エントリー

濃い緑の福井平野を走って650キロ (1)越前大野城と恐竜博物館

  • 2013/07/03 17:23

 梅雨入り宣言後しばらくそれを忘れてしまったような天候が続いていたが、やはり天は忘れていなかったのかと思わせる気まぐれ梅雨の6月末、雨の間を縫って福井を訪れることになった。私は福井にはこれまで一度訪れたことはあったし、また通ったこともあったが依然として未知の国である。今回は1泊2日の急ぎの旅であったが、緑一杯の山々と田植が済んで緑のじゅうたんの美しい福井を走り廻ることになった。まずは北陸自動車道から東に入った大野市の越前大野城を訪れた。
 そのお城は四方を山に囲まれた平坦な地に突然立ち上がっている亀山という山の頂上に建っていた。車で走っていても感じたのだが、この福井の地は織田一族の出身地のようで、そんなことも関係するのかこの大野城の城主は豊臣一族の影響下にあったらしい。1枚目の写真は再建された城の写真である。しかしこの城は個人の寄付によるもので必ずしも正確に史実に基づいているとは言い難いようである。それでも、石垣はそのまま使われており、それなりの体裁は整えられている。この地は岐阜に近く様々な交流があったようである。その岐阜・郡上八幡の方面を天守閣から眺めた写真を左下に置いてある。また右下の写真は麓から亀山の山頂のお城を撮った写真である。
 大野城のパンフレットによれば、第12代城主には徳川幕府の大老として権勢を誇った土井利勝の4男の利房が入り、情勢が大きく変わったようである。その6代後の土井利忠(2枚目写真の銅像)の時代になって大掛かりの藩政改革が行なわれ、悪化していた藩の財政改善に藩の特産品を売り出すための商店である「大野屋」を各地に開業するなど思い切った改革を断行した。また藩士の教育改革も積極的に行い、大坂の適塾から医師を呼び医学の勉強にも取り組み、そのために明倫館や洋学館を設置して藩士の意識改革にも取り組んだとされる。当然のようにそこに向かって各地から多くの藩士が訪れたようである。彼が行った改革は2枚目の組み写真の看板に書かれており、砲術を学ぶことによる武力の増強や、内陸の城主であるにもかかわらず蝦夷地の開拓や樺太の開拓にも乗り出し、そのためにトップクラスの帆船の建造を行いその航海に役立てたという。その時代のわが国の津々浦々には、勉学に意欲を持つ若者や進取の気風に溢れた者たちが沢山いたことにただただ驚かされる。
 2枚目の写真の右下のものは、上に述べた「大野屋」を現代に生かそうと「平成の大野屋」として「結楽座」をつくり、それで大野市の活性化を目指すもので、その周囲もそのために整備され時鐘(時計塔)も復元されていてその意気込みを感じさせる。私たちはその近くで昼食をとり、次の目的地の「福井県立恐竜博物館」に向かった。
 目的の博物館に近づいてきたとき、突然田圃の中に真っ白な巨大な恐竜像(ティラノサウルス?)が現れて驚かされた。それが3枚目の写真であり、右側に小さく見える銀色のドームが博物館そのものである。つなぎの道路を通って博物館に到着すると驚くほど広大な駐車場が整備され、巨大な恐竜模型をいただく銀色の円形ドームが待っていた。そのつなぎ道路などの斜面には化石の埋没状況を暗示するような展示も行われていた(4枚目組写真の左下)。
 さて、博物館に入ろうとしてうれしいことがあった。もともと県立ということもあるのか入場料は700円と安いが、なんと70歳以上は福井県民でなくとも無料であった。暖かい心遣いである。中に入ると想像以上に巨大で、一番下の階まで一気にエスカレーターで降りるとそこには巨大な恐竜の動く姿があった(4枚目右下)。私もそれに見とれたが、それを見た子供が泣き叫ぶ姿が可愛くもあり、またその模型の出来栄えを表しているように思えた。
 展示場は円形でらせん状に作られており、多彩な恐竜の化石や復元標本のレプリカが世界中から集められており、その展示の質と量は世界的に有名であるとのことである。5枚目組写真左下の巨大な復元された骨格像(イグアノドン類)は、この写真からは分からないがその90%以上は実物の化石から組み上げられたもので、そんな巨大な生き物が跋扈していた世界をイメージする助けになるものである。
 その5枚目組写真の左上の美しい骨格復元像は、この博物館のある勝山の手取層群から発見された化石から復元されたもので、確かイグアノドン類のフクイサウルス?だったと思う。これ以外にもこの地域で発掘された恐竜化石が多く展示されていたが、フラッシュなしで撮影した映像からそれを特定してここに載せるのは私には難しく、お許しいただきたい。なお、5枚目の写真で右下にあるのは、椎骨の棘突起が著しく伸びた小型恐竜の化石からの見事な復元像で、その向こうに見えるのはその恐竜の生きている姿の復元であった。
 とにかく、化石や骨格を再構成したものの無数の展示があり、ただただ圧倒されるだけで、それを頭に入れておくことは難しい。どのようなものが展示されていたかをわずかに示すために5枚目の写真を用意させてもらった。沢山の写真からそれらの写真を選んだ根拠は特になく、ただ美しく撮れていたからというだけと言った方がよいであろう。それにしても、この博物館はその量と質は素晴らしいようだと感じることはできた。残念なのはそれに追いつけないこちらの頭の問題であろうか。
 これが簡単な報告であるが、皆さんもぜひ一度行かれてはいかがであろうか。土曜日ということもあったであろうが、駐車場の車のナンバーを見ていると中部、関西そして関東から沢山の家族連れが来ていた。発掘はまだまだ続いていて新しい恐竜化石が続々と発見されていることから、これからますます人気が上がってゆくのだろうと思う。
 なお私は先月大阪市立自然史博物館で開かれた、ゴビ砂漠で発見された恐竜化石の展覧会を楽しんだ(http://www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=196 )。

