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[完全復元] というサブタイトルのついた記事が登場する!

  • 2011/09/22 09:30

 ブログのファイルが失われたということはすでに書いた。そのため、残った写真を参考にしながら当時書いたであろう文章を付けて復元したものを[簡易復元]と言うサブタイトルをつけて書いてきた。しかし、幸いなことに私が友人に託したブログ30編のプリントアウトが保存されていたことが分かり、それを譲り受けることができた。
 しかし、残念ことにそのブログは2009年12月末から2010年8月までの中からの30編で、それ以外、特に今年3月11日に起こった東日本大震災関連のものは全く入ってはいない。それらについては、できるだけ記憶をたどってそのうちの幾つかについてでも[簡易復元]させたいと考えている。
 それはともかく、今回入手できたプリントアウトを丹念に[完全復元]に持ってゆきたいと思っている。再度皆さんの目に触れることができれば幸いである。

[簡易復元] 過去2年間に訪れた博物館、美術館での展示をひとまとめにして・・・

  • 2011/09/21 00:12

 過去2年間、様々なものを観てきた。観てきたものについては、できるだけなにがしかのコメントを書いて残そうとこのブログに書いてきたが、それも残念ながら失われてしまった。その際に使った入場券の写真やパンフレットの写真などは残されていたので、以下にほとんどその写真だけを掲載しておきたい。
 このブログは、写真は5枚だけ掲載できるように制限してあるので、それ以上の数の写真を載せるときには組み写真にして載せている。ここでもその手法をとり、写真の数を増やしている。その写真は、しかしその手法のために小さくならざるを得ないので、細かいところをご覧になるときには写真部分をクリックし、拡大してご覧ください。
 訪れた展覧会などの感想は、その都度の情緒的な気分を書き連ねてきたので、今その内容を復元することはほとんど不可能である。この2年間、ここに示したもの以外にもいくつかの展覧会など(たとえば狩野派の絵)を楽しんできたが、最も強烈な印象を受けたのは5枚目の写真にその一端を示した“長谷川等伯”であった。その展覧会の1枚のパンフ(5枚目写真の右)は次のように言う。
 「長谷川等伯(1539-1610)を知っていますか? 水墨画の最高峰『松林図屏風』、金碧障壁画の至宝『楓図』を描き、あの狩野永徳をも脅かした絵師です。能登七尾(石川県)に生を受けた等伯は、はじめ『信春』と名乗り主に仏画を描いて活躍。30代で上洛すると、仏画、肖像画、花鳥画など多岐にわたる画題を時に精緻に、時に豪放に描きわけ、豊臣秀吉、千利休らに重用される時代の寵児となりました。一代で築き上げた長谷川派を、トップ絵師集団狩野派と肩を並べるまでの勢力に押し上げた等伯。その波瀾万丈の生涯、人間味溢れるエピソードは、残された作品群に勝るとも劣らず、我々を魅了し続けます。
 2010年は、等伯没後400年の節目の年。この記念すべき年に、史上最大規模の大回顧展を開催します。秀吉・利休を魅了し、永徳を畏怖させた長谷川等伯伸びの神髄がいかなるものか。そのこたえは、あなたの目で確かめてください。」
 まさに驚嘆したというのが私の率直な気持ちで、分厚い資料集まで買ってしまった。定年になってからいろいろと見て回って、日本の絵師や画家というのはすごい人たちがいたのだとは薄々感じ始めていたが、この展覧会を見てその思いは確かなものとなった。それになぜこれまで気が付かなかったのかとつくづく思う。まあ、自分の目で見てそれを確信したのだからそれでよいのであるが、学校の教育とはなんだったんだろうかと思う。私に絵などについて最大の教育を施してくれたのは、だから学校の教育ではなく、「開運!なんでも鑑定団」のような気がする。このテレビ番組はもちろん普通の面白おかしい番組ではあるが、それだけではなく出品作品の文化史・美術史的背景の解説があり、毎週毎週面白く貴重な教育を受けていた感じがした。
 そんな教育に引きずられて見てきたうえに挙げた様々な展示会は興味深いものだった。西洋の絵画展はもちろん、カルタゴについては意外なことをたくさん知ったし、遣唐使たちの命がけの渡航に驚き、冷泉家の古文書も面白かった。そんな感覚を引き出してくれた“教育”番組を引っ張ってきた司会者の一人島田紳助は、暴力団との付き合いが発覚して引退した。これからもなんとか楽しませてもらいたいが、これまでと同様できるだけ展覧会などには出向きたいものである。なお、写真の内容はクリックしての拡大図でご確認いただきたい。ここだけで8つのブログを復元?したことになる。

