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頑張る若者、ダメな大人たち

  • 2014/02/04 13:22

 2014年1月30日の読売新聞朝刊の大見出し「新型万能細胞 作製」とともに、若々しい女性研究者である小保方晴子氏の顔写真には驚いた(1枚目の写真)。この思わぬ方法による万能細胞の作製に成功したのは、30歳という若い理化学研究所発生・再生科学総合研究センターとハーバード大学のグループである(STAP細胞、stimulus-triggered acquisition of pulripotency)。万能細胞作製は、ノーベル賞受賞者の京都大学・山中伸弥教授の4つの遺伝子導入によって作製する方法が革新的なものとしてノーベル賞の対象となったが(iPS細胞、induced pluripotent stem cell)、今回の方法は思いがけない簡単な方法によって作製されるものであることにまず驚いた。マウスの細胞を弱酸性の液にわずか30分間浸すだけという。もちろんさまざまな方法が試されたようであるが、この方法が最も簡単で効率が良かったとされる。さらに作製された細胞はiPS細胞よりさらに万能性が高く、胎盤にも変化しうるという。さらにこの方法の利点は、作製期間が大変短く、また初期化のために遺伝子導入を行っていないことから作製された細胞のがん化が低く抑えられる可能性が高いことだろうと思われる。
 このように一度分化した細胞が受精卵細胞が持つ万能性の方向に戻ることを細胞の初期化というが、その程度には様々な段階があることがこれからもうかがえる。もちろん、植物では初期化が比較的簡単に進むことを接ぎ木や挿し木などを通して我々は知っているし、私たちの体の中では、胃、小腸、食道や気管支などで何らかの刺激で一度分化した細胞が別の細胞に変化している例が知られている。考えてみれば、いずれも胃という強い酸性の場所に近いところではある、と勘繰ることもできそうである。私は若いころ(1972年)に細胞の初期化のことを、実験はしなかったがかなり突っ込んで考察したことがあり、それは日本語の文章として私のホームページに掲載している(http://www.unique-runner.com/nakanishi_kato3.htm )。そんなこともあってこのような課題についてはすごく興味を持っており、今後も注意深く追跡してゆきたい。今回報道された研究内容がさらにほかの研究機関で追試・確認されれば、山中教授の受賞が障害になる可能性はあるが、ノーベル賞の可能性もあると私は考えている。
 2枚目の写真は、2月3日の朝刊で、若手ダンサーの登竜門として知られるローザンヌ国際バレエコンクールの決戦で1位が松本第一高校2年の二山治雄さん(17)、2位が横浜翠陵高校1年の前田紗江さん(15)と1位と2位を独占し、さらに6位にはモナコ王立グレースバレエアカデミーの加藤三希央さん(18)が入ったとのことであった。この分野には全く疎い私でもこれは快挙であり、素晴らしい活躍であったのだろうとわかるし、うれしい限りである。
