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2012年07月の記事は以下のとおりです。

「夜中に何度も起きる」ことと「睡眠の質」との関係

  • 2012/07/17 22:54

 私は60歳台をとっくに通り過ぎて後期高齢者?の領域に近づいている。それだけに時々どこかに病気や、またマラソンなどを走り続ける私の身体には故障や違和感が発生してくる。すでに何度もHPやブログに書いてきたように、それなりのきちっとした病気である前立腺がんや、交感神経活性化時に発生する頻拍(マラソンを走っているときなどに発生する)についてはそれなりのきちんとした治療を受け、大事に至らない内にほぼ終結させた。また、主として走ることに由来した故障については30年来治療を受けてきた五体治療院(愛知県小牧市)のスポーツマッサージ師にお願いしてバランスを取り続けていただいており、大きな故障になることをことごとく回避してきた。
 それ以外の身体の違和感については私は自分なりの解決策を探し出してそれを試み、それなりに効果をあげてきている。枕の調子が悪いと思えばNHKの「あさイチ」からヒントを得て改善し、軽い腰痛が1-2年続いた時には布団の下にタオルケットなどを敷いて高さを微妙に調節して直してきた(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/58 )。そんなこともあって私は案外自己暗示にかかりやすい体質かもしれないと感じている。
 今回の問題は男性高齢者一般の問題である。いや、一般の問題だと思ってきた。こう言えば誰しも察しがつくであろうが、要するに「夜中に何度もトイレに起きる」という類の問題である。私はそんなことを問題だと感じたこともなかったが、ここ1,2年それを感じることがしばしば出てきていた。つまりこうゆうことである。私は日常的にジムやロードで週に4-5回は走る。それもおおよそ1回につき10キロ前後で最近ではもっと距離を伸ばして走ることが多い。その結果、体重を一度に1.5-2キログラム減らし、その分ほとんど汗を出すことになる。そんな日は夜中に起きることはなく、起きても1回である。
 ところが疲れを取るために走らなかったり、あるいは走っても短い距離であったりで大した汗をかかなかった日の夜には、時々何回か起こされることがあった。そこで走っても走らなくても同じように飲み食いしている私が考えたことは、走らなかった日は走った日に比べてきっと1リットル以上体液が多いことから、それの排泄のために夜起こされるのかもしれないということであったが、まったく起こされないときがあるため原因は不明であった。加齢により多かれ少なかれ出てくる前立腺肥大もその原因の一つかもしれないとも思っていた。
 それについていろいろと考えているときに二つの出来事があった。一つは、前立腺がんの治療後の経過観察の時に私を見てくださっている医師に上のことについて尋ねたところ、最もありそうな原因は“眠りの質”(眠りの深さ)の問題ではないかとの指摘であった。もうひとつの出来事は、私が仕事をさせていただいている看護専門学校の講義で内分泌の章を話していて気が付いたことである。つまり、私たちの身体には生物時計があり、それを概日リズム(サーカディアンリズム)といっておおよその1日を決めている。しかしそれは原則としておよそ25時間ほどでそれを24時間に調整するのは目からの情報である明暗のリズムであったり、私たちの日常活動なのである。このようなことは当然私は知ってはいたが、実感していたわけではなかったらしい。
 そんなリズムを分かりやすく描いた絵と文章を鳥取大学医学部鰤岡直人準教授のウェブサイトから引用させていただいた(http://ww7.enjoy.ne.jp/~nburioka/clock_gene.html )(写真1)。
「ほ乳類の生命現象において,多くの概日リズム(サーカディアンリズム)が認められる.ヒトでは,呼吸機能,血圧,体温の日内変動,コルチゾール,メラトニン分泌,睡眠・覚醒などが明確な概日リズムを示す代表的な生理現象であり,約24時間の周期性が認められる.時計遺伝子はこれらの重要な生理学的,行動学的,概日リズムを規定している.哺乳類における概日リズムの中枢は,視交叉上核 (suprachiasmatic nucleus: SCN) に存在することが明らかになっており,末梢組織のリズムを同調させている.さらに,時計遺伝子は SCN においてのみでなく,腎臓,肝臓,心臓,皮膚,口腔粘膜,末梢血単核球などの末梢組織においても同様の遺伝子群が発現・発振していることが明らかにされている。」
 つまり、私たちは生物時計機構に従って眠るのと活動の結果として眠ることを含めて24時間リズムを刻んでいるのである。その巧妙なリズムをきっちりと制御しているもののひとつが、目から入ってくる光である(図参照)。しかし加齢によって眠りを誘導するメラトニンの量は減少し、眠りの深さが浅くなりがちであり、したがって寝室の明るさなどで眠りが容易に攪乱されることが考えられる。また、そのリズムに従って尿量も制御されていて夜間は少なくなるようになっているが、そのリズムが攪乱されれば図に書かれている「バゾプレッシン(バソプレッシン)」という尿産生を抑える抗利尿ホルモンのばらつきも当然予想されることになる。
 こんなことを考えた私は、以前から気になっていたことであるが、寝室をより暗くすることにしたのである。実は私が寝ている場所の左側のガラス戸には障子戸がありカーテンがあったが、なぜかこれまでほとんどそのカーテンを閉めたことがなく、夜目が覚めたときに外の街灯の明るさがかなり気になっていたのである。そこで先週からそのカーテンを閉めることにして試したのである。驚いたことに、しっかり走った日やまったく走らなかった日とは関係なく、夜中に全く起きることがなくなったのである。ランニングをしなかった日の夜は疲れがない分眠りが浅く、容易に部屋の明るさにリズムが攪乱されていたのであろうか。私にとっては素晴らしい実験になった。
 私はこれまで部屋の中が少しくらい明るくても眠りに入ることにそれほど問題を感じたことはなかった。しかし加齢とともに事情はじりじりと変わりつつあったのであろうか。私が推測するところ、夜中の頻尿に悩まされている方々の中には、寝室の暗さを徹底することで大いに頻尿を改善できる方が多いのではないかと思っている。先日ある知人に聞いたところ、部屋が真っ暗でないと全く眠ることができないと教えてくれた。

