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北九州の長崎・平戸・佐賀を巡る-唐津から吉野ヶ里へ(1)

  • 2013/11/28 18:10

 今回の北九州西側の旅も終わりに近づき、最後の夜は唐津に宿をとった。何年か前にこの地に詳しい友人から呼子のイカ料理を食べるよう勧められ、それを食べるためにこの辺りまできたことはあるが、唐津に宿泊したことはなかった。夕食をホテルでとったが、思いがけなく烏賊の刺身とてんぷらを味わうことができて、初めて呼子で食べた美味しさを思い出して幸せな気分であった。
 朝起きて窓を開けるとそこに見えるのはきれいな砂浜と青い海であった。朝食の後浜辺を歩いて見た。きれいに晴れているかと思えばすぐに曇ってしまう気まぐれな天候ではあったが、比較的穏やかな雰囲気で、朝の散策を楽しむことができた。そのときの何枚かの写真を1枚目の組み写真とした。その浜から西北側を見ると遠くに海辺の高台に建っている形の良い唐津城が見られた。その写真が2枚目の組み写真の右下にある。
 ホテルを出て唐津くんち(唐津神祭 唐津神社の秋季例大祭)の曳山14台を見に曳山展示場に向かった。2枚目の組み写真にはその唐津神社とその近くから撮影した唐津城が見られる。唐津神社は丁度七五三の出店の後片付けの最中であった。その唐津くんちについてWikipediaは次のように言う。
 「唐津くんち(からつくんち)は、佐賀県唐津市にある唐津神社の秋季例大祭である。長崎くんち(長崎県長崎市)や博多おくんち(福岡県福岡市)と並ぶ日本三大くんちとされる。
漆の一閑張りと呼ばれる技法で製作された巨大な曳山(ひきやま)が、笛・太鼓・鐘(かね)の囃子にあわせた曳子(ひきこ)たちの「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声とともに、唐津市内の旧城下町を練り歩く。
 祭り期間中の人出は延べ50万人を超える(唐津市の統計による)。昭和33年(1958年)に曳山14台が佐賀県の重要有形民俗文化財に、さらに昭和55年(1980年)には「唐津くんちの曳山行事」が国の重要無形民俗文化財に指定された。豪華な漆の工芸品の曳山は、現代の制作費に換算すると1~2億円に上るといわれている。
 唐津神社の神職を務める戸川家の口碑によると、神輿の御神幸は寛文年間(1661年-1672年)に始まったとされる。今日の神幸行列のように曳山がこの祭りに登場するのは、一番曳山(いちばんやま)の「赤獅子(あかじし)」が文政2年(1819年)に奉納されてからのことである。以後、曳山は明治9年(1876年)までに15台が製作されているが、うち1台は消失し、今日奉納されているのは14台である。消失した曳山は紺屋町が製作した【黒獅子】で、明治22年(1889年)が最後の巡行となった。この原因には諸説あり、宵宮に提灯の火がつき消火のために堀に落としたところ、損傷が激しいために廃棄したという説もある。しかし、その時代に現在のような宵曳山行事はなく、真相ははっきりしない。」
 そんな曳山14台がきれいに展示されていた。型の上に和紙を何重にも貼って、さらに漆を塗りながら羽作り上げていくと言われる曳山の制作には2年と億単位のお金がかかり、2-4トンの重さになるという曳山はただただ豪華絢爛である。たまたま比較的きれいに撮れた8台の写真をお見せしたい。それが3枚目と4枚目の組み写真である。
 一応その曳山の名前を書いておくと、3枚目の写真の左上から下右上から下を順次書くと、「赤獅子」、「青獅子」、「亀と浦島太郎」、「渞義経の兜」。4枚目は同じく「上杉謙信の兜」、「竹田信玄の兜」、「金獅子」、「酒呑童子と源頼光の兜」である。まさに美しいと共に実にがっしりと造られている感じがする。私は京都に近いところに住んでいて京都の最大のお祭り「祇園祭」を楽しんでいる。しかし楽しむのは山鉾巡行ではなく、宵々山か宵山に四条あたりに出かけ、その喧騒と各町内に置かれて“動いていない豪華な山鉾”を楽しんでいるが、もし唐津の近くに住んでいれば、きっとその祭りに出かけビールを飲み歩いて華麗な曳山を楽しむことは間違いない。
 そんなことを感じながら今回の旅の最後の訪問地「吉野ヶ里遺跡」に向かった。

