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平成から令和へ

  • 2019/05/15 16:12

 平成の後の元号が令和と決まった後、4月30日に明仁天皇陛下が退位され、5月1日に皇太子徳仁親王殿下が天皇に即位された(1枚目の読売新聞の写真)。素直に言えば新しい令和の時代が始まったのである。今回の退位と即位、元号の制定などをめぐってマスコミをはじめとして日本中が大いに盛り上がったといっても差し支えはないであろう。この間10連休の設定などを見るとこれを必死に盛り上げようとする、ある種の意図的なものを感じるといっても過言ではなさそうである。
 私が5歳の時朝鮮・仁川から引き揚げ、三重県の田舎で山野を駆け巡っていた頃あの太平洋戦争は終わった。そしてその後今まで太平洋戦争の経緯と責任が国民の多くが納得できる形で明らかにされたとは誰しも思っていない。そのことが今回の退位・即位・元号制定の過程の底流に密かに流れていたのであろうが、それを隠すかのように繰り広げられた祝賀ムードがあったように私には思える。それほどその辺りの問題は表に出てこない。そして多くの国民にとっては、この30年間新しい象徴天皇として最善の努力を払ってこられたであろう天皇・皇后両陛下に対して、穏やかにこの時期を過ごしていただきたいとの気持ちが祝賀ムードに拍車をかけたようにも思える。

 いろいろと私の中で想いがめぐっていたある日、思わぬ場所、つまりお世話になっているさとう治療院の待合室で、4月16日付の「神奈川新聞」に二つの興味深い記事を見つけた。それが2枚目の写真である。二つの記事は異なる切り口からの貴重な主張で、分かりやすいように3枚目の写真にしたのは、「かって司法修習を終えながらも裁判官への任官を拒否され、現在は大坂で塾講師を務める神坂直樹さん」の主張である。また、4枚目の写真に切り分けたのは「天皇の公的活動 制限を」を主張する一橋大名誉教授渡辺治氏の記事である。この記事を皆さんに紹介するとともに少し議論の対象とするのがこのブログの目的である。
 最初の裁判官への任官拒否問題は、判決文などへの西暦使用にあったとされているが、元号使用が慣習でしかなかったにもかかわらずそれを理由に任官拒否するとは言語道断であろう。最高裁が明確な理由を開示することなく任官を拒否したことは権力の乱用であって、まさに暴力的である。元号使用に行政府が様々な公的書類でこだわるだけでなく、司法府までがそれにこだわるとすれば、やはりこの国での統治において天皇制は、形だけの“象徴”として存在するだけではなく、実質的な権力構造のひとつとして密かに生き続けていることを証明しているように感じる。元号使用は、天皇制を無意識的から意識的へと積極的に容認させるための踏み絵である。神坂氏が「みんなが受け入れているかのような演出は戦前以上ではないか。元号に順化されてきた日本の在り方をもっと相対化した方が良い。」と主張されるのももっともだと私は受け入れる。
 もう一つの渡辺治氏の主張は、現憲法の中に民主的選出によらない象徴天皇制と民主主義という異質なものが混在していて、天皇を象徴として政治的に切り離したにもかかわらず現実にはそうなっていないと警告していることにある。それは天皇統治の明治から昭和の時代にアジア全体で二千万人ともいわれる死者を出した戦争を引き起こしてしまったことの反省に基づき、天皇を象徴として内閣の助言と承認の下での国事行為のみに限定し、政治的活動を制限したにもかかわらずそうなっていないとの強い主張である。こう主張する根拠は、天皇の行為は様々な形で報道され、表面的には政治家自身の活動より広く国民に受け入れられ、愛されているように見えることからだと思われる。
 いまそのように天皇の行動が国民の側から見て肯定的に見えているのは、相対的に政権与党や野党の在り様が残念ながら国民の側にあるようには見えていないことが大きいと思われる。大きな予算を使って国民に諂うような行動に見えることの多い政治家から見ると、象徴としての在り方を自ら苦心の上編み出して国民の心をつかんだ平成天皇の存在が自分たちより上の存在に見えてきてしまっているのではないか、と私には感じられる。
 もともと現憲法には、民主的選出によらない天皇制と民主主義が同居するという矛盾を内包していると渡辺氏も指摘している。だからこそ、平成天皇自身は新たな象徴天皇を模索したと言う。そしてその天皇のどの活動を渡辺氏が批判の対象としているのかが私には理解できない。もともと矛盾を内包しているのだから、それはお互いの知恵で乗り越えなければならないものだと思う。そこにこそ国民の知恵が試される道がある。渡辺氏は、平成天皇が生み出した問題は、「天皇という権威に依存することで、国民が主権者としての責任と自覚をあいまいにし、問題解決を回避し続けることだ。戦争責任の問題、戦争しない国をつくる課題、原発や沖縄の基地問題は、国民自身が解決すべきである。」と述べているように見える。でも、私から見れば、上にあげられている国民が解決しなければならない問題などは過去何度も提起され、政治問題として過激な議論がなされてきたのではなかったか。そしてそれをダメにしたのは、国民ではなくむしろ逃げ回った政治家やもしくは軍部の上層部ではなかったのかと強く思う。例えば、戦争責任の問題で言えば、その責任を問われて処刑されたのは、大半が現地(戦地)で処刑されたB級戦犯とC級戦犯の948人で(半藤一利著『昭和史』平凡社)、東京裁判で処刑されたのはA級戦犯の内わずか7人でしかなかった。これは国民の戦争責任解明への意欲をないがしろにした例のひとつであろう。
 それはともかく、新たに即位された天皇が如何に象徴としての地位を体現されるかは国民も見つめていかなければならないのは当然であろう。だからと言って天皇の公的活動を制限するという主張には私は反対である。むしろ、新たな公的活動を通じて徳仁天皇が新たな象徴像を築きあげられることを期待したい。天皇は象徴であるといえども人間としての基本的人権を持っているはずで、口を封じるなどあってはならないと私は思う。

