エントリー

2013年07月06日の記事は以下のとおりです。

濃い緑の福井平野を走って650キロ (2)永平寺と越前海岸

  • 2013/07/06 13:39

 恐竜博物館を後にして一路宿泊予定の山中温泉に向かった。北陸の温泉を訪れるのは初めてであるが、到着した山中温泉は静かな温泉街で、予約したホテルも深い渓谷の斜面に建つ落ち着いた宿で、温泉につかって旅の疲れを癒やすことができた(1枚目の写真)。
 翌朝そのホテルを後にして永平寺に向かった。曹洞宗の大本山ということもあってこれまでも訪れたことももあり、少し懐かしい感じを覚えた。永平寺の成り立ちについてWikipedia次のように言う。
 「永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我竜胆車紋である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。…(中略)…
 幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には『天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか』という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む『只管打坐(しかんたざ)』を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
 日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。」
 永平寺は広大な境内に伽藍が別々に立っているという感じではなく、比較的緩い斜面に大きな七つの伽藍が建ちその間を廊下が結んでいるという構造になっている。したがって、お参りをするときは外に出ることなく、それぞれの伽藍を巡回することができる。2枚目の写真に見られるように、境内には杉の巨木が林立しており、それらのケアが丁寧に行われているようである。
 3枚目の写真にはいくつかの伽藍の写真を載せたが、これらの建物はいずれも近世になって建て替えられたもので、それまでのものは度重なる兵火などで失われたようである。左上は仏殿、右上は法堂、左下は食事などをつかさどる大庫院、右下は中雀門の向こうに大きな山門が見える。これらの伽藍を回る前には修行僧による簡単な説明もあり、永平寺における若い禅僧の修行の一端を知ることができ、いまの時代にも多くの若者が修行に励む心意気を垣間見ることができるような気がした。
 参拝の後にお土産屋を眺め歩いた後に、山を抜け坂井市に属する日本海側の東尋坊を目指して車を走らせた。そこには海岸の断崖に柱状に林立した岩の並びが見えた。それを「柱状節理」というらしいが、それを知らなかった私はWikipediaで勉強した
 「節理(せつり、英: joint)とは、岩体に発達した規則性のある割れ目のうち、両側にずれの見られないものをいう。マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じる。なお、割れ目の両側にずれが見られる場合は断層になる。柱状節理(ちゅうじょうせつり、英: columnar joint)は、岩体が柱状になった節理。六角柱状のものが多いが、五角柱状や四角柱状のものもある。玄武岩質の岩石によく見られ、マグマの冷却面と垂直に発達する。」
 東尋坊をはじめとして越前海岸で見られる柱状節理は輝石安山岩のもので、写真をご覧になればお分かりのように見事な奇岩である。このような岩石は、堆積岩の間に安山岩を柱状に貫入してできているようで、その後の波による浸食によってそれがいくつかの塊としてあちらこちらに聳え立つという風景を作ったらしい。ただ、その堆積岩が浸食されて洞窟のようになった部分もあり、それが4枚目の写真の左上のようにみられることがある。東尋坊一帯を観た後にお土産屋の方に足を運んだが、沢山の店に団体のバス旅行で来られた方々が一杯で、やはり有名な観光地なのだと教えられた。
 東尋坊を後にして越前海岸を南下すると、あちらこちらに東尋坊と同様の柱状節理の岩石が見られた。そのひとつが5枚目の写真にある鉾島で、同様の岩石が見られた。私たちは北陸道から名神で帰宅するために鯖江ICから入ろうとかなり南下したが、そこまでの海岸線は、海岸べりで遊ぶには東尋坊よりははるかに適しているように思えた。夕方までそんなきれいな海岸線を走ってから内陸側に入り、鯖江ICから帰阪することになった。自宅に帰ってみると約650キロ走っていた。

[$F03|image]
F03.jpg

ページ移動

  • 前のページ
  • 次のページ
  • ページ
  • 1

ユーティリティ

<<<2013年07月>>>

1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

過去ログ

Feed