「ヒ素生物」と「ヒッグス粒子」???

  • 2012/07/11 10:13

 1枚目の写真にあるように、昨日の読売新聞朝刊に興味深い記事が載っていた。それが1枚目の写真である。タイトルは「ヒ素で生きる細菌 否定」で、2010年12月にNASAがかなり大々的に発表した内容を米科学誌サイエンスが掲載したが、今回はそれに対する反論を同科学誌サイエンス(電子版)に掲載したようである。最初の発表に対して私は2010年12月にこのブログに次のように書いた(http://www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=114 )。
 「これまで私たちが知っている地球上の生き物には、炭素、水素、窒素、酸素、リン、硫黄の6元素が必須であった。今回の発見はこの考えを覆すもので、リンの代わりにヒ素があれば生きられる生き物がいるということである。それを発見したのは、カリフォルニア州にあるNASAの合衆国地質研究所所属のFelisa Wolfe-Simon博士らのグループで、・・・モノ湖の泥から発見した細菌類の中にそんな生き物が潜んでいたのである。右側はその研究に主たる役割を果たしたWolfe-Simon博士である(Science, Vol. 330, 1302, 2010)。モノ湖は高い塩分濃度で知られ、しかもヒ素が高濃度で含まれている。
 彼女たちはその泥から分離した細菌をリン元素を含まず、その代りにヒ素を加えた培養液で培養し続けても、遅い速度ではあるが分裂・増殖し続ける細菌が存在することを発見した。そして、通常ならリン元素を確実に含んでいるDNAやタンパク質などを特殊な方法で調べたところ、リン元素は存在せず、ヒ素元素が含まれていることを証明した。いまのところ、ヒ素元素が普通ならリン元素が存在する化合物に同様の化学結合で存在しているかどうかの証明はないが、多分リンの代役をしているのだろうと推測されている。」
 今回の発表について私はまだ詳細を読んではいないが、新聞記事によれば微量のリンが存在しなければ成長できないと報告しているという。何が真実であるかは今後の展開を待たねばならないが、このような論争が公に行われるのは正常である。発見の真偽はともかく、慎重に計画された実験で慎重に出される大胆な仮説は科学を大いに進歩させる原動力になるもので、最終的な結果を恐れるべきではないと私は思っている。
 暫く前に、ニュートンの相対性原理に反して光速を超える速度で飛ぶ素粒子が存在するとの大胆な実験結果が発表されたが、残念ながらその結果は間違っていたとして訂正された。この7月4日には欧州合同原子核研究機構(CERN)は「ヒッグス粒子とみられる新粒子を発見した」と発表した(2枚目の写真)。このことを説明する力は私にはないが、おおよそのことを言えばその粒子は、ノーベル賞受賞者の南部陽一郎氏らの理論を基にして英国物理学者のピーター・ヒッグス氏らが提唱したもので、素粒子に質量を与える重要な粒子と考えられてきた。今回その探索が始まってから40年でやっとその存在の端緒をつかんだとの発表であった。そして当然のようにノーベル賞に値するなどの評論が見られた。
 このような宇宙創成に関わるような課題が大量の資金の投入を受け、また生命誕生の根幹にかかわるような課題が地味ではあるが同様にマスメディアなどで大いに取り上げられることは別に悪いことではない。ただ、その取り上げ方は純粋に科学的営為に対する評価であるばかりではなく、どちらかといえばノーベル賞などと関連して国威発揚に大いに関係しているように思われて気になる。
 気になるといえば私の場合にはもっとこじんまりしていて、通常そのようなところまで問題点が煮詰まらず、未だ個々の研究者の好奇心の領域にとどまっているような課題に対しての話で、それを言えば現在の状況は悲観的である。そのような状況の課題で研究費を求めようとしても、それが実際にこの一般社会で“なんの役に立つのか”との見通しを、その見通しがなくとも書かねばならないのは悲劇である。生物・医学系で言えば、しばし前までは誰しもが“がん”について一言居士にならざるを得なかったのである。いまではさしずめ“再生医療”とでも書けばよいのであろうか。
 一昔前まではそんな訳の分からぬ研究こそが“まともな”研究者の、また国立大学の研究者のやるべきこととされてきたように思う。私が退職した2003年頃から国立大学は“独立行政法人”となり、研究費は自分で稼ぐものとされ始めた。いまは上に述べたようなビッグプロジェクトにお金は出ても、なんの役に立つか分からぬ研究には研究費が供給されない、私から言えば不遇の時代である。この傾向は特に日本では著しい。だから、日本からではなくアメリカから「ヒ素生物」の話題が出てくるのである。これではまともな研究者は日本では育たなくなると危惧するのは私だけではあるまい。みんな若い時から研究費のことばかり考えて研究をするのである。いつの間にか基礎研究者までも金の亡者になってしまっているといっても過言ではあるまい。科学とはそんなものだったのだろうか?このことについてマスメディアはどんな考えを持っているのだろうか。 古いかもしれないが、私にとって科学とは、また仕事とはそれがいかなるものであれ“自分”を育てるためのものだと思っている。職業に貴賤なしとはよく言ったものである。