 なお、2枚目の写真の質が悪いのでその代り3枚目と4枚目をお読みいただければ幸いである。

善光寺の桜はこれまでで最高だったが、私の長野マラソン2019は惨敗でした

  • 2019/04/24 18:03

 東京マラソン2019から1か月半、体調も万全とは言い難いことから今回の長野への挑戦には困難が付きまとうだろうことは、初めからわかっていた。だから今回の結果にも驚かないし、今後に向かって立ち上がる気持ちがさらに湧き上がってきている。とりあえず、素直に今回の結果を振り返っておきたい。

 いまは神奈川に引っ越しをしたので長野行きには新幹線が利用でき、関西から出かけるのに比べればほぼ半分以下の時間で済む。そのために余裕をもって時間を使えるのがうれしい。そんなことから新幹線に乗る前に東京駅で美味しいラーメンを私と遊んでくれる仲間と食べてから出かけることにしている。今回もこれまでとは別のラーメンを味わって英気を養い、北陸線新幹線のホームに向かった。そのホームで珍しいものを見た。それは最初の写真の上の部分のように2つの新幹線列車が頭同志(鼻同志?)で連結している姿である。調べてみると緑ははやぶさで、赤はこまちで連結したまま走行し、たとえば緑は山形、赤は秋田にたとえば盛岡駅で分離されて運転されるものと思われる。ただこの組み合わせはほかの線でもありうるので断言はできない。
 わずか1時間半で長野駅に着くとそこは長野マラソン一色で、何年か前に一新された駅構内には大河ドラマ“いだてん”ばりの巨大な吊下げ写真広告が飾られていた。例年通りビッグハットで受付を済ませてゼッケンを受け取り、ホテルで一休みしてからいつものように善光寺に向かった。うれしいことに今年の善光寺の桜は最高だった。コースの一部でもある大門交差点角にあるピンクの枝垂桜は写真のように満開(右下)、善光寺本堂の西側にある桜も満開で少し黄緑色の桜が混じっていて面白い(左側)。ゆっくり参拝してから少しお土産も手に入れ夕食を取り、宿に帰って明日に備えた。
 21日の早朝6時半にホテルのバスでスタート地点のアクアウイングに送ってもらい、余裕をもって準備することができた。確か私たちが到着したころは9℃くらいだったと思うが、曇で風もなく少し寒いくらいで絶好のマラソン日和だったといえる。スタート前に4人で写真を撮ったが、左から昨年も登場したB君、次はC君に私、それに長野の常連ではあるがまだ名前がついていないD君(東京マラソンでカメラマンを務めた)でみんな気合が入っているように見える(3枚目の写真の上)。残念ながら昨年のA君は仕事の関係で欠席である。スタート前から危なそうなのは仲間より30歳前後高齢で体調に難問を抱える私に、東京マラソンの後遺症を抱えるC君である。公式のデータによれば気象状態はスタート時に10℃、12時には14℃でそれほど気温も上がらず、風も弱い絶好のコンディションであった。
 8時30分に号砲が鳴りスタート。私は最後尾に近いところのブロックからのスタートでスタートラインを超えるまでに7分39秒かかっている。私の目標は5時間以内の完走で、厳密にキロ7分を守りえた時のみに目標は達成できる。しかし現実は厳しく、スタート直後から体は重く、10キロあたりまではそれほどの苦労なくキロ7分を少し切る申し分のないラップを刻むことができたが、13キロを過ぎるあたりから目に見えて脚が重くなり、15キロあたりでは残念ながらどこかの関門でのリタイアを覚悟した。その辺りの様子は4枚目の組み写真で明らかである。