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”桜善戦 砕け散る”、そして私の古い記憶

  • 2019/12/05 12:37

 勇気あるラグビー日本代表チーム(ブレイブ・ブロッサムズ)が4強を目指して屈強な南アフリカチームと戦い、そして敗れてすでに1か月以上たっている。ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会が終幕してすぐにでも素晴らしいラグビー日本大会の模様をここに記しておきたいと思いながら、しかし全く書くことができなかった。私にはいまでも全く書くことがない。全ては皆さんがすでに書き尽くしてくれた。このブログのタイトルも、半ば下の写真にある読売新聞のタイトルからいただいたものである。だから、このブログを見られた方が、確かにすばらしいラグビーのワールドカップが日本であったなーと、一か月いや二か月でも長く忘れないで記憶に留めていただければそれで充分である。それほど中身のない飾りだけのブログを、しかし、私自身の思い出としてここに書いておきたい。珍しく書くこともなく短文である。

 私にとってラグビーとは何だろう。野球とマラソンは自分でやることを楽しめるスポーツとして最高であるが、しかしそれ以外のあらゆるスポーツは観戦することが大好きである。その中でラグビーは観戦していると体の硬直をなぜか感じる、私にとって珍しいスポーツである。そんなことを考えているときふと私は、名古屋にいた浪人時代に当時遠い関西の西宮球技場にニュージーランドのオールブラックスがやって来ることを知った。何故か思い切って西宮球技場に足を運び世界ナンバーワンのオールブラックスとオール関西の試合を観戦し、圧倒的なオールブラックスのプレーを楽しんだ(1958年3月5日)。そして、貧しいポケットの中からシダの印が印刷されている箱に入った靴ベラを買った。それを今でも捨てることができず60年間大事に古ぼけた私の机の中にある(一枚目の写真、追伸参照)。
 また、仕事の関係で関西に居を構えた時にも、毎年のように暮れから1月にかけての寒い大阪の花園ラグビー場に足を運び、高校生のラグビー日本選手権を楽しんだ。高校生のプレーでも体がこわばってしまうことに変わりなく、なぜそうなるかはいまだに全くわからない。考えられることがあるとすれば、体ごとぶつかってゆく経験をスポーツを通じても経験してこなかった私の体が、その時には動物としての野生が目を覚ましているのかもしれない。動物としての証しだとすればなんだかちょっとうれしいような気がする。

 今回の日本代表の戦績を少しだけたどってみると、一次リーグA組でロシア、アイルランド、サモア、そしてキーとなったスコットランド戦を戦い、前回に敗れた雪辱を果たしてグループリーグを全勝で突破して初めてベスト8の仲間入りを果たすことができた。でも、その上には大きな壁が立ちはだかっていた。そこには前回に日本に敗れて日本旋風を巻き起こすことになった南アフリカが待ち構えていたのである。そしてその一戦を報じたのがここに写真を使わせいただいて読売新聞10月24日朝刊である(2枚目と3枚目の写真)。これまで2回の優勝を誇る南アフリカに叩き潰され、悔しい思いがいっぱい溢れている。そのチームを”One Team”としてけん引したリーチ・マイケル選手の必死のジャンプが4枚目の写真である。これはこの写真を撮ったCanonの広告であるが、”届かない あと少し”の見出しがこの瞬間の気持ちをよく表している。
 この気持ちを持ち続けようとするのであろうか、リーチ・マイケル選手はさらなる挑戦を続けると聞いている。我々にとってはジョセフ・ヘッドコーチの留任とともにとても素晴らしい贈り物である。今回の日本大会を成功裏に導いた観客を含めたすべての関係者に対する最大のプレゼントに違いない。
 私にもひとつのプレゼントを感じる。それは、ラグビーというスポーツは何かほかのスポーツとは違うという感じをはっきりさせてくれたように思われる。何故か魂を揺さぶられる死闘の先にノーサイドが待ち受けている。だからほかのスポーツをプレーするものでもそれらにないものをラグビーの中に感じるのであろうか。そんな素晴らしい興奮を、見事なリーチのキャップテンシーとジョセフの指導力でさらなる高い頂に持ち上げていただければそれほどうれしいことはない。私もそこまで楽しめれば最高である。

追伸:1枚目の写真の箱の底には次のようなメッセージを書いた紙が貼りつけてあった。”靴ベラのささやき” 「あなたの愛するラグビーのスピリットを私と共に、いつもあなたのポケットに!」 あれから60年たってやっと今日の輝かしい時代を迎えたのだと思うと感無量である。

