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2021年12月12日の記事は以下のとおりです。

再録:「母からの伝言」ー2 「あとがき」も再録

  • 2021/12/12 19:13

 再録した「母からの伝言」の最後には、この文章を初めてホームページに掲載した時には私のあとがきの文章が添えられていたが、それをそのままこのブログのシステムに乗せようと試みたが、システムが異なるためかうまくいかなかった。そのため、ここに改めてその文章を原文を見ながら、その内容をかみしめながら書き写すことにしたい。

「あとがき」

 こうやって母の残したものを写していると、母の苦労や当時の田舎の様子が目に浮かぶ。ただ、子供時代の田舎の風景の中には私自身の暗い影は幸いにも見えない。いや、暗いことは忘れようとしてきたのかもしれない。すべて明るく、楽しい。あの柿は渋柿、これは青くても甘い柿だ。この柿はお盆の頃には食べられる盆柿だ。あそこには甘い紫色の桑の実がなっているし、あの山のあそこへ行けば、甘いアケビが食べられるし,栗の木もある。あの雑木林に行けば、いくらでもクワガタやカブトムシがいる・・・。

 また、(父の)出征先のジャワの風景が目に見えてくるような話を沢山してくれた父、メジロとりに(山に)行く時はいつも連れて行ってくれた父、野球を教えてくれた父(父は朝鮮仁川商業の教師で野球部監督で、朝鮮代表として同校を三度も甲子園に出場させた)、しかし言うことを聞かず野球ばかりやっている私に怒ってグローブを金庫に入れた父、帽子をなくした私をムチを手に夜中まで座らせた父、そんな父親の姿も目に浮かぶ。でも、なぜ私に暗い、例えばひもじいというような子供時代の記憶がないのか。多分それは、苦しい時代にそれをはねのけて生きていた両親の存在や、親は無くてもみんなで子供を優しく見てくれた古き良き時代の田舎の生活があったのだろうと思う。そんな世界を自分の身の回りに小さくとも作れればと思う。そして、「自由で幸せな人生を送ってください。希望をもって頑張ってっください」との母の最後の言葉を心に刻んで生きて行きたい。さあ、明後日は私の誕生日だ。でも、母のお葬式の日でもあった。(平成10年10月17日)

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 毎年12月になるとあの悪夢のような真珠湾攻撃とそれをどのようにして後世に語り継ぐのかということがマスメディアの話題となる。しかし、私にとってはこの母親からの貴重な伝言を改めて再録することが、次世代に語り継ぎ、自らの記憶をあたらにすることにつながると考えるようになった。(令和3年12月12日)

 なお、ここに母が書いた手紙のコピーを2枚添付しておきたい。全文8ページの手紙でしたが、記念のためですので2枚だけといたします。

再録:「母からの伝言」ー1  改めて感じるあの戦争の残酷さ

  • 2021/12/12 18:42

 母からの伝言

 以下の文章は、平成元年10月17日に没した母が亡くなる何年か前に私を含めた4人の子供達に宛てて、苦しい時代の生き様を伝えようとして書かれたものです。最近再び目にすることになったこの手紙を見て、感慨深いものがあります。その中味は、何か高尚なことを伝えようとしたものでもなく、ただただ苦しかった生活を本人の感情の赴くままに書きつづったものでしかありません。しかしいま読み返してみると、そこには私自身も少しばかりは経験した苦しく、切ない時代が思い出されてきます。結果として、何不自由のない家に生まれながら日本の36年に及ぶ朝鮮半島の占領政策に続く太平洋戦争に巻き込まれ、翻弄され、苦しい時代の中に埋没せざるを得なかったひとりの女の物語です。 この文章を自分のホームページに載せようと思い立ったのにはいくつかの理由があります。最大の理由は、自分も忘れてしまいそうな母の想いを記録に残そうと思ったからであり、もともと6人兄姉の内の4人までも亡くしてしまったいま、その想いはさらに強くなったからでもあります。二つ目の理由は、母が伝えたかったその時代の銃後の生活の惨めさを、それらを全く知らない方々に少しでも感じてもらいたかったからです。私自身、その惨めさをあまり感じていないのが本当のところです。多分、母や父は、またその廻りの親戚の方々は私達子供にそんなことを感じさせないように気を使いながら日々の生活を送ってくれたものと思っています。親とは有り難いものです。 この手紙を最初読んだときは、心臓病に苦しんで亡くなった直後だったためか、書かれた中味の印象はそれほど大きくはなかった。しかし、それから10年近く過ぎ、自分もそれなりに年を重ねてくるとその文章の中味は不思議とより現実味を帯びてきて、辛い。そしてあの頃のことを、特にあの日の夕方のことは忘れられない。私が7才の時のことです。三重県多気郡三瀬谷村字弥起井という見事な清流・宮川の深い峡谷のある山村でのことでした。その田舎の家の庭で何かをしていた私の西の方、確か10メートル程離れたところに突然、リュックを背負い、浅黒い顔をし、やつれた軍服を着た男の人が立っていたのです。でも、私には誰か分からなかった。私は5才の時から父を見たことはありませんでした。きっとその時父は、「康坊か」と声を掛けてくれたのではないかと思うが、その事もそれから何をしたのかも全く思い出せない。また、その時どれほど母はうれしく、きっと喜んで泣いていたと思うが、そのことについての記憶も全くないのです。そして、唯々、あんな時代もあったのだなぁと思うと、何とも情けなくなる。 以下の文章は、原文のままです。旧かな使いもそのままにし、括弧の中には私なりの注釈をつけました(*印のついた括弧内は私の注釈)。僅か50年前の、そんな時代を感じていただければ幸いです。(平成10年10月17日) 以下の伝言を改めて再録する。(令和12月12日)