上の部分は一応公式に近いランナーズアップデートのデータで、記録は5キロ刻みのラップで20キロまでのデータしかない。その最後の15-20キロの間のデータは一挙にそれまでより7分遅いデータになっているが、その下の私のGarminのGPS付き時計での計測データをご覧になればお分かりのように、14キロ以降は次の20.8キロの関門でリタイアすることを決めていたので、こんな経験は初めてであるが沿道や五輪大橋上で応援してくださる方々と話をしながら走ったというのが正直なところである。話をしながらと言うか,”頑張って”と言われるのに対しては“来年はもっと頑張るからね、今年はもう少しだけ”と言いながら走っていた。なんだか応援してくれる人たちの顔がよく見えた。その内に関係者が乗った車から私たちに“後ろから収容バスが来ますからそのバスに乗ってください”と言われてびっくり。後ろを見るとバスが来ていたのである。良く考えてみれば、私たちが居た位置は、この時点では今年の長野マラソンの最後尾だったのである。当たり前だが、自分がこんな位置にいようとは考えてもみなかったことで、ちょっと寂しい気持ちになったのは事実であった。そして20.8キロの関門の手前200メートルあたりでバスで関門まで移動、そこでバスを乗り換えてゴール地点まで到着した。なんと仲間の中では最も早くゴール地点に着いていたことになる。完走できなくとも飲み物、おにぎりなどはいただけるが、今年は小さいながらも“Nagano marathon”とだけ書かれた汗をぬぐえる程度のタオルではあるがいただけて有難かった。長野マラソンの歴史上こんなタオル(5枚目の写真)は初めてであった!?
 私以外は皆さんはしっかりとゴールされた。怪我を抱えていたC君はキネシオを貼りまくった身体で3:42:38、東京でカメラマンを務めてくれたD君もテーピングで補強して3:52:41で確実に3時間台を守り、B君は4:22:42で見事昨年の雪辱を果たした。
 これが長野マラソン2019の顛末である。完走率は全体で85.44%と公式に発表されており、今回のようによい気象条件でも約15%近いランナーが完走を果たせなかったのである。私もその残念な1人になってしまって悔しい。制限時間5時間という制約はなかなか厳しい。でも、この制約の中で私も鍛えられてきたので今後もそれに耐えられるだけの努力をしなければならないのは当然であろう。私は70歳台では4時間台を守ると言う密かな目標を持っていたが残念ながら途切れさせてしまった。でも、80歳代でも4時間台で走れるという実績を示したいものだといま思っている。それには体調回復が最大の課題である。ただ、ちょっと余計なことだが、4枚目の下の写真の少し右の方を見ていただきたい。心拍数という項目があり、4キロまでは出だしと言うこともあり高く200前後だがそれ以降は140から150代前半と安定している。私は現在も部分的な房室ブロックと言われる不整脈を持っているが(もっと難しい不整脈はカテーテル手術で治療した)、それなりに安定していて大変うれしい。
 なお、多くの写真を提供してくれたB君、C君には心より感謝したい。

追悼:
 このブログを書いた後に小出義雄氏がお亡くなりになったことを知りました。ここに小出氏のマラソン界への未曾有の貢献ををたたえたいと思います。小出氏がマラソンは楽しんで走るものであることを徹底してくださったおかげで、私は今も走り続けているのだと思います。心からご冥福をお祈りいたします。

