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東京オリンピック・パラリンピックは終わった。感じたことをひとつだけ書いておこう

  • 2021/09/07 17:55

 新型コロナウイルスに襲われて1年遅れでやっと開催した東京オリンピック・パラリンピック2020は9月5日にほぼ大事に至ることなく終了した。その運営にかかわった多くの関係者の努力を高く評価したい。前例のない新型コロナウイルス感染症が世界を揺るがし続けているパンデミックの中、様々な批判を受けながら開催が決定された。しかし私自身、最後まで多彩な競技を正常に終わらせることができるかどうかについて大いに疑っていた。しかし、困難を乗り越えて支え続けた関係者の努力は、5年にわたってこの大イベントを必死の思いで自らの目標としてきたアスリートを裏切ることはなかった。この状況の中のオリンピック・パラリンピックを開催することができたのは、この世界の中できっと日本しかありえなかったのだろうと思う。その意味で、8年前のブラジルで次期開催地を”Tokyo"と宣言し、先日亡くなられた前国際オリンピック委員会のジャック・ロゲ会長は運のよい人だったのかもしれない。

 それはともかく、今回のオリンピック・パラリンピックがこれまで例を見ないパンデミック下で行われたこと、さらに、スポーツの著しい商業化や数百万ドルと言われる巨額の放送権料によってこれらイベントが動かされていることなどの諸問題は隠しようがない。それらの問題点は今後様々な角度から議論されなければならない。

 今回ここでは、特にパラリンピックをテレビで観戦し心に深く浸みた言葉の数々の背景を私なりに簡潔に書いておきたい。私が感銘を受けたのは勝利してメダルを獲得した者であれ、敗れて取り損なった者であれ、インタビュアーに応えて彼らが吐露した言葉の数々であった。それを一つ一つここに記すことをしないのは、皆さんはそれをテレビなどで心に深く留められたであろうと思うからである。

 我々がたびたびテレビなどで聞く健常者アスリートのインタビュー(野球やサッカーなど)と著しく違うことは、彼らパラアスリートはもちろん厳しい苦境下(差別下)に置かれていた故に今回の開催に強い感謝の意を表すのはもちろんであるが、それ以上に彼らはどこに技術的な問題があったのか、どこが苦しかったのか、どのトレーニングが難しかったかなどなど極めて具体的に、しかも饒舌に語ってくれることであった。それはインタビューを受けたほとんどのパラアスリートに共通の現象で、いわゆる”障害者”という苦境にとことん追い詰められてきたからであろう。そしてそこから脱出を試みてアスリートとして芽を出してきたからこそ彼らには発言すべき、表現したい内容が溢れるほどあるのだろうと推測する。同じことは、かってはパラアスリートで、今回テレビのインタビュアーとして登用された方々の言葉にも同様の深い内容と饒舌さが明らかに認められた。

 私は一杯様々な競技の放映をもちろん観たが、ここでは男子車椅子テニスの準決勝、決勝戦を話題にしたい。9月4日の決勝戦は国枝慎吾選手の圧勝であった。しかし、その一つ一つのプレーを私はハラハラドキドキしながら観ていた。それは、彼がそれまでに二つの金メダルを取っていてもその後肘の手術などからの再起に向けて血の滲むような努力があったことを聞きかじっていたからである。それを乗り越えてきているからこそ、あの160キロから170キロも出る相手(トム・エフべリンク、オランダ)のサーブをほぼ完ぺきにさばけていたのだろうと思う。そして彼は、苦悩する姿を見せることなく最後まで完璧にやり通した。そして彼は、思い切り泣き、その後さまざまな機会に詳しく語ってくれた。

 最近、ドイツの片足義足のジャンパーを研究している東大の研究者の話を少し聞いた。それは驚くなかれ、トレーニングによって脳の機能部位の再編成が起こっているというのである。したがって、それによって今まででは考えられないような新しい脳機能の発現がありうるというのである。私には、なぜあのようなジャンプができるのか、足も手も正常ではない障害者(こう言ってよいのかは分からない)がなぜあれだけのスピードで泳げるのか、なぜ手や腕のない人がアーチェリーの弓や卓球のラケットを操れるのか全く理解できない。ひょっとすると、我々が知りえない障害の克服過程には、脳機能の再編成を探し求めるようなトレーニングが必要とされ、結果的にそれを導き出すために、いわゆる健常者に想像すらできないような何らかの厳しいトレーニングがあり、そこを含めて彼らは深く多彩な言葉の発見や発言が必要になるのかもしれない。だから、彼らは能弁に語れる。

