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おねがい!!!“ものが言え、自主独立性をもった子供たちが育ってほしい”

  • 2013/02/09 11:09

 いま日本は日中間の軋轢の他に体罰問題で揺れている。ここにあげた写真は、最初の2枚は2月7日の、そしてあとの2枚は2月8日の読売新聞朝刊の体罰問題の記事である。そこにあげられていることは告発の匿名性の問題、他国に比べて圧倒的な男性社会の問題、体罰がこれまでも繰り返されてきたことの問題などが指摘され、それらに対する何らかの解決策が模索されている。それらの記事については、画像をクリックして拡大画像でお読みいただければ幸いである。
 私も前回、前々回と二度にわたってこのブログに私の思いつくままを書いてきた。これで最後にしたいが、もう一度個人的な感情を含めて書いておきたい。個人的な感情と書いたのは、私にとってこのブログは私自身の経験を記録に残しておくために書いているからでもあり、そのことを少しばかりお許しいただきたい。
 私は前々回のこのブログの「桜宮高校体罰事件から『日本のスポーツの限界』について想う」に次のようなことを最後に書いた(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/184 )。
 「最後に、私が家族とともにアメリカに滞在した時の経験を書いておこう。子供たちは当然のようにサッカークラブに入ってサッカーを楽しんでいた時のことである。中学1年の長男が所属していたチームの試合を見ていて、ハーフタイムになった。そのときコーチ(監督)は彼らのプレーについて意見を言った後子供たちの意見を聞いた。そのときゲームに出ていなかった補欠の選手が、サイドラインで見ていた親たちがゲーム中にプレーにうるさく注文を付けていたことに猛然と反発したのである。おそらく日本では全く考えられないことであろう。子供たちがそのように育てられていることに私は強い衝撃と深い感銘を受けた。そんな国を相手にして今も昔もとても勝ち目はないのである。」
 もう一つ書いておこう。それは、上の経験をする少し前、アメリカに移住してびっくりするような大きな家に住み始めた頃であった。隣の家にはスパニッシュ系の家族が住んでいて、4、5歳かと思われる可愛い女の子が家にやってきて我が家の娘と〝Your turn?, my turn"などと言いながらよく遊んでいた。ある時私が裏庭でたばこを吸っているとその女の子が近づいてきて、〝Why don't you stop smoking?" と私に言うのである。彼女はまだ小さいのでゆっくりしゃべってくれて、私にはよく理解できた。私はこれには唖然として答えに窮した。そのときに何が言えたかは全く記憶にない。
 かの国の子供たちは一事が万事こんな感じである。一般的に言えば彼らは旺盛な発言力があり、声も大きく、自己主張は活発で、討論の力もある。彼らはそのように教育されているのである。これに対して日本の子供は私を含めてそのように教育されているとは全く言えない。日本の社会はいまでも、国の構成から学校、家庭まで縦社会の権力が貫いていて、上を向いてものをいうことは難しい。このことがいじめや体罰を陰湿にし、蔓延しやすい環境を整えているといえる。
 私自身もおとなしい子供だったと思う。父から厳しい体罰を受けた覚えは全くないが、さまざまなことに実力を持っていた父は怖い存在だった。何か大事なものをなくしたことで夜中まで座らされたことはあったし、野球ばかりで勉強をしなかった時にグローブを金庫に隠されたこともあった。こんな私は大学での研究や当時の“大学闘争”(やはり私には“紛争”ではなかった)に簡単に耐えられるような存在ではなかった。特に大学がもめた数年間というものは、私にとっては最大の教育期間であった。私は様々な意見を持つ相手に対して、きちっと筋道を立てて討論しなければ一歩も前に進まないという苦境を味わった。私は自分が主張しなければいけないことをノートに書き、相手の意見も想定してそれに反論する詳細なノートを作ることを習慣にした。これが私のその後の人生に大きく影響し、いまでもその時代の遺産で生きている感じがする。
 先日、私の子供たちとお寿司を食べ、お酒を飲みながら話をしたことがあった。そのときなぜか私が子供たちにどう接したかということも話題になった。彼らは、私に勉強のことを聞いても、私は彼らに筋道立てて考えることを求めたと言われた。それが本当だったとして、上の経験が子供の教育に少し役立ったのだと知り、安堵した。だから、きっと我が家には体罰はなかったのだろうと思う。でも、一度だけ男の子二人を平手打ちにしたことは覚えている。それはもはやとっさの親子の喧嘩である。でも、多分フォローが効いていたから体罰にはならなかったのだろうと思う。
 もちろん、ものが言えて自主独立性があればそれで十分なのではなく、それが拠って立つ価値観が問題である。その両方が相まってまともな人間が生まれ、正常な社会が建設される。しかしいま問題になっている体罰などの問題は、指導者と選手、親と子供、教師と生徒・学生の関係が対等に保たれることによって防がれ、双方の成長が期待できるのである。そのためにはあらゆる場面で、子供たちの自主性を尊重した教育がなされなければならない。その積み重ねの中から明るい、前を向いた子供たちの笑顔が見られるのであろう。これが達成されなければ体罰問題はなくならない。例えば日本学生野球連盟による体罰や暴力事件による高等学校の処分は、もう何十年も前から繰り返し行われれてきたが、毎度毎度新聞で報道されるように改善された気配は全く感じられないのである。

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