東京マラソン2019が我が家の一大イベントの舞台に。(4)追補版:いまだにまだ書き残したことがあるんです・・・

  • 2019/04/17 13:38

 これまでになが~いブログを(1)(2)(3)と3つも書いてしまったが、それでもまだ何か書きたりないことが沢山ありそうで、思い出すまま、また皆さんの意見も聞きながら、長くなるのを覚悟の上で書いておきたい。文章ばかりでは読まされる方はたまったものではないだろうし、また記念品としてちょっと高いが無理をして購入したプロカメラマン撮影の写真も何枚か御覧いただきたい。

 まずは、1名足りないので全体として100点満点ではないが、感極まる直前のゴールライン上の写真を見ていただきたい(1枚目の写真)。それまでの苦しみを忘れて、いやそれだからこそのうれしい顔3つが並んでいる。その時点の数百メートル前で私たち3人はそれまで42キロ着てきたレインコートの類をすべて脱ぎ捨てて沿道の係りの人に渡して、寒さに震えながら大観衆の声援を受けてゴールに向かってきた。そして歓喜が待っていた。
 さて、そこからず~っと時計を巻き戻しての30キロ直前の銀座4丁目の角(2枚目写真の信号機にそれを示す標識)、少し先が見えてきて明るい顔をしている3人。マラソンは30キロからという金言を知ってはいるが、フルマラソンを何度も経験している我々3人は、タイムのことを脇に置けばなんとか我慢できることを感じていたからだろう。実にタイミングよく撮影されている。
 それから10キロほどゴールに近づいてもうゴール間近の40キロ過ぎ、次男と私がなんだか下を見ている3枚目の写真が面白い。次男は左手で下を指さしていて、そこにあるのはなんと“マンホールの蓋”である。このような状況は何度もあったことをブログ(3)に書いたが、こんな写真が撮影されているとは夢にも思わなかった。後半は私と並んで走っていた次男はこのようにして私の安全な走行を手助けしてくれていたことはお分かりいただけるであろう。もちろん、マンホールがなくても私が疲れてお尻が落ち、強い前傾姿勢で走っていると、しばしば私の顎の前あたりに横から手が出てきて前傾の修正を促された。そのたびに私は転倒の危機を遠ざけてもらっていたのである。
 もっと時間を巻き戻してみよう。ブログ(2)に書いたように3キロ過ぎの地点でトイレに入った関係で5.6キロの第一関門に引っかかる恐れが突然我々を襲った。さらにそのあとの第二関門が9.9キロとすぐそこにあることも分かり、にわかにペースを上げなければならない必要に迫られた。でも、この緊急性については並走していた私や長男はそれほど詳しくは知らされてはいなかった。しかしペースをコントロールしていた次男と長女が最後尾を示す公式のランナーと話をし、また沿道で我々の応援に来てくれていたサッカーチームTFCの仲間とスマホで交信して関門で止められることを避けるに必要なペースの計算をお願いしていたようである。私のGPS時計のデータによれば(ブログ(2)の3枚目の写真)、3キロまでの1キロを7分06、06、07秒で走っていてトイレ休憩に入った後は急ぎ6分31秒に上げ、第二関門も安全だと分かる頃のキロまでの1キロ毎を6分42,47,26,44秒とばらつきはありながら徐々にペースを落とし、脚の使い過ぎを微妙な数字でコントロールしていたことが分かる。ここに上げた数字は私の時計だが、実際の現場では沿道からの必要なデータを参考にしながら、長女が我々全体のペースを実測していたようである。恐れ入った緻密さのペースコントロールが私の脚を最後まで持たせてくれたのだろうと感謝しつつも、長男の脚を持たせられなかったのはいささか残念であった。考えてみればここまで今回のマラソンのタイムをなぜか書いてはいなかった。公式の記録証が届いたのでそれを4枚目の写真としてお見せする。グロスタイムは6:18:19で、ネットタイムは5:58:03であった。多分トイレ休憩や沿道の応援の方々との交流などを考慮するとおよそ5時間30分ほどのネットタイムだと思われる。