「『あのピンクの人!』マナー違反の観客を注意 石川遼の思いとは」に想う

  • 2012/07/09 12:10

 今日ネットを見ていたら面白い記事が目に付いた。この記事は読んでいただければ分かるのだが、要するにゴルフではプレイヤーがスイングしてボールを打つ時には、観客は静寂にしてプレイヤーの集中力を妨げないようにしてほしい、と石川遼がギャラリーに注意したと書かれている。そんなことは当たり前のことだと誰しも思うのだが、なぜにゴルフだけにそんなことが言われるのであろうか。いや、ゴルフだけではない。昨夜放映されていたウィンブルドンでの大会でも、観客がサーブの時に騒がしいと審判が"Quiet please!"と声をかけて制止する。それによって観客はサーブの鋭い音、さまざまな種類のショットの音とそれに伴って動く選手の多彩な動きを楽しむことができる。
 これらに比べて日本の野球の場合はどうであろうか。特に高校野球から始まってプロ野球まで日本の野球の応援は言葉もないくらいひどい。私は野球をやるのも観るのも大好きだが、球場全体が絶え間ない騒音に包まれていて、野球を楽しむ雰囲気に乏しい。私にとって野球を観戦するときの楽しみとは、キャッチャーミットやグラブでの捕球音や打球の音である。いまのような騒音の中でのプレーでは明らかに選手の“音”による判断を狂わせ、騒音によって集中力を奪うことは明らかである。このような応援の仕方は選手に途方もない余計な努力を求めることになっているとともに、本当に野球を楽しみたい観客の権利を奪うものである。
 それではサッカーの場合はどうであろうか。サッカーJリーグの応援などで絶え間なく音が出ているようであるが、実はそうではない。サッカーの場合にはそのひとつひとつのパスワークも観る者の心を揺さぶるものであり、その都度歓声が上がるのはむしろ当然ではある。しかしプレーが止まってフリーキックやコーナーキックのなどの場合には明らかに緊張した静寂が訪れる。確かに世界のサッカースタジアムでしばしば観客が暴徒化してそのマナーが危ぶまれているが、まだ全体としてはスポーツ観戦のマナーは守られているように思う。
 私がここに敢えてスポーツ観戦における騒音について書いているのは、それがスポーツの質を下げているはずだと思うからである。私ははつらつとして必死のプレーをする高校野球が大好きで、毎年夏の予選や甲子園での大会を観戦に行く。そのすさまじい騒音にはうんざりしているが、しかし“応援団ではない”観客の、健闘したチームに対する心からの温かい拍手には涙が出る想いである。私は、もう何年前のことになるのであろうか、たしか1986年、あの富山県代表・新湊高校がベスト4をかけた必死の戦いのときに甲子園にいた。なぜかあの時甲子園の判官びいきの高校野球ファンは、無名の新湊高校球児がなにものも求めないまっ白な心でプレーしているのを感じ、球場全体が、私が座っていた銀傘の下の大観衆もすべてが“万雷の拍手”を送り続けていたのを思い出している。
 それは騒音ではない!そんな音は、いま私たちが球場で耳にする音とは明らかに異なるものである。スポーツ観戦の場はストレス発散の場ではないのである。私は球場やサッカー場などに本当に素晴らしいプレーを観に、そしてそれに対して心からの応援を送りに行きたいと思う。しかしそれには、選手のプレーをじっくりと観られる環境が必要で、それを何とか実現してほしいのである。残念ながら、それは“ボールパーク”と呼ばれる米国の球場や英国のテニスのウィンブルドンなどの場にはきちんと存在し続けているのである。

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