[簡易復元] 今城塚古墳を展示する「今城塚古代記念館」を訪れる

  • 2011/09/19 22:42

 陽光がまぶしくなってきた春の一日、自宅から自転車で10分もペダルを漕げば行けてしまう「今城塚古墳」に出かけた。これまでもその古墳を訪れたことがあるが、また出かけたのは今年4月にそこからの出土品を展示する立派な「今城塚古代歴史館」が新たにオープンされたからでもある。この今城塚古墳についてWikipediaは次のように記載している。
 「今城塚古墳(いましろづかこふん)は大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある6世紀前半では最大級の前方後円墳。国の史跡。摂津北部、三島(みしま)平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳である。三島野古墳群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。
 真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。…(中略)…
 墳丘の荒廃が著しいことは、一時は織田信長が三好家を攻めた1568年(永禄11年)の摂津侵攻に際し築いた城砦として使われたためと理解されていたが、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が崩壊したものとの見方が強まっている。同古墳は宮内庁から陵墓及び参考地に指定されていないため、一般人が見学可能であるとともに、最近までは墳丘は近隣住人の散歩道になってもおり、環濠は魚釣り場として利用されていた。 高槻市では史跡公園としての整備を目指し、1997年(平成9年)以降、そのための情報を得るための発掘調査を継続的に行っている。
 なお、7カ年に渡る復元整備事業が2011年3月で完了し2011年4月1日、日本初となるであろう埴輪祭祀場を発掘調査位置にレプリカにて復元し、また復元埴輪等を展示する史跡今城塚古代歴史館と史跡今城塚古墳を一体的に公開し、世界に向けて歴史遺産として発信しすることとなった。
 発掘は、1997年(平成9年)から毎年、高槻市埋蔵文化財調査センターが行っている。二重の濠を区分する内堤から形象埴輪や埴輪祭祀(はにわさいし)区が出土し、出土点数や埴輪祭祀区の規模が日本最大のものである。埴輪祭祀区は、東西62-65m、南北約6mの広さで、家形15、柵形25、蓋形4、大刀形14、楯形1、靱(ゆき)形1、武人形2、鷹匠(たかしょう)形2、力士形2、冠帽男子1、座像男子4、巫女(みこ)形7、四足動物(馬形など)18、鶏形4、水鳥形13の合わせて113点以上が出土した。なかでも家形埴輪は、高さが170cmもあり人の身長並みで、入母屋(いりもや)造りで、神社建築の屋根を飾る鰹木(かつおぎ)、千木(ちぎ)があり、高床の柱を円柱で表現している。吹き抜けの構造で神社とも考えられる。」
 この記述は今城塚古墳と継体天皇陵の関係、さらに現在の状況などについて巧みにまとめられており、私がこれに付け加えることはない。この古墳と出土品など、特に埴輪などの写真を若干皆さんにお見せするだけである。[簡易復元]ということでお許しいただきたい。
 1枚目の写真は新しくできた今城塚古代歴史館の外観、2枚目は館内に展示されている埴輪の数々、特に大きな家型埴輪が見える。3枚目は館外にある古墳で遠くに埴輪の展示が見える。4枚目、5枚目はその埴輪祭祀区に展示されている埴輪の写真である。色が少し違うのは、撮影した時間が違うことと方向が違うためである。なお、すべての写真は畑野勝義氏の提供による。ここに深く感謝する。

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