北九州の長崎・平戸・佐賀を巡る-九十九島から平戸へ(2)

  • 2013/11/27 11:53

 ザビエル記念教会を出て「松浦(まつら)史料博物館」に向かった。そのあたりは平戸の市街地という感じのところで、きれいに整備された心地よい感じの場所であった。そのチョットした高台にその史料博物館はあり、歴代の平戸藩藩主松浦家の所蔵品の展示館である(1枚目の写真)。入ってみて驚いた。なんとそこには膨大な数の資料が展示されており、私が見てもそのほとんどが貴重なものと感じさせるものばかりであった。聞くところによると、そのほとんどが複製ではなく実物であるとのことで、また紙に書かれたものが多いことから木造の展示室で起こりうる火災の危険を感じてしまう、そんな感覚を抱いてしまった。
 皆さんにお見せしたいものは数々あったが、写真を撮ってお見せするのはなかなか難しい。その展示品のかなりのものは第9代藩主で寛政の改革でも活躍した松浦静山(本名 清)の収集品や彼が模写させたもの、あるいは彼自身が書いた絵など、多彩な興味と才能をうかがわせるものばかりであった。Wikipediaにはその静山について詳細な記述があり、彼の生涯は非常に興味深いので一部分であるが出来るだけ詳しく紹介したい。
 「松浦 清(まつら きよし)は、江戸時代中・後期の大名。肥前国平戸藩の第9代藩主。平戸藩世嗣だった松浦政信(第8代藩主・松浦誠信の三男)の長男。母は政信の側室・友子(母袋氏)。官位は従五位下。死後に贈従三位。幼名は英三郎。号は静山。この号を合わせ、一般には「松浦静山」の呼び名が通っている。隠居後に執筆した江戸時代後期を代表する随筆集『甲子夜話』で著名である。大名ながら心形刀流剣術の達人であったことでも知られる。
 清が藩主となった頃、平戸藩は財政窮乏のために藩政改革の必要に迫られていた。このため清は『財政法鑑』や『国用法典』を著わして、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定めた。そして経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具・牛馬の貸与制度、身分にとらわれない有能な人材の登用などに務めている。…(中略)…
 文化3年(1806年)、三男・熈に家督を譲って隠居し、以後は執筆活動に従事する。清は文学者としても秀でており、文政4年(1821年)11月の甲子の夜に執筆を開始したということで有名な、江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』(完本は平凡社東洋文庫、全20巻)や剣術書『剣談』(野村克也の名言とされる「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はこれが出典で、清本人の発言である)など、多くの重要な著作を残している。
 特に『甲子夜話』は正編100巻、続編100巻、三編78巻に及ぶ大規模なものであり、内容は田沼意次時代から寛政の改革時代頃にかけての政治、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。なお、松平定信とは交友関係があったらしい。蘭学にも関心があったようで、静山が入手した地球儀が現在も松浦史料博物館に保管されている。一方で、史料博物館には戯作や黄表紙など卑俗な絵入り小説も多く含まれ、静山の多方面な関心が窺える。昭和初期の5度に渡る売立や、人を介して間接的な競売で散逸してしまったが、肉筆浮世絵を特に熱心に蒐集したらしく多くの名品をコレクションしていた。現在、大和文華館所蔵の国宝「婦女遊楽図屏風」は静山が新たに購入し、この屏風の別名「松浦屏風」もこの事に由来する。他にも勝川春章筆「婦女風俗十二ヶ月図」(MOA美術館蔵、重要文化財)や「遊女と禿図」(東京国立博物館)、鳥文斎栄之筆「朝顔美人図」(千葉市美術館)などの優品が静山の旧蔵品として知られている。天保12年(1841年)、82歳で死去した。
 清は17男16女に恵まれた。そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのである。」
 そんな静山を生み出した平戸藩藩主松浦家の展示品の幾つかを紹介したい。2枚目の組み写真はシーボルトの「NIPPON」発行の100年ほど前に出版されているワインマンの「顕花植物図譜」を静山が輸入させたものらしい。また、鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」を江戸で模写させたものも組み写真に入れた。3枚目には水戸藩徳川斉昭が書かせたと言われる、静山を含む当代の3人の有名人を集めての絵、さらには静山自筆のコミカルな河童の絵をご覧いただきたい。なんと三味線や琴を楽しんでいる。最後の組み写真では、狩野探幽の三幅対の真ん中の絵を入れ、さらに平戸藩が戊辰戦争において明治政府の援軍として東北に出兵したことも分かるようにした。
 それにしてもこの史料博物館は、私にとっては驚きの連続で、当時の日本を牛耳っていたのは薩長はもとより九州の西端の地の平戸藩も日本の政治に大きな影響力を持っていたのだと思い知ることになった。そのようなことが分かってくると、開国以来の史跡がたくさん残るこの地域を再度訪れる価値があると強く感じるようになったし、静山の書いた「甲子夜話」なる随筆もちょっと読んでみたい気もしてくる。

