともあり、よりスピードを落として安全運転を試みました。そして、佐藤さんが着地のことをしばしば言われることを考え、足裏のどの地点で着地するかを様々に工夫し、安全なポイントや安定したポイントの組み合わせを探りながら走り続けました。走り続けることだけが目標で、タイムなどはもうどうでもよくなったいたのです。
 30キロ地点まで到達できればあとは這ってでもゴールすると決めていたところまでやってきて、一段と疲労が激しくなってはきたが、幸いなことにふくらはぎは安定し、徐々にスピードは落ちながらもより安定した着地を探しながら最後の8キロが待っているポートアイランドに入ってゆくことになりました。しかしそれまでの神戸市民の応援は圧倒的なものでした。長野マラソンの応援も素晴らしいのですが、神戸市民の必死の応援には感動しました。ポートアイランドへの長い坂道を登ってもスピードの落ちている私の脚ではなかなかゴールが遠かったのにはまいりました。私たちは自動車道路を走ったために一般市民はいなかったのですが、こんどは黄色いウェアを着た若い男女のボランティアの皆さんの若々しい声での必死の応援にまた胸を打たれました。そしてほぼあと1キロの直線道路ではランナー全てを応援してくれる、有森裕子のハイタッチと“待ってたわよ~、お帰りなさい”の言葉を含めてのすさまじい応援に、いつものマラソン以上に涙が出ました。そして、給水所以外では一度も歩くことなく、最後は歩く若い女性に抜かれるような速度になっても走り続けることができました。ストライドは70cmまで落ちていました。そしてゴール後、フィニッシャーズタオルとメダルを戴いて、座り込んで着替えた後立ち上がるのがなんと苦しかったことでしょうか!しかし心地よかったことも確かでした。一晩くらい寝られなくても42.195㎞何とかなるもんだと思いました。5時間30分35秒で、目標より1時間遅いゴールでした。でも今回のレースではいろんなことが克服できてきたことから満点以上の150点を自分にあげたいと思います。
 レースの2日後佐藤治療院の治療を受けました。違和感が発生してから35キロ走ったふくらはぎは、もちろん違和感はありますが、痛いと感じることはありませんでした。先生の診断でも、それ程はっきりした患部を見つけられないとのことでした。違和感が発生した後は意識的に様々な方法で集中力を高めて短いストライドでのピッチ走法に徹したことで、患部の悪化を防ぎ、ひょっとしたら種々の筋のバランスがとれて治癒の方向に向けたのかもしれないと感じています。佐藤先生には、「神戸でLSDをやったのかもしれませんね」と言われました。その通りだと思います。でも、大腿全面が痛くて階段を下りるのはいまだに苦しいのも事実です。

 このブログでは写真の説明をここでいたします。一枚目は文中に書きました。2枚目はランネットによる「ランナーズアップデート」のデータです。ラップタイムはほぼ20㎞以降に悪くなっています。これはより安定させるためにスピードダウンを余儀なくされたためです。さらに30キロ以降は疲労困憊そのものです。3枚目は、Garmin Forerunner 225というGPS付ストップウォッチによるデータの収集です。ピンクは心拍数、黄色は1キロ当たりのラップタイム(分)、緑色は標高(m)、横軸は距離(㎞)。心拍数はかなり安定し、23キロあたりで最高の165ほどありますが、スピードが落ちると心拍数も下がります。黄色のラップタイムですが、じりじりと上がってゆく(速度が落ちる)のがよくわかりますし、給水所などで止まる、あるいは歩いて水を飲んだり体にかける時間が計算されて一時的にラップタイムが大きく鋭いピークとなります。なお、ゴール後に時計をすぐに止められなかったので、42キロ過ぎからあとは無効です。最後の写真は、友人の畑野勝義氏が私のゴールシーンのテレビ画面をカメラで撮ってくれた写真です。右に見える白い帽子とシャツ姿が私で、疲れると向かって右に傾く私の癖がよく表れていてほぼフラフラです。なお、写真はクリックで拡大してご覧ください。

追記1:今回のレースに大きな影響を与えたであろうもう一つの問題点、つまり私が受けている前立腺がん対策の男性ホルモン抑制剤の投与についても書く予定であったが、長文になりすぎることから割愛した。また別の機会に議論したい。 2015.11.19
追記2:写真を1枚購入したのでそれを5枚目として掲載した。 2016.01.14

ラグビーW杯イングランド大会を牽引した日本のラガーマンに感謝!