 3枚目の写真は、1月24日の読売新聞朝刊の記事で、以前から大いに話題になっていたプロ野球楽天のピッチャー田中将大君(25)がメジャーリーグのヤンキースと契約したとの報道である。7年契約で、総額161億円という破格の条件での契約であり、いろいろな意見があるが、大いに腕試しをしてきてもらいたいものである。彼が居なくなった後のプロ野球界の発展は、球界の関係者が若い人を大いに育てることに尽き、今後とも若い人の意欲を摘み取るようなことのないよう希望したい。
 4枚目の組み写真は、籾井勝人NHK新会長と橋下大阪市長(日本維新の会共同代表)に関する記事である。左側にある籾井会長に関する記事は、記者にしつこく問いただされた慰安婦問題で、「あってはならないことである」ではなく、「大戦中はどこにもあったことだ」と正当化してしまったことに対する強い批判に対して政府は不問とするとの記事であり(この彼の発言は撤回したらしい、2月5日)、右側はいつものことだが自分の思い通りにいかなくなると選挙に打って出るという橋下氏の話である。私から見るとどちらも開いた口がふさがらないと言うしかない。ばかばかしくて議論したくもないが、籾井氏については「政府の言うことと反対のことを言うわけにもいかず…」のようなことも語っており、報道機関のトップの資格はもちろんあるわけもなく、早く辞任すべき、あるいは辞任に追い込むしかない。橋下氏も時間がかかりすぎるとのことばかり問題にせず、もっと説得力のある区割り案や都構想の絶対的なメリットを持ち出せないことを自らの問題とすべきだと思われる。当初はともかく今になってみると、都構想のメリットは必ずしも「大阪都」にしなくとも実現できることばかりのような気がするし、多くの市民・府民もそう感じ始めているようである。拙速はやめるべきだろう。
 5枚目の写真は、ますます外国からの批判が強くなっている日中・日韓関係に関する記事である。これまで中国や韓国の反日教育に対して文句を言っていた日本が、尖閣諸島や竹島は日本古来の領土であると中学校・高校の教科書に明記すると決めたのである。これは相手側から見れば反中・反韓教育ということになり、これでまた、靖国神社参拝に加えて教科書問題においても相手側に格好の攻撃材料を与えたことになる。すでにこのブログで書いてはきたが、私とて文句を言いたいのである。あの戦争は侵略戦争だったと言わない、言えない安倍首相の本心がますます露骨にあぶりだされてしまうであろう。残念ながら、それはすでに日本版NSCや特定秘密保護法、また教育委員会制度改革をめぐる議論などに強く表れてきている。
 このように見てくると、文句ばかり言われる若い人たちの世界相手の活躍が目立つ一方で、われわれ大人のふがいなさが際立つ。さて私は今以上に何ができるのであろうか、と考え込んでしまうことの多い毎日である。