 私は車椅子バスケットボールの試合も追い続けた。そして最強のアメリカとの決勝戦も前半の10分を見てズタズタにはされないと悟って安堵したが、しかし後の30分を観ることはできなかった。沢山点を取られたら…、負けたら…、観てられないという感じがしたからである。だから、ランニングに出た。10キロ走って戻ってくると残念ながらやはり僅差(4点差)ではあったが負けていた。でも、かなり時間がたっていたためか選手たちのすがすがしい笑顔が見られて嬉しかった。やはり彼らも様々な厳しいトレーニングと新しい戦術を編み出して戦ったという。

 できるだけ早くもう一度彼らのプレーを見てみたいものである。彼らのプレーを見られて大変うれしかったし有意義であった。パンデミック下での苦しいオリンピック・パラリンピックの開催であったが、私を含めた多くの人々がこの機会に得たものを糧に「多様性と調和」の世界への前進に生かしたいものである。

 最後に、9月6日読売新聞に掲載された写真を一枚添付したい。もちろん無数の写真のごく一部である。そこには”支え合い 輝いた”とある。

東京マラソンは誰のものか? ランナーズファーストではないのか?

  • 2021/07/08 14:03

 新型コロナウイルスによる大規模な感染が日本で始まってからすでに1年半を過ぎた。世界中がこのコロナウイルスに翻弄され、政治も経済もガタガタにされつつある。そんな状況は大掛かりな政治や経済を語らなくとも自分たちの足元に転がっている。私は50歳ころから走り出したしがないマラソンランナーである。そんな私の日常生活にも新型コロナは遠慮なく刃を向け、わずかな楽しみを削いでゆく。新型コロナが蔓延し始めた昨年から日本中で行われるはずであったほとんどのマラソンレースが中止となり、ただただストレスが溜まってゆく。

 そんな状況の中、世界のトップクラスのマラソン大会に成長した東京マラソン(幸い私は第一回大会から出場できた)が、今年の大会をいつもの3月(2月の時もある)からオリンピック・パラリンピック後の10月まで遅らせて大会を開くと決断したのである。その決定は大歓迎で、私も喜んで、通常の定員38,000人から25,000人にまで削減されてより厳しくなったであろう抽選に応募したのである。もちろんそんな状況だから当選するなどと考えていなかったが、不思議なことに”当選”してしまったのである。そして入金の日が近づいてきて、より厳密に決まってきた新型コロナウイルスに対する感染症対策などを細かく読まざるを得なくなり、最終的に細かく決定された参加条件を精査することとなった。以下、私が気になったポイントについて記すこととしたい。
 今年の大会の感染症対策の中心点は、当然のことながら人と人との接触防止と低減という考え方を基盤としている。そして、いわゆる”3密”を避けるために、スタート地点などでランナー一人が占める面積を1㎡として考えることから出発しているようである。したがって、それを基礎としてボランティア数も減らしコースでランナーに提供する給食や給水にも影響が出る。食べるものも個別包装された物を提供するとか、飲み物も蓋がついているものをゼッケン番号で決められたテーブルで出すことになり(通常のエリート選手が走る場合に行われる大会と同様)、これまでのように大量の食べ物を”ドバッ!”と並べるとか、あるいは紙コップに入れた飲み物を大量に並べることも難しくなってくる。給食について公文書に次のように書かれている。

〇給食は種類・数量が限られますので、各自で必要に応じて栄養補助食品等をご準備ください。」と記載され、食べるものが無いという事態も予想されランナーにかなりの負担がかかることになる。以下、気になったことを個別に記載することとする。できるだけ公文書の文章のままにお伝えしたい。

ランナーが通常スタート前とゴール後に必要とする着替えについて。

〇スタートエリアには更衣室はありませんので、出走する服装でご来場ください。周辺施設等での更衣は絶対に行わないでください。
〇不要になった衣類の回収は行いませんので、各自保持して走行してください。
〇(フィニッシュエリアの)屋外更衣エリアのスペースには限りはありますので、できるだけ更衣はせず、速やかにお帰りいただきくようご協力をお願いいたします。