  • 2015/11/05 16:53

 数日前にW杯イングランド大会はニュージーランドのこの大会初めての2連覇で終わってしまった。また、大健闘した日本チームのW杯も10月11日に終わってしまっていた。しかし、あまりの衝撃に書く言葉もなく、ただ唖然とする日々が続いていた。しかし、このまま何も書かずに終えるわけにはいかないという思いがある一方で、書くべき中身がないのである。だから、それをただあからさまにするだけになるが、とにかく感謝の言葉を述べておきたい。
 でも、私が完全な“にわかラグビーファン”の故に書くべき言葉もない、というのではないことだけは否定したく、少し言い訳をさせていただきたい。実は最初の写真は、私の狭い引き出しの中で60年近くも捨てられることもなく大事に守られてきたものの写真である。それは昭和33年2-3月にかけて日本を訪問した、今回のW杯で2連覇したニュージーランドのラグビーチーム・オールブラックスを記念して売り出された靴べらとそれを入れてあった箱である。靴べらの裏には私の字で「1958.3.5 西宮球技場 All Blacks x All K」と書かれており、オールブラックスとオール関西チームが対戦したものと思われる。また箱には、日本の桜とニュージーランドのギンシダ(シルバー・ファーン)のチームロゴがあしらわれている。丁度高校を卒業した年の3月にわざわざ西宮まで観戦に行ったのであろう。その後私は名古屋の瑞穂球技場でもオールブラックスの試合を観戦した記憶がある。
 私は野球少年であったがなぜかラグビーが好きで、テレビで大学や実業団の試合をかじりつくようにして観てきた記憶がある。そして、仕事の関係で大阪に移ってからは極寒の正月、しばしば大阪の花園ラグビー場に出向いてラグビーの高校選手権の準決勝や決勝戦を、また京都の宝が池球技場などで関西大学ラグビー戦を観戦してきた。そんな生の試合の観戦を通じで、野球やサッカーとは違う、見ていると身体がよじれてこわばってゆくような緊迫した感覚を味わうことができた。ラグビーのルールが非常に分かりにくいことや、集中力を切らしてはプレーが分からなくなることもあり、身じろぎもせずに見続けてしまうのである。
 そんな感覚を再び味わうことができたのが今回のW杯イングランド大会であった。9月19日、日本は最初の相手である南アフリカと対戦した。過去2度の優勝経験がありランキング3位のチームが相手で、普通に考えれば誰もが勝てる相手とは思ってはいなかったであろう。私もそのうちの一人で、でも善戦はするかもしれないので夜中であることもあり前半だけでも見てみようとテレビを見続けた。案の定、戦前エディ・ジョーンズHCが度々述べていた通り、強くて巧みなスクラム、早くて正確なパスワーク、驚くべきモール、きわめて少ないファール、そして何よりも素晴らしい闘志と確実なタックルを見せて前半を10-12で折り返した。私は眠かったこともあったが、後半はかなり苦しめられるだろうと早めに寝ることにした。
 朝起きて驚いた。まさかと思った日本の劇的な勝利だった。この勝利に対して国内はもとより世界中で、「史上最大の番狂わせ」と報じられた。この言葉がすべてを表していた。その後の3試合はすべて生中継を見続けた。中3日で戦ったスコットランド戦は後半に足が止まって惨敗となったが、十分な回復のための時間が与えられた対サモア戦と対アメリカ戦は快勝であった。「ラグビーに奇跡はない」と言われるとおり、なんとグループリーグで3勝を挙げたのであるが、勝ち点の積上げが足りず決勝トーナメントに進めるベスト8にはわずかに足りなかった。
 イギリスのメディアは、スタンドの大観衆を味方に取り込むほどの魅力的なゲームを展開して3勝を挙げた日本を、決勝トーナメントに入れられなかったのはこの大会の大きな損失だと嘆き悲しんだという。それほどまでに世界のラグビー界に衝撃を起こした日本チーム、なんと素晴らしいチームになってくれたのであろうか。ただただありがとうと言う感謝の言葉しかない。
 2019年のW杯は日本で行われる。それに立ち向かうにはまたとない良い雰囲気を作ってくれたものである。でも、南アフリカに去ったエディ・ジョーンズHCは、もっときちんとした若い選手の育成システムを作らなければベスト8への道は遠いと厳しい指摘をした。しかしもっと難題の、日本のあらゆるスポーツ文化に対しての批判があった。それは、“日本でのトレーニングは、選手に規律を守らせ、従順にするためにだけ行われている。これでは世界に通用する若い選手は育たない”との指摘であった。私はこの批判に賛同する。エディ・ジョーンズHCの置き土産を十分に生かして素晴らしい2019年のW杯日本大会にしていただきたいものである。
 昨日、今回のW杯で大活躍したヤマハ発動機所属の五郎丸歩選手は来年の夏から夏だけ開かれるスーパーラグビー(SR)にオーストラリアのチームRedsの一員として参加すると発表された。海外で活躍する日本チームのメンバーはこれで7名?になると思われ、屈強な外国人と対峙する経験を持つメンバーが多くなるのは大歓迎である。今後のチームのレベルアップを期待したい。
 なお、2枚目以降の写真は、10月13日の読売新聞朝刊記事の写真である。クリックで拡大してご覧ください。

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