巨星墜つ! 南アフリカ元大統領ネルソン・マンデラ氏死去

  • 2013/12/10 15:15

 読売新聞12月6日夕刊は、「アパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃に導き、ノーベル平和賞を受賞した南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領が5日午後8時50分(日本時間6日午前3時50分)頃、ヨハネスブルグ近郊の自宅で死去した。95歳だった。」と報じた。そしてその記事の最後に「まさに巨星墜(お)つ。だが、マンデラ氏の95年の人生が、暗黒大陸と呼ばれたアフリカの未来に、誇りと一筋の光をもたらしたことは疑いようもない。」とも書いている。
 私にマンデラ氏を評する資格などないことは重々承知している。しかし今の時代、世界の至る所での内戦、東アジアにおける国と国の敵対関係、私たちの身近で日々当たり前のように起こる犯罪など、そこには怒りと敵意と恨みと報復と復讐が満ち溢れている。残念なことに、怒りに満ち溢れていたであろうマンデラ氏が27年間の獄中生活から掴み取っていた「善意」、「赦し」そして「融和」の心は、いまの世界に全く欠け落ちていると言っても過言ではない。そのことだけを心に刻みたいと思ってこのブログを書いている。
 私はスポーツが好きだ。マンデラ氏も好きだった。そして彼は、2枚目の写真の記事にあるように、1995年に南アフリカ共和国で開催された初めてのラグビーワールドカップを開催国南アフリカの優勝という、それ以上ないという劇的な形で成功させた。その有様は、クリント・イーストウッド監督による映画「インビクタス/負けざる者たち」(2009年作)に十分に表現されていて、ハラハラドキドキしながら観た覚えがある(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/117 )。
 このアフリカ大会については、2枚目の写真の記事にも書かれているように、ほとんど白人選手で構成されていた自国のチームをそれまでは決して応援することのなかった大多数の黒人を引っ張るように、彼は自らチームのユニフォームを着て先頭に立って応援したのである。それが抑圧の限りを尽くしてきた征服者の白人に対する赦しと融和の始まりであった。私はそんなマンデラ氏の姿を映画で見てただただ感激した。そして、その後の人種間の融和に向けて「真実と和解委員会」と言うこれまで考えられなかった和解の道に進んだのである。
 こんな人を我が国にも、あるいは隣人にも、そして近隣諸国の人たちにも欲しいものである。私の考え方からすれば、我が国はかっての太平洋戦争とそれに至るまでの様々な愚行をもって我が国の人々に対するだけでなく近隣諸国の人々を果てしなく苦しめてきた。しかし、それに対する反省から、その反省の度合いは低いと非難はされつつも、戦後の68年間平和国家として機能し、他国の人間を軍隊ではないとはいうものの自衛隊は決して殺してはこなかった。それは何物にも代えがたい重要な結果である。
 そんな日本に対してかって蹂躙され植民地化された隣国の目は相変わらず冷たい。国家間の条約と莫大な賠償金代わりの援助金を介してすでに国家間での和解は済んでいるはずにもかかわらず、相変わらず強烈な反日教育を繰り返しながらまっとうな話し合いに入ろうとはしない。それは何のためかははっきりしないが、国内引き締めのためのカードに使おうとしているとしか考えられない。
 このような立場をとる隣国の首脳のひとりは“被害者の恨みは1000年は続く”と豪語する。それこそ何のためであろうか。そんな言葉に対して日本側では蒙古襲来のことを持ち出す人もいるのである。そのような立場をとる限り、例えば緊張関係がある場合には少しも事態は改善されず、危険極まりない偶発的な事件の発生が心配される。些細な偶発的な、あるいはそのように見せかけた事件から大規模な戦闘に発展してきたのは歴史的事実である。そんな大事件に発展してしまうのは、上に述べた「怒りと敵意と恨みと報復と復讐」のみを背負って行動するからに他ならない。そんな指導者たちは、我が国にはかっての戦争を反省しない指導者が沢山いるからだと常々主張する。しかしそうは言いつつ彼らが現実に敵対しているのは、日本という国とそこに住む1億の人々に対してであることを忘れてほしくない。そんな行動はまた新たな「怒りと敵意と恨みと報復と復讐」を我々の側に生じさせるだけであり、その不幸な拡大再生産を繰り返すことを忘れてはならない。
 これまでもこれからも、不幸な国家間の、あるいは個人の間の敵対関係、あるいは戦争や喧嘩は上に述べたような「不幸な拡大再生産」の結果である。ここ数年前から頻発している新たな領土問題をめぐる挑発、あるいは日本の上空を横断して発射されたロケット実験による挑発、それらはことごとく現在の日本で見られるような積極的平和主義を唱える政権の誕生、その結果としての軍備強化、秘密保護法、日本版NSCなどの方向への動きにつながっている。また国内的には、悲惨な犯罪の増加が刑法をさらに懲罰的な方向に強めることにつながってしまっている。それはきわめて分かりやすいことである。この意味から言うならば、かっての民主党政権の政策は、その方向において間違ってはいなかったといえる。そのこともあって私は何度もこのブログで民主党政権に応援するような文章を書いたことを覚えている。
 その悪循環にくさびを打ち込むためには、特に指導的立場にある人たちが「善意」、「赦し」そして「融和」の精神で長年にわたる不幸な人種間の憎しみを乗り切れることを証明したネルソン・マンデラ氏に学ぶしかないのでないかと思われる。そんな信じられないほど大きな彼の追悼式には世界中から100名を超える首脳が集まったと報じられた。全く考えられない“巨星”墜つであった。

北九州の長崎・平戸・唐津を巡る-唐津から吉野ヶ里へ(2)