懐かしい花 ダリアを町田ダリア園で楽しむ

  • 2019/11/13 10:10

 私が子供の頃、住んでいた田舎の家の前の畑あるいは花壇には決まってダリアの花があった。私は栽培が比較的簡単なこともあってダリアの花が好きで、毎年サツマイモのような形の球根を植えて楽しんでいた。しかし、最近都会の街中でダリアを見ることは意外にまれで、ダリアと聞くとなんだか懐かしい気がして仕方がない。今回、家から近い町田にダリア園があると知り、11月5日の快晴の日、小田急町田駅のバスセンターから⑤山崎団地行きバスに乗り北一号下車で15-20分の短い旅で到着した。そこは町田薬師池公園 四季彩の杜 町田ダリア園と呼ばれ、およそ500品種4000株が小高い丘の斜面に植えられていた。今年は6月29日~11月4日がダリア園の祭りのようで、訪れた日は一部盛りを過ぎた部分もあったが、まだまだ十分鑑賞に堪えるという感じで懐かしいダリアを満喫することができた。
 ダリアは昔から咲き方、花色など多彩でそれが花壇の中で輝きを放つ大きな理由であったが、そのことは現在も同じで、現在ではさらに新しい品種が無数に作り出されているような感じで大いに楽しめた。そんなわけで、きれいな花を観てはカメラのシャッターを切りまくり、およそ100枚近くの撮影をしてしまい、結局収拾がつかずきれいに整理整頓して皆さんにご覧いただくことあたわずで、もうただ並べるしか能のない、何の解説も意見も申し上げることのできない写真集になってしまいました。

 このダリア園のダリアはまだ十分に鑑賞に堪える状況ですので、皆様ぜひ足を運んでお楽しみください。なおこの園は元旦から三日までが休園だけでそれ以外は年中無休とのことで様々な花の苗を手に入れることもできます。また園内には木花と呼ばれる休憩所もあり、店内には町田市内の福祉施設で制作された授産製品が沢山販売され、コーヒーやアイスクリームと共におなかがすけば美味しい蕎麦も楽しむことができます。

頻発する台風と豪雨被害、かっての東京大空襲と関東大震災、そして思い出される学童疎開、どうにもならない避難と復旧

  • 2019/10/29 15:23

 先日来台風15号や19号による想像を絶する被害、あるいは昨年の大坂北部地震による復興の遅れなどから思い切って”日本沈没”などとセンセーショナルな話題を議論した。しかし、10月24日の読売新聞朝刊を見て驚いた。確かに、首都圏には以前から首都圏直下型地震の高い可能性があり(1枚目の写真 https://www3.nhk.or.jp/news/special//saigai/natural_disaster\05.html/ )、その被害の想定がしきりと行われてきた。しかし、そのとき人々は具体的にどこへどのように避難するかがあからさまに議論されてきたとは感じてはいなかったように思う。ところが、なんと、台風19号の巨大さ(2枚目の写真、読売新聞10月19日参照)に仰天したか東京都のある地域がおよそ250万人の広域避難を検討していた事実の報道があった(3枚目の写真、、10月24日)。最近何かと恐ろしい現実と見通せない未来を感じることが多いことから、改めてまた書きたくなった。書くことは自分の頭を整理することだからである。
 その報道には次の様な記述がある(3枚目の写真。拡大してご覧ください)。「5区(東京都東部の江東5区)は、昨年8月に発表したハザードマップで荒川や江戸川が氾濫すると最悪9割以上の居住エリアが水没すると想定。荒川流域の3日間の雨量が『500㍉超』となる場合、水没エリアの住民に埼玉など他県への自主的な広域避難を促し、『600㍉超』で広域避難勧告を発令するとした」
 そして結局はその避難計画を断念したが、4枚目の写真(10月24日)を拡大して是非お読みいただきたい。詳しい結論を簡潔に言うと、今回は江東5区(墨田、江東、足立、葛飾、江戸川)が、地域を貫く荒川流域で記録的豪雨が予想されたとして、最大250万人(5区の人口260万人の90%)を近隣県などへの避難を検討しつつあり、11日に担当幹部が電話会談をしたがすでにその時点で鉄道各社が計画運休を行うことが固まりつつあったため、この計画を断念した、というのである。その結果、それぞれの区内の避難所で対応することになったという。結果的には幸い5区の流域で氾濫や浸水はなかったという(3枚目の写真)。
 ではなぜ避難などの実施を断念したかということは、4枚目の写真の記事に詳しく書かれている。つまり、いざ大規模避難などの実行が現実味を増してくると、10月11日に電話で会談した各区の幹部らは昨年6月の「首都圏における大規模水害広域避難検討会」での具体策のなさが議論の裏側に姿を見たのである。4枚目の写真の地理的関係を拡大したのが5枚目の写真であるが、近隣県への避難となると、東側には埼玉、茨城、千葉、そして西側へは東京西部や神奈川が該当する。
 そんな遠距離避難の手段については検討会では「電車または徒歩」となっていたといい、昨今のように計画運休が頻繁に起こるようになると非常に複雑になり、ことは動かなくなる。また、検討会では「避難場所や避難ルートは決まっていない」というのが共通認識のようで、これでは一歩も進まず、どの区も何十万人を収容できる場所を個別に用意するのは不可能だと断言しているようである。結局、これまでのところ検討会では具体策は全くなく、大規模避難は必要だとのぼんやりした共通認識にとどまっている。そんな状態だから、5区の幹部がそのような避難を検討したことを公にすることさえ拒んだのであろう。

