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2012年10月20日の記事は以下のとおりです。

秋の山口・萩から長門(仙崎)を行く (3)萩が育んだ偉人たち

  • 2012/10/20 11:04

 長州藩(萩藩ともいう)では多くの偉人が育っていったが、ここでは、高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、そして吉田松陰について関連する写真と彼らの生きざまをWikipediaから拾いたい。
 「高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。…(中略)…
安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見舞うが、松陰は10月に処刑される。 …(中略)… 文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。」1枚目の写真は生家における写真である。
 また木戸孝允については、「木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。…(中略)… 長州藩士で、明治初期における「長州閥」の長(おさ)と認識されることが多い。幕末期には、桂 小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」「維新の十傑」として並び称せられる。…(中略)… 吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、帰藩後は藩庁政務座の最高責任者として活躍する。特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。…(中略)… 文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼された。
 木戸は開明的であったが、急進派から守旧派までが絶え間ない権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取った。」
 木戸については2枚目の写真の系図にあるようにちょっと複雑であるが、昔は頻繁に行われていた養子縁組によって、和田家に生まれたが桂家の養子となり、その後藩命により木戸を名乗るようになったようである。血気盛んな高杉晋作とは違って、大きな展望を持った政治家という印象を受けるがいかがであろうか。
 さらに伊藤博文についてWikipediaは、「伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は公爵。学位は名誉博士(イェール大学)。…(中略)… 周防国(著者注:長門国とともに長州藩の領国)出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、韓国統監府初代統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老。
 アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺される。」
 ここに見るように伊藤博文は幅広い見識を持ち、高杉晋作が外国と交渉するに際してはその通訳をも務めたとされ、語学にも優れていたようである。それもそのはずで、長州藩は幕府の目を盗んで伊藤博文を含む5人の若手をイギリスに密航させて勉強させていたのである(3枚目の写真と追記参照)。その5人はイギリスでは「長州ファイブ」として評価されているようである。しかし、4枚目の写真にあるように伊藤博文は朝鮮を保護国とする条約を結んで初代統監となり、その結果か後にハルピンにおいて暗殺されることになってしまった。いまの日韓関係もその影響下にあるといえる。なお、3枚目の組み写真の左上は長州ファイブについての、左下は旧家である。4枚目の写真は、東京・品川にあった貴重な別宅を萩に移築したものの庭にある明治天皇からいただいた、半分が菊の紋様入りの大きな灯篭や、素晴らしくしゃれた照明器具などの写真である。
 また吉田松陰については、「文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。…(中略)… しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。
 嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。。…(中略)… 
 安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に下田町隣村の名主に自首し、下田で取調べを受けた後、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。
 安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。
 やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)。生涯独身であった。
 獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。」とWikipediaは言う。
 以上のように吉田松陰は幕末を一見無謀に見えるように生き抜いた闘士であると共に、5枚目の写真に見るような粗末な松下村塾でわずか2年程教えただけであったにもかかわらず、多くの人材を送り出した教育者であったのには驚かされる。ここに写真はないがたまたま萩博物館(思いがけず建物も内容も立派な博物館であった)で、私は聞いたこともなかった義理の弟にあたる楫取素彦(かとりもとひこ)の没後100年記念特別展が行われており、松陰は処刑される前に彼に松下村塾の後を任せたとのことであった。彼は後に群馬県の初代県令に抜擢されたほどの人であったらしく、群馬県を日本屈指の教育県や産業県に導いたとされ、そんな豊富な人材が松下村塾から将来の日本を背負った多くの人物を生み出したのだろうと推測される。その楫取素彦は、松下村塾のある松陰神社(5枚目の写真)建設にも貢献したとされるが、そのことは私にはちょっと違和感はあるが、それが尊王攘夷の心でもあったのであろうか。

 以上、ここの文章の大半はWikipediaからの引用であるが、私が下手な人物紹介をするよりはましだと感じたからである。それにしても、ここに例として紹介した人物を含めて多くの維新の偉人たちは、脱藩、外国への渡航、密航、逮捕・投獄などを恐れず、確かに命を賭して外の世界を見て、そして闘ったんだということがここに紹介した文章を通しても分かる。そんな人物が大勢いたからこそ、世紀の大政奉還、明治維新とそれに続く空前の大改革が推し進められたのであろう。萩は行ってみる価値のあるところである。伊藤博文に関係する3枚目の写真の一枚に彼の旧家のある場所の傍に、“あぁ、素晴らしい里山だ!”と思える風景があったのでとっさに写真に撮った。昔はどこにでもあった風景ではある。
 なお、いま思い出すのは萩博物館に次のような言葉があったのを断片的に覚えている。“地理をみよ”と書かれていて、その教えが多くの長州人が地元にとどまって教育を受けて成長した理由だと想像できる。

追記:3枚目の写真の掲示板が読めないので、以下に要約を載せておく。「文久3年(1863)、英国に密航留学した長州出身の五人の若者たちー伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助ー。近年は留学先の英国でも彼らの功績が評価され、『長州ファイブ』の呼び名で顕彰されている。彼らは長州藩重臣の周布政之助が、西洋文明・先進技術を身につけた『人の器械』の重要性を考えて国禁を破って密航させたのである。」

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