中山道の旧醒井(さめがい)宿を訪ねる

  • 2013/06/19 18:09
 以前から醒ヶ井のことは少しは知っていたし、かって高槻から原チャリで名古屋まで帰った時にはそこを通ったことをよく覚えている。しかし、そのときもマスの養鱒場は国道からはかなり山奥に入るためにそこまで入り込むことはありませんでした。今回醒ヶ井に行こうと思ったのは、美しい川の中に咲いている梅花藻の花がここしばらくテレビ画面で幾度となく流されたからでした。
 そこで早速6月の第3週に出かけました。高槻駅からはJRの新快速に乗って米原まで1時間ちょっと、そこから東海道線大垣方面への電車に乗り換えてわずか1駅で醒ヶ井に到着です。その醒ヶ井は過去に中山道の醒井宿の名残を強く残していると言われる。その醒井宿についてWikipediaは次のように言う。
 「醒井宿(さめがいしゅく、さめがいじゅく)は中山道61番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は滋賀県米原市。古代からの交通の要衝であり、『日本書紀』の日本武尊伝説に登場する「居醒泉」(いさめがい)が醒井の地名の由来であるといわれる。豊富な湧き水があったことが、旅人の休憩場所として最適の条件であったことは間違いない。今も地蔵川の清らかな流れが町を潤している。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、醒井宿の宿内家数は138軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒で宿内人口は539人であった。」
 その醒井宿の趣きを維持しながら見事に整備された旧中山道の民家沿いや、その脇の地蔵川沿いにはサボテンの花やザクロの花などが品よく並べられており、また川面に咲く白く名前のわからない花々が訪れる者の気持ちを和ませてくれる(1枚目の写真)。またその上の石橋には多くの鉢が置かれ、見事な風景であった。その中のひとつに面白いカフェがあった。それはいま評判のNHK放映の、自転車で人々の故郷を廻る火野正平の「こころ旅」で、彼ら一行がその店を訪れてそこで一息を入れた場面で知られていた。私もその放映を見ていた。そこはきれいな湧水で入れた美味しいコーヒーをわずか100円で提供してくれ、お茶はダダ、ほとんどのものは100円硬貨1枚ですむ珍しいカフェであった。私たちもそこで一服し、アイスコーヒーやわらび田楽をそれぞれ100円でいただき、その店長の心意気を楽しんだ(2枚目の写真)。なお、その組み写真には、醒ヶ井を有名にしている養鱒場(今回は行けなかった)で育てられたマスの甘露煮の写真が入れてある。それは駅の近くにあるお店で作られていたもので、帰って食べてみて実に美味しかった。皆さんに自信をもってお勧めする。
 その街道沿いには面白い銀杏の木があった。それは了徳寺というお寺の境内に建つ巨大な銀杏の木で、それが3枚目の写真である。天然記念物である珍しい銀杏の木で、できれば看板を読んでいただきたい。また、その銀杏の木についてのウェブサイトには次のように言われている。「『了徳寺のオハツキイチョウ』。幹周/4.4m、樹高/25m、樹齢/150年 イチョウの前にある『御葉附銀杏(おはつきいちょう)』の説明板では、幹周は2.5m、高さ12mです。地上には足の踏み場もないほどに銀杏(ギンナン)がいっぱい落ちていました。でも『お葉つき』をしばらく探しましたが残念ながら見あたりませんでした。オハツキイチョウとはイチョウの変種で、葉の上(葉の縁)にギンナンが実るという珍しいものです(http://www.guitar-mg.co.jp/title_buck/25/ryotokuji/ohatsuki_icho.htm )。」
 私も同様に銀杏が葉っぱに付いている写真は撮れないかと探し回ったが、まだ時期的にも早いことや、木の高さが非常に高いことから望みの写真を撮ることは梯子でもない限り容易ではなかった。やっとの思いで撮った写真を見て分かることは、葉っぱの色が普通のイチョウとはすごく濃いことと、銀杏と思われる写真も撮っては見たが、それが葉の縁から出ていることを証明するまでには至らなかった(3枚目の写真)。でも、それはそれなりに私には面白い発見ではあった。そんな葉っぱに実った銀杏をいつの日か見てみたいものである。
 最後の2枚のコラージュはお目当ての梅花藻の写真である。梅花藻【キンポウゲ科】とは、水温が年間を通して14℃前後の清水に群生する多年草の水草で、5月中旬~9月頃にかけて梅の花に似た小さな花をつける。見頃は7月中旬(梅雨明け頃)~8月下旬(http://www.biwako-visitors.jp/search/event_445.html )。
 4枚目と5枚目の写真は、異なる場所での花を撮影して組み合わせたものである。この辺りは湧水が豊富で、地元の人に伊吹山からの伏流水かと聞いてみたがどうもそうではなく、鈴鹿山系からのもののようである。すぐそばに名神高速道路が走っているが、よくぞその水脈が途切れなかったものだと感心した。同様の湧水のことは水が命のサントリー山崎蒸留所についてもいつも感じるが、あそこの水脈もよくぞ守られたものだと思う。
 そんなことはともかく、本当にきれいで希少生物であるハリヨやシラハエなどが生息している地蔵川には沢山の梅花藻の花が咲いていた。まだ満開ではないが(満開は7月~8月)、奇麗な水から出て、また水中に咲いている白い小さな花は全く美しい。ひとつひとつというよりは全体としての美しさを感じるので、あまり拡大した写真ではないが、是非皆さんは醒ヶ井を訪れてお楽しみいただきたいと思う。花はこれからである。