 大規模避難を必要とした歴史は何度かある。そのひとつは福島原発事故を伴った東日本大震災で、それまでには関東大震災や東京大空襲があった。しかし東京大空襲以外では組織的な大規模避難行動はなかったように思う。きわめて組織的に行われたのは太平洋戦争末期のことである。Wikipediaには次のように記載されている。「1944年連合国軍による本土空襲が始まった(北九州の八幡空襲)直後、1944年8月4日、東京都から学童疎開第一陣が出発し、7月の緊急閣議で急遽疎開決定した沖縄県の学童は8月中旬、大阪市からは8月末に移動を始めた。以上の地域以外にも、横浜市、川崎市、名古屋市、尼崎市、神戸市と今の北九州市(当時は門司、小倉、戸畑、若松、八幡の各市)から周辺県への疎開が9月末までに集中的に行われた。疎開児童総数は40万人以上だった」
 この時の避難は国家、すなわち軍主導で組織的に行われたがゆえにそれなりに実行されたと思う。しかし、対馬丸事件のような悲しい事故も生んでしまった。この大規模避難は戦争末期の断末魔の本土決戦を可能にするためにせめて子供たちだけは避難させたいとする意向が働いたのであろう。それでは現在の状況はどうであろうか。首都圏は極度に人口が密集し、江東5区だけで290万で、大水害になれば250万人の避難が必要だという。先日の台風19号では多摩川沿線でも浸水がかなりの規模になった。その領域には数百万人がひしめき合っているのである。そして先日来の鉄道各社の計画運休でも、その計画が少しでも予定を外れれば利用者の大渋滞が発生することはよく分かってきた。首都圏の交通網は素晴らしいという人もいる。しかし、一旦どこか数か所で交通網に破たんができた時には大規模な住民輸送は簡単に破たんしそうである。それは、この10月の台風15,19号による暴風雨、そして21号崩れの温帯低気圧の集中豪雨による関東・東北の被害を見れば、この平時でさえ人の移動の難しさが察せられる。
 しかし、もし大規模避難を首都圏を中心に行うとすれば強い意志を持った実行力と我々が不得意とする横の連携を完ぺきにこなさないと人命を助けるための避難にはならず、むしろ逆の結果を招くことは明らかだと思われる。私はこのブログを書くまでは、避難してきた人々を受け入れるなんてことは考えも及ばなかった。幸い私が住んでいるところはそれほど危険が迫ってくるような場所ではないと感じている。だとすれば、避難ではなく逆に受け入れ側に回ることを考えなければならないのだと実感するようになりつつある。それをうまく繋げるのが横の連携である。
 最後に、4枚目写真の記事の見出しは「250万人避難 『方法ない』」とある。良く考えてみれば、誰しもがそう思うであろう。これは首都圏だけの問題ではなく、今回の三つの連続した災害で日本列島のおよそ半分の地域が密かに麻痺する事態に陥っている。つまりこれは、過密の首都圏の問題だけではなく、過密していない地方においては、災害発生時に避難はおろか復旧もできないという、もう一つの差し迫った問題が待ち構えているのである。

 なお、今回の記事の写真は新しい方法で撮影したもので、これまでのよりは拡大しても鮮明に見られると思われる。ダブルクリックで拡大してご覧いただきたい。特に2枚目の記事は情報量が多い。

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