「4人の子供達へ」

 わたしはこう云う人生を歩みました。 大正2年6月19日、仁川萬石町(*現在の韓国仁川市)で生まれ、露に生まれたので父母が露子と名付けたそうです。7人兄弟の中の一人娘として何不自由もない家に生まれ、親の愛を受けました。
 来年女学校へ受験するその年の10月、父は胃潰瘍で吐血して一晩入院しただけで21日この世を去りました。38才でした。其の后母親一人で7人の子供を抱へ、苦労だったろうと思ひます。人の子の親になって始めてわかりました。一番小さかった朋也をだき、乳をのませながらよく泣いてゐたのを私覚えて居ります。母33才の時でした。
 女学校で18才の春3月24日に卒業、4月1日に結婚しました(*夫の名は定一で、14才違い)。あまり年が違ふので母も心配してゐましたが、亡き父の代わりに母の相談相手になって貰ふからと申し、愛も恋も何もわからず内に家庭を持ちました。母は私を心配して私共兄弟の乳母を私につけてくれました。一緒の家に住み(バアバアと云ってました)何もかも世話をしいろいろと家庭の中のことを教えてくれました。その内6人の子供に恵まれ、一人は9ヶ月で死に、一人は生后4日目に亡くなりました。
 昭和18年大東亜戦争で主人は陸軍司政官としてジャワに出征する事になりました。私、32年のすみなれた仁川を後にする事になりました(私は知りませんでしたが、三重県に引き揚げて2年目に、志願して出征したのだと聞きました。ショックでした。自分の代わりに親孝行をしてくれと云う事でした)。洋子女学校1年、ひとみ小学校4年生、敏夫小学校1年生、康夫5才でした。とにかく荷物は全部陸軍省から1貨車用意してくれまして、食料不足の折から(未だ朝鮮には物資が沢山ありました)ミソ、正油、衣類とそろえ引き揚げました。1ヶ月后、12月末ジャワへ出征するため、康夫を連れて大阪まで送りました。何も知らない康夫ははしゃいでいました。
 私はそれから苦労が始まりました。亡き兄の子供、私の子供、父母と12人の家内の中にとび込みました。毎日生まれて始めての百姓、山行、供出と銃後の仕事の連續でした。食べるものも不自由、おかゆをすすってしのぎました。百姓はしていても供出で皆とられるし、つつましく生活する家でした。その内敏夫が病気になり、山田日赤病院(*現在の三重県伊勢市、かっての宇治山田市)に通院しました。持って帰ったくつ下をバターに変えて食べさせて栄養をとりました。定一さんの嫁さんはこんな男の仕事なんてしたことないので気の毒だと村の人から言われましたが無言で働きました。私、自分の親類は一人も居らず主人の身内ばかりでした。つらい事きいて頂く人もなく、只子供が居るだけ。ある時は子供を連れてどこかへ行きたいと思ったか分かりません。あまりの仕事のつらさに、トイレで泣き、山で泣き、誰にも分かって貰へませんでした。
 主人の弟の両親をあづかりました。おばあさん、三瀬谷(*現在の三重県多気郡大台町)の長屋に疎開しました。おぢいちゃんは津(*三重県津市)に家があるので津を行ったり来たりしてゐました。津の大空襲のあとなかなかかへって来ませんので、その時の班長さんに連れて行って貰ひました。焼け野が原になってゐました。
 どこさがしても居らず防空壕をのぞきましたら、その中うじ虫の中で死んでゐました。暑さでうじがわいたのです。おぢいさんを引っぱり出し、死体の上に木をたくさん拾って来てつみ重ね、やきました。少しの骨を持ってかへりました。おばあさんも長屋で細々と暮らし、私が何か持って行ってやると手を合わせて拝んでゐました。その内老衰で亡くなりました。
