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2013年01月06日の記事は以下のとおりです。

2013年初頭、京都に方広寺・豊国神社を訪ねた

  • 2013/01/06 17:49

 正月恒例の天皇杯サッカーの決勝、実業団駅伝、そして関東大学の箱根駅伝も終わった正月4日、JR京都駅から近く京都国立博物館や三十三間堂のそばにあるとされる方広寺と豊国神社を訪れることにした。この両方とも武家政権から明治維新という激動の歴史を体現してきたものとして少なからず興味は持ってはいたが、それぞれの歴史については全くの無知であった。訪れたのは豊国神社が先であったが、歴史的には豊臣秀吉自身がその設立に関与したとされる方広寺のことを先に見てみよう。その方広寺についてWikipediaは次のように言う。
 「方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は大仏殿。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として創建された。豊臣秀吉は天正14年(1586年)に大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止された後、天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側の現在地に変更して再開。秀吉は高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。同年9月25日には大仏開眼のため千僧供養会を行った。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧が出仕を要請された。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院である。…(中略)…
 その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、木食応其に命じて大仏(銅造)と大仏殿の復興を図るが、慶長7年(1602年)火災が起き、造営中の大仏と大仏殿は焼失してしまった。慶長13年(1608年)より再度復興が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされる(方広寺鐘銘事件)。」
 まさにここにも秀吉の強引な手法と家康との確執が如実に表れていて興味深い。その方広寺の鐘楼と日本一巨大で82トンもあるという梵鐘の組み写真が1枚目の写真で、その中に「国家安康」「君臣豊楽」の文字が書かれている部分の写真がある。それを拡大したのが2枚目の写真で(それらの字が何故白く囲まれているかは私は知らない)、これが大坂の夏の陣、冬の陣と関連したかと思うと意外である。でも、家康はどんな理屈をつけても豊臣家の根絶やしを求めたのであろう。
 その方広寺の、かっては大仏殿があったといわれるところに創建されたのが豊国神社である。それについてWikipediaは次のように言う。
 「豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。豊臣秀吉を祀る。豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。この時、秀吉は東大寺の大仏に倣い、自身を八幡として祀るように遺言したが、結果として方広寺とは別の存在となり、別に神宮寺が建てられ、神号も大明神となっている。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。
 しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により方広寺の大仏の鎮守とするために廃絶され、大仏殿裏手に遷されている。神宮寺や本殿は残されたが、それも後に妙法院に移されている。…(中略)… 1868年(明治元年)、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。」
 ここにも天皇家と豊臣家や徳川家との露骨な関係の違いが現れている。要するに天皇家が豊国神社の再興を布告したのは、豊臣家は天下統一をしながら幕府(著者注:中世および近世の日本では武家政権を指す)を開かなかったことを高く評価し、もちろんその裏では徳川政権に対して明らかな敵意を抱いて来たことを表している。そして今では、かってはいまの国立博物館まであった方広寺の敷地の中で、方広寺よりはるかに広い敷地を豊国神社が占めているのである。歴史の流れの中にはその時代の意識、特に支配層の意識が、当たり前であるが、如実に反映されているようである。

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