 以上の突き放したような記述に従うと、スタートエリアに来るときには走る服装で来るか着替えた服装は持って走ってくださいと言うことを意味する(放置されたものはすべて廃棄するとも書かれている)。着替えを持参できなかったランナーは汗をかいた着物のままで帰るしかない。確かに厳冬の季節ではないので不可能ではないが・・・。これらの規約通りにしようとすれば、東京の地下鉄などの駅に近い方ならそれほどの苦労もしないで参加できる可能性もあるが、東京近郊でもいくつかの電車を乗り継いで参加するには大変大きなハンディである。おまけに雨でも降ってしまえば体のケアなどの問題を含めて参加取りやめを強いられることに他ならない。こんな規制はランナーズファーストにはほど遠いことである。

次に引用する、途中リタイアをしたランナーの援助についての規制項目は信じられない。それについての記載は以下のとおりである。

収容バスの用意はありませんので、レース途中で棄権する場合に備え、公共交通機関が利用できるよう、交通系ICカード等の持参など、ご準備をお願いいたします。

 この運営規約は、大規模なフルマラソンレースを開催する主催者の考え方としては考えられないことと思われる。ランナーが途中リタイアをするのは何かの故障の発生、体力の限界に達した時、それは時には命にかかわる場合もある、あるいはその時点ではそれほど重要に見えないが、できるだけ早くより安定した状態にできなかった場合にはあとに後遺症につながるような場合もある。ランナーには途中でリタイアする勇気が必要だと言われるのはそのためである。つまりはリタイアの原因は大規模で様々なレベルのランナーが走る場合には大いに注意を要し、手落ちの無いケアが必要だと思われる。その意味でレース前後での更衣の問題や収容バスの用意をしないという大会本部の決断は極めて危険だと私には思える。

 こう考えてくると、今回の大会の要綱は規模を小さくして、しかしできるだけ安全に大会を開催しようとして計画されてきたことは十分理解できる。しかし、いったん開催すると決断して、より安全・安心に開催しようとして運営規約を吟味してゆくと、逆にランナーにとっては大変窮屈で別の安全面の問題が発生することになってしまったような気がする。しかし、そうなったからと言って、今度は開催を中止することができなくなってしまうのである。今回のランナーは大会が設定した健康管理アプリをダウンロードし、それによる体調管理と本人確認を行うことが要求されるようになっている。つまりは、スマホを維持することも必要不可欠なことになっているのである。デジタルが全くうまく使えていない国のランナーにそれを上手に使えと言うような不可思議な要求である。

 よく似た状況はいま開催直前の東京オリンピック・パラリンピックの問題が見えてくる。世界にオリンピック・パラリンピックを開催すると宣言するともはや止められなくなるようである。さらにより安全・安心に行おうとすると様々な条件がより厳しくなり、身動きができなくなってしまう。選手たちも選手村あるいは合宿所などに缶詰となり、まともな体調で戦うことは難しくなり、いつの間にかアスリートファーストが失われて、IOCや組織委員会あるいはスポンサーの立場が大きくなってくる。現在の感染状態を見ればすでに中止あるいは延期してもおかしくない状況となってきている。そこまでいかなくとも無観客の話が話題になりつつあり、事実上
ある意味中止と等しいような状況まで追い込まれている。
 昨年から全国で行われる予定だったほとんどのマラソンレースは中止されている。これは勇気ある決断というべきだろう。今回の東京マラソンのような形での開催はランナーにとっては大変窮屈で危険で、開催よりは思い切って中止すべきである。よく似たことは東京オリンピック・パラリンピックの状況にもみられる。
私から見れば新型コロナ対策の初期からの様々な失敗やワクチン開発や導入の遅れから、国民に問うたアンケートの結果を見れば、当事者であるアスリートは苦しい立場に追い込まれている。つまりは、東京マラソンの場合にも東京オリンピック・パラリンピックの場合にも、一見ランナーやトップクラスのアスリートにとっては開催されるという線で喜ばしい状況になっているように見えるが、しかしよく見れば強いストレスを抱えた大会に送り込まれたことになってしまったとみるべきであろう。どうもどちらの大会も、いつのまにか主導権はランナーやアスリートでなくなってしまったように思える。全く残念な状況である。アスリートはもっと自信を持って堂々と発言すべき時を迎えているように思う。

 最後に、本当に走りたかった東京マラソンの写真を一枚。これは家族で一緒に走った2019年の東京マラソンのもので、スタート前の更衣場での写真である。もう一度走りたかったのに残念ではある。でも、上に述べた様々な理由から、当選はしていたが走る気にはなれなかったのである。

何故に人々はお偉方のお願いを聞こうとしないのか?

