エントリー

2019年01月06日の記事は以下のとおりです。

TBSテレビ「サンデーモーニング」で特集された『技術革新』と『グローバリズム』からチョット考える

  • 2019/01/06 17:10

 新しい年の1月6日の朝、TBSテレビの「サンデーモーニング」が新春スペシャルの中で「技術革新」と「グローバリズム」についての様々な考え方を特集していて、大いに参考になった。それを聞きながら思いついたことを、特に情報の混乱について少しだけ書いておきたい。

 「グローバリズム」はもとをただせば、自国での利益確保に限界を感じるようになった先進国が、発展途上国を巻き込んで新たな利益獲得を模索する中で出てきた概念で、結局はそれによって想像もできないほどの富分配の格差と人間の分断をもたらしたことは間違いない。ここではそれはこれ以上述べない。
 一方、「技術革新」の中では急速に発達した情報伝達速度の向上と情報発信の手法や器具(パソコンから携帯電話、そしてスマートフォン)が一般大衆にも広がって爆発的な情報の洪水が引き起こされている。ここには二つの問題があるように思う。ひとつは、情報の洪水は誰が止められるのか、もうひとつは、情報の短文化、つまりは情報の細切れ化である。
 最初の情報の洪水であるが、ここに至るまでは、まあある意味昭和の時代までは、両手で数えるほどの新聞社やそれよりはるかに多いがそれでも数えられる程度の出版社であったのであろう。しかし、彼らは不特定多数の一般大衆に対して開かれていることからそれなりの規範を守ることが要求されており、情報の無意味な、あるいは悪意に満ちたようなものの拡散にはそれなりの歯止めがかかっていたと私は思っている。ちょうどそれは、科学研究の論文が誰もが出せるものではなく、論文の発行を担当している雑誌社がその論文内容分野のそれなりの権威に発行する真実性と価値があるかどうかを確認する「査読」という制度を機能させることが行われてきた。それによって論文内容の確実さがある程度担保されてきた長い歴史がある。私なども何度も投稿論文が付き返された苦い経験があり、ときには”Journal of Rejected Papers"という雑誌はあったらいいのにとよく愚痴をこぼしたものである。つまりは、研究業績の厳しい競争に悪意を持って立ちふさがろうとする悪意ある権威の存在などもあったからである。でも、この制度はよく機能したと考えている。

 しかし状況は、「技術革新」と「グローバリズム」によって一変した。私を含めてだれもがホームページやブログなどによって自分の考えなどを公開することができるようになったのである。かっての数えることのできる新聞社や雑誌社数の比ではないのである。人の数以上に発信元があるのである。このことに輪をかけているのがSNS(Social Network Services)の爆発的な展開である。様々な種類があるが、私が知る限りで最も現在私の目に触れるのはTwitterであろう。これはTweet/つぶやくという英語から来ており、かっては140文字に制限されていたが昨年だったか280文字まで(英語で、日本語はそのまま)字数制限が緩和された。このSNSを多用する米国のトランプ大統領などの投稿を見るとやはりつぶやいている程度の文字数しか使われていない。これ以外にもさまざまなSNSの種類があるが多かれ少なかれ使われている字数はTwitterと同程度と言われ、多くはチャットのように使われているらしい。
 それでは簡単なことしか書いていないかと言えば、トランプ大統領の書いているものを見ればわかるように世界を動かす、時には世界を震撼させる政策を発表してくるのである。もちろん、その背景が詳細に書かれているわけではなく、いや書く文字数がないメディアを使っているから当たり前のように書かれていないのである。では、どうやって理解すればよいのか?理解はできない!私から見れば、彼の頭も分断されているに違いないと思っている。
 このようなことはトランプ大統領だけに限らない。日本の安倍首相がビックリするような政策を決めた時にはTwitterも出ていないようである。私たちの耳や目に届くのは、テレビのニュースか新聞である。たとえば、商業捕鯨再開決定や新元号の発表は4月1日に、などというごくごく最近の決定は誰がどこで決めた?日本は大統領制ではないがきっと安倍首相に決まっている。では国会はどうなっているか?閣僚は何をしているのか?全然わからない。このような現象は世界中で同様に起こっている。決まったことは出てくるが、その過程や議論の内容は出てこないから背景が分からない。感覚で物事を動かしてもらっては困る。
 要するに、無数にある情報発信元から出てくる情報は議論の対象ではない形にならざるを得ないのは、発言そのものが細切れにされチャット化される運命であることに起因するように思える。私もブログを書くが、それを時々読んでくださる方々がおられてうれしい。それでもしばしば私のブログは長すぎるとおしかりを受ける。私は物事を一刀両断に切り裂き、相手にものを言わせぬ結論を書き記すだけの自信はない。そのためできるだけ言いたいことを説明しようとすると文章が長くなるのである。でも、そこに考える余地が出てくることをうれしく思っている。これは自分への思いやりであると思うし、先々他人への思いやりにつながるだろうと考えている。現在の最大の問題は他人への思いやりの入り込む隙間がなくなってしまったことのような気がする。このことに薄々みんなが気付いて初めて情報の混乱が止まるきっかけが生まれるような気がする。ここに述べた「他人への思いやり」は、本日のサンデーモーニングで法政大学総長田中優子氏がポツリと最後に述べられたような気がする。私がいまの私のやり方を崩すことはこの先もなさそうである。

追記:SNSの爆発的普及は考えることの細分化を伴う議論不足をもたらすだけではなく、読み手にとっては長文を読む習慣をなくし、短文以外には近づかない習慣を醸成することが恐ろしい(2019年1月7日)。

ページ移動

  • 前のページ
  • 次のページ
  • ページ
  • 1

ユーティリティ

<<<2019年01月>>>

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

Feed