 さて、時計をもっと前に巻き戻して、つまりは走る前のことだが、書いておきたいことがある。それは薬の使い方である。ブログ(1)に書いたように原因がはっきりしない(脱水症状かも?)あちらこちらの筋肉痛などの違和感に私は悩まされ続けていた(これは現在も続いている)。それができるだけ走ることに邪魔にならないように乗り切るためにはたとえ一時的にせよ薬に頼るしかなく、どんな薬をどう使うかは悩みの種であった。私は親兄弟が薬剤師でもあったので若干の知識はあるが、スポーツ選手がたとえば消炎・鎮痛剤をどのように使うかは聞いてみないと分からないのでいろんな方にお聞きした。我が家の子供たちもそれを使った経験を持っていたのでそれも参考にし、その結果、私はロキソニンを、あるいは市販のロキソプロフェン(ロキソニンの成分と同じ)をレースの10日前から毎日1錠ずつを夕食後に飲み、レース当日は特別にスタート前に1錠追加した。この飲み方は、痛みの継続とそれによるストレスを抑えることを目的とした。このような薬の使用結果は大変効果的で、うれしいことにレース中全く痛みを気にする必要はなかった。
 実はすでに書いたことではあるが、ペースメイクなどのカギを握っていた次男は前日のサッカーの試合で右脚の腓骨筋の腱を痛め、まともに歩けない状態に陥っていた。幸いさとう治療院・佐藤千可生氏の的確な治療を受けることができて窮地を脱し、レース前に同様に消炎・鎮痛剤のボルタレンを飲み、特殊で強力なテーピングをし、さらにインストラクターでもある長女のストレッチを受けて危ないながらも走りきることができた。ロキソニンとボルタレンの使い分けについては個人の相性だと感じている方が多いようである。いずれにせよ、薬の使用は注意しなければならないが、しかし注意深く使用することで窮地を脱することができるのもまた事実である。
 さて、私が薬を飲まなければならなくなった筋肉痛のような全身的症状についてはブログ(1)に書いたがはっきりした原因はいまだ分かっていない。ただ、状況証拠は二つある。ひとつは、1月に引き起こした歯周病の治療に用いた抗生剤の点滴が強烈で4-5日にわたって激しい下痢に見舞われ、その後いつの間にか筋肉痛に見舞われていたこと、もうひとつは、私は従来から飲み会でビールなどをかなり飲んでも殆どトイレに行くことがなく、私自身の身体には水分が十分ではないと感じさせられていたからである(これについては同席の仲間が気にしていたらしい)。この二つのことにしてもそれが原因である確証はなく、下痢にしても冬に多いウイルス性の下痢かもしれず、それによる予想しがたい症状が出て今もそのウイルスが潜伏している可能性もある。そう考えるとなんだか恐ろしいストーリーで、手の打ちようがない。
 だんだん暗い話になってしまったが、そのついでに走っているときのことで特に長女に感謝しなければならないことが沢山あり、そのことを書いておこう。そのことごとくは私の身の回りの世話のことである。走り始めて最初の給水時から彼女が水の入ったコップを取ってきてくれることが分かり、終始それに甘えることになってしまった。それはコップを捨ててもらうことにもつながり、後半になると給食(エネルギー補給のための食べ物)で私が何が欲しいかと御用聞きさながらの役目までお願いすることになってしまった。特に身勝手だったのは、中盤から後半にかけて薄皮パンが食べたいかと聞かれ、粒あんのパンを食べたいと答えたらそれがなくてクリームパンを持ってきてくれた。が、それはいらないと断った。こんなことが二度三度とあったようで、しばらくの間そのパンたちは長女や次男のポケットにいたらしい。私がそんな拒否反応をしたのは、かって神戸マラソンの時にクリームパンを食べてあまり感じよくなかったことに起因する。でも、まったく身勝手なことだ。また、勧められるまま長女が持っていたエネルギー源のサプリを何個か食べてしまっていた。あ~ぁ、好き勝手をやってしまったな~と思いながら、すごくありがたかった。だからか、まったく何も考えずに走りに集中していたのか、神保町でカレーの匂いがしたとか、名古屋にいた頃には家族で何度も行った中華料理の味仙があったとかみんなが言っていたが、私には全く記憶がなく、ただ、沿道からの“なかにし~!”とか“おやじ!”、また“妹!”とかの声はなぜかよく聞こえてなんとか応答できた。
 とにかくいろいろなことはあったけど、我が家にとっては筆舌に尽くしがたい素晴らしい3月最初の週末であった。(でも、ホノルルマラソン2005では二人とも完走できたが、東京マラソン2019では残念ながら同時ゴールは果たせなかった長男との夢を、どうしたものかと頭を悩ましている。)

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