  • 2021/06/04 16:55

 今朝メールボックスを開けたら、高校時代の部活の仲間から次のような文章で始まる手紙が送られてきていた。

康さんへ

 おーい元気にしてるか、2月以降ブログ見てないが、珍しく期間が長いね、体調でも悪いのと違うのか。いつもの小気味良いの見たいね。』

 

あとはお互いの近況報告がらみが続くメールである。このありがたいメールに書かれているように、ブログが書けないほどに体調不良があるわけでもないが、事態はもっと深刻かもしれない。深刻と言えばなんだか恐ろしい感じもするが、書けない理由はいろいろある。チョット書き始めてみよう。

 そのひとつは書きたいことが山のようにあっても書くポイントがつかめないことである。これには私も、当たり前のことだが、80歳を過ぎて年を取って頭の回転が鈍くなったことであろう。要するに頭が働いていないのだと思う。

 このことは、次に大事な問題点の発掘力の無さにつながってしまうし、結局考える集中力、そして持続力を保てなくなってしまう。

 そしてもう一つ言えば、今の現状を表しているが、例えば新型コロナの問題であるが、パンデミックの状況、なぜこうなってしまったのか、今の状況はどうなっているのか、感染状況はどうか、どうゆう政策を取ればこれを解決できるのか、などなど果てしない議論が毎日あらゆるメディアで行われている。こうなると論点を整理するなりしなければならなくなり、膨大なエネルギーを必要とする。もはや私の仕事ではなくなる。

 私が当初新型コロナの話にのめりこんだのは、東京都がホームページに掲載しているデータがずさんで、それによって何が分かるのかが分からないことからであった。特に当初感染者数や陽性率などを考えるときにどの日にちのデータを使っているのかが全く不明であった。その後その点は若干改善されてきたが、しかしいつの間にかデータ評価については曜日によって数値がかなり違うことから毎日毎日の絶対数ではなく、同じ曜日の前後、あるいは1週間の移動平均を使ってデジタルデータのばらつきを補正する手法を取るようになってきた。

 

 以上のような問題点を感じながら何とかブログを書き続けてきた理由は、政府であれ自治体であれある種の権威筋から出されるデータや考えが矛盾に満ちたものであることは許されず、それは修正されるべきものであり、それを持って初めてたとえば政府と国民の間に議論が成り立ち、信頼関係が醸成されると考えるからである。

 もともと私がホームページやブログを書き始めた理由は、私が考えてきたことを家族のみんなに伝えて置きたいと思ったからであった。そのことは今も変わらないが、でも、最近の政府(安倍政権の頃から)と国民の間の極めて大きい乖離を考えるとそれを何とかしないとどうにもならないと考えざるを得ない。

 

 それがいまブログを書く大きなモチベーションのひとつである。それがどんなに程度の低いものであっても書くことを続けたいと思う。その理由は、どうやってその能力を維持するかということとつながる。それは、文章を書くことは頭の体操にとって必須だと考えるからである。とにかく何かを書くことである。私は定年退職になるしばらく前から若い頃大好きだった外国映画(いわゆる洋画)のDVDを老後のために集めようと決めた。そこでデジタル放送の多いBS放送を録画できるようにデジタルアンテナと、DVDに書き込めるような性能の良いチューナーを買い込み、収集を始めた。今その数は何千枚にもなる。それを整理するためにそのディスクの一枚一枚にタイトルや監督、そして出演者名を書き込んでいる。これは頭の体操になる。一方、50代から始めたマラソンはまだ続いている。この両輪で知力・体力を維持したいものである。

 

 タイトルに書いた「何故に人々はお偉方のお願いを聞こうとしないのか?」 それは、”お偉方はなぜ国民が自分たちの言うことを聞かないのか”

との答えを持たないからである。私がこうやってブログを書くことは、お偉方に対する反感を表している。でも、コロナに感染したくない自分を守るために、危ないことはやらないように、気を付けてはいる。みんなもそうするしかない。

  このブログの冒頭で紹介したメールをくれた昔の仲間は、パソコンで囲碁の訓練を続けているとのことである。みんななにがしかのことをやっている。

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