北九州の長崎・平戸・佐賀を巡る-九十九島から平戸へ(1)

  • 2013/11/27 10:36

 長崎県は想像することが殊の外難しい地形である。ハウステンボスを出て北松浦半島の西側を北に走ると複雑な地形の中に沢山の島々が見えてくる。それが西海国立公園に属する九十九島である。この島々を見る絶好の場所として知られるのは「展海峰」と呼ばれる高台で、それは北松浦半島の西側から水滴のように垂れ下がっているちょっとした島のようなところの高台にある。そこから眺めた景色が1枚目の組み写真で、まだらに日が当たっていてあまりきれいには撮れていないが、雰囲気はお分かりいただけると思う。目を右に転じるとそこは佐世保港で、自衛隊のであろうグレーの艦船が見える。なお、その組み写真の右下には大きなカブトムシのオブジェがみえる。この近くの田平町は昆虫の虫の町として頑張っているようであるが、時間の都合で立ち寄ることができなかった。
 このブログを書こうとしていた今朝、NHKBSプレミアムで「新日本風土記」を放映しており、まさかと思ったがそれは壱岐、対馬そして五島列島を含めた長崎県の島々をまとめた「長崎の島々」であった。それによれば、長崎の島々は971、そのうち人が住む島は72、その1/3は人口100人以下の島々であるとのことであった。そこに映し出されたのは、厳しい自然の中で無人島にしないことを目指して頑張る人々や、漁に出てひと月6日しか帰島しない島を守る女性たち、そしてフランシスコ・ザビエル以来の多くのクリスチャンが住む島々の話であった。そんな献身的な役割を果たした彼を記念した教会を目指して平戸に向かった。
 平戸大橋を過ぎるとそこは平戸島で、ほどなく落ち着いたモスグリーンに輝く平戸ザビエル記念協会に着いた。きれいで清楚な感じの教会(2枚目組写真)で、中に入ってみると何かの当番に小学生の名前がウィークデイにもあてられていた。今朝見たテレビ番組でも五島列島のある島では子供たちが登校前に教会に集まってお祈りをする姿が出ており、この地域では教会が生活の中に入っていることを実感した。そのきっかけを作ったのはフランシスコ・ザビエルであるが、しかしそれはまたある時代には多くの殉教者を生み出すきっかけでもあり、悲惨な歴史的事実である。その殉教者たちについての言葉が3枚目の写真である。
 なお、2枚目の組み写真に右下に瑞雲寺と光明寺という二つのお寺のあいだからザビエル記念教会が見える写真がある。それほどまでにキリスト教と仏教が共存していることの証ということで、このような風景が見られる場所を平戸市は丁寧に案内してくれている。地元の人に聞くと、平戸市は“おもてなし”の心を最近非常に大事にしているとのことで、観光客にはうれしい限りである。

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