  • 2013/11/29 17:42

 唐津くんちの曳山を見てから1時間少しかけて、最後の訪問地の吉野ヶ里遺跡を訪れた。弥生時代の環濠集落として有名な遺跡であるが、私はほとんど知るところがない。そこでいつもの常とう手段であるWikkpediaに頼ることにする。
 「吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるものであり、1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。…(中略)…
 吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。
 内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。また、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘された。
 多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっている。」
 私のつたない知識によれば、この遺跡の時代である弥生時代というのが実はよくわからない。縄文時代の後紀元前3世紀から紀元後3世紀の間をさすようで、その時代に稲作を主とする定着しての農業を開始した時期とされていると思われる。しかし稲作は近年もっと早い縄文時代からすでに始まっていたとも言われており、その時代の定義ははっきりしない。その分からない時代の遺跡という意味ではやはり貴重な資料を提供する遺跡であるだろうと推測できる。その訳のわからない時代の遺跡が、上の文章にあるように「吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である」と思えるような形で出土したというのが当時の日本人にとっても、そして今回この遺跡を見た私にとっても衝撃的である。
 1枚目の組み写真にあるようにその造りは戦いに負けないような仕掛けである。この復元された遺構に目立つのは幾つもの物見櫓であり、自らの生活の場を護る柵、その外側に掘られた濠である。またその写真の左下に見られるように、柵の内側には「逆茂木(さかもぎ)」と言われるような、侵入を難しくするための鋭くとがった木を植えこんだ防御装置である。よく言われることは、農業によって富の蓄積と貧富の差が生じるようになり、それを護って生きるための戦いが始まってしまったということであろう。
 それらに護られて出来上がった集落には様々な建物が見いだされたようで、普通に想像されるような住居や高床式から2枚目の組み写真にあるような3階建てのようなものも推測されていて、それは祭祀のためのものとして展示されていた。そこにはそれぞれの復元された建物に「成人の住居」「市長の住居」「妻の住居」など極めて具体的に書かれていて少し驚いたので、近くにおられた係りの人に聞いてみたが、それほどの具体的な証拠はないというのが本音のようである。まあ、分かりやすく見てもらうためのひとつの仕掛けであろうと思う以外にない。
 でも、やはり驚いたのは甕棺(かめかん)であり、多くの出土品はそれに関するものであったことである。3枚目の組み写真の右上の写真は展示室に展示されている大小さまざまな甕棺である。実は甕棺というのは丁度大砲の弾のような形をしていて実は2つの甕をつなぎ合わせて棺になっている。この作り方には驚かされたが、甕棺は斜めに埋葬されていて、まず下の部分の甕に遺体を座る形で入れ、さらに上体部分にかぶせるようにもうひとつの甕をかぶせてその継ぎ目を粘度のようなもので封じ、最終的にその全体を埋めることで完成する。そのような甕棺が列をなして埋められているところが見つかっており、3枚目の写真の左の上下の写真である。
 実はその甕棺が列をなして埋められているところとは別に4枚目組み写真の左下のような墳丘墓と呼ばれる場所があった。そこには甕棺が14基まとめて埋められており、その剣のような副葬品から判断してもっと位の高い、たとえば首長の位の墓だったと思われる(4枚目の左上)。しかしそれも同様の甕棺で、その墳丘墓の中の甕棺はすべて本物のであった。3枚目の写真の右下のものも本物が復元されていた。
 4枚目の右上と下の写真はショッキングなもので、甕棺の中の遺骨に首から上がないことを示している。上の写真はそれを説明していて、残っている脚と腕の骨にナイフで切られて様な跡が残っていることから、この人は戦闘で殺され、首をとられたと説明されていた。これは墳丘墓の中のものではなく、列のように甕棺が埋めれれていた中のひとつに見つかったようで、それらは兵士の墓であったと推測されているようである。それにしても最初に引用したように、この遺跡の印象はやはり、「吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である」ということであった。このような社会の構築の形は実は今も全く変わっていないということなのであろう。人間全く賢くなっていないとつくづく感じてさびしいものである。

 今回長崎をスタートにして北九州西部を3泊4日で廻ってきたが、今回ほど見逃してきたポイントが多数あると後から感じる旅はなかったような気がする。できれば、再び今回のコースを再度楽しみたい気持であることを、ここに書いておきたい。

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