 昭和22年5月夕方、ひょっこり主人がかえって来ました。私丁度麦をしごいてゐる頃でして、真黒に陽やけしてみるかげもなくみっともない顔で迎えました。栄養失調で長い長い間回復しませんでした。何カ月か経ってやっと元気をとりもどし、薬局がないのでやってくれと云われ、佐原(*三重県多気郡三瀬谷村字佐原-現在の大台町)に店だけ持ち、私は毎日自轉車で通ひました。
 その頃朝上(*三重県三重郡)の母(私の母)が危篤との電報でした。「露子はどうして来てくれないのだろうか」と毎日言ってゐたとの事でした。商売はしてゐるし、主人が行ってくれるとの事で、母の顔をみる事も許されず、遠い空より母の冥福を祈りました。母には親不孝したと心に悔いて母におわびをしてゐる私です。
 父(主人の父)も昭和26年3月24日83才で亡くなりました。下の世話も全部私がしました。私が佐原から夜かへって来るのを待って息をひきとりました。ボケがひどくて大分世話がやけました。母(主人の母)は36年4月23日亡くなりました。よく働く人で、そのあとをついて行く私も大変な苦労しました。
 これで4人の親をみました。やがて敏夫が大学入学、卒業。名古やで開局するため土地を求めました(*名古屋市千種区)。康夫も名大受驗パスしました。洋子、ひとみ1年おいてよき伴侶を得ました。主人が早く敏夫達のところへ行きたいと云い出しまして、名古やで小さな老夫婦の家を建てました。そして嫁を迎えました。若い二人に薬局をまかそう、若いものは又私共とやりかたも違ふし、はり合いも出来てくるので、思い切って私共は身をひきました。
 その内主人も高血圧で右手が不自由になりました。右手か左手だったのか忘れてしまふ様な年に私もなりました。何年か不自由なむつかしい看病しながら養生が始まりました。世話をしてはおこられ、無理を云ひ、難しい看病でした。でも本人が一番気の毒でした。とうとう主人も42年2月24日かへらぬ人になりました。38年一緒にくらしました。長いと云うか短いと云うのか分かりません。
 亡くなった頃から私に急に心臓病が目立って悪くなりました。子供達にもずい文お世話かけ、心配をかけました。母に貰った心臓病、こんな事言って母にすまないと思ひますが、ショックと両方でした。その心臓病、未だに通院してゐる私です。本家のお千代さんは言ってくれます、姉さんはあの男の仕事百姓がきっと体にこたへたのだと言ってくれます。人に話をしてもおそらく分かりません。つらいつらい毎日でした。この余生もあと僅か、心身の老いが日に月にせまって来る感じです。人の世話をしておけばやがては自分の時に幸せが来るからとよくききました。そんな日が自分に来るのでせうか。5人の死に水をとらせて貰ひましたので、もう良い事がふって来るのではないかと待って居りますが、一向にそんな気配一つみえません。人間生きてゐる間苦労だと云ひますが、ほんたうにそうだと思ひます。
 小さかった私の子供達4人も大人になり、それぞれ子供の親になり立派に生活してゐますので、私も安心して此の世を去る事が出来ます。この苦労性と小心な性格で一生を終へることになるでせう。この小心な性格が日夜頭をなやまし、ねむれぬ夜が多い事も確かです。皆さん敏夫、康夫、洋子、ひとみ、私のまねはしないで下さい。自由で幸せな人生を送って下さい。希望をもっがんばってください。

さようなら 合掌

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