二つの美術展、ひとつの恐竜展のメモ

  • 2013/06/15 14:46

 私は芸術的センスのない男だが、でもいいものはできるだけ沢山見ておきたいと思い、そのためしばしば美術展を観に行く。まずはリヒテンシュタイン侯国の「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展についてメモっておこう。
 リヒテンシュタイン公国(あるいは侯国)は西ヨーロッパに位置し、スイスとオーストリアに囲まれた小国で人口わずか3万人強の立憲君主制の国である。その国のコレクションを日本で展示する主催者の朝日新聞のウェブサイトは次のように言う。
 「オーストリアとスイスの間にあるリヒテンシュタイン侯国。同国の国家元首であるリヒテンシュタイン侯爵家は、優れた美術品収集こそが一族の栄誉との家訓のもと、500年以上にわたってヨーロッパ美術の名品を収集してきました。その数は3万点に及び、英国王室に次ぐ世界最大級の個人コレクションといわれています。本展では同コレクションから名品を選りすぐり、日本で初めて公開します。世界屈指のルーベンス・コレクションからは、愛娘を描いた《クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像》などが来日。ラファエッロ、クラナッハ、レンブラント、ヴァン・ダイクをはじめとする巨匠たちの名画や、華麗な工芸品が一堂に並びます。」
 その「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」を用いたのが展覧会のチケットである(1枚目の写真の右部分)。展示品は絵と工芸品の両方がある珍しい展示で、私の目から見ればどれも素晴らしいものばかりであった。その中でも私を驚かせたのはルーベンスの「果物籠を持つサテュロスと召使の娘」(1枚目の写真の左部分)に見る光り輝くブドウの描写である。絵の描けない私にしてみれば、どうやればあんな絵が描けるのだろうとただただ不思議である。その超絶技巧とは別に私を感激させたのはフランス・ハルスの「男の肖像」の、何とも言えない、しかし重苦しくはなく、ただただ堂々とした圧倒的な存在感のある肖像画である(2枚目の写真)。とにかくどれをとっても素晴らしい作品ばかりであった。
 二つ目の美術展は「ボストン美術館 日本美術の至宝」展である。大阪市立美術館のウェブサイトは次のように言う。
「東洋美術の殿堂と称されるアメリカのボストン美術館は、世界随一の在外日本美術コレクションを誇り、国内でいうところの国宝・重要文化財級の優品も数多く所蔵しています。そのコレクションは、明治時代に教鞭を執るために来日し、後にボストン美術館日本美術部長となったフェノロサ(1853-1908)や、彼とともに東京美術学校(現東京藝術大学)設立に尽力し、後にボストン美術館にも在籍した岡倉天心(1863-1913)などによって形成されたものです。本展では、フェノロサ、日本美術収集家であったビゲロー(1850-1926)の優れたコレクションを含む日本美術の名品をこれまでにないスケールで紹介します。」
 この展覧会では残念ながら気に入った絵のはがきを買ってこなかったために皆さんにお見せすることはできないが、それはそれは素晴らしいものが山のようにありました。保存が本当に素晴らしくユーモアも溢れた「吉備大臣入唐絵巻」、長谷川等伯の「龍虎図屏風」、思い切ってグリーンを多用した尾形光琳の「松島図屏風」、曽我蕭白の「雲龍図」(3枚目の写真のチケットに部分的に見える)や「鷹図」など圧倒的であった。前回に長谷川等伯について書いた時にも思ったが(http://www.unique-runner.com/blog/diary.cgi?no=19 )、このような作品群が海外に流失したのは廃仏毀釈などの影響が大であろうが、それでも理解することは難しい。また、印象派の画家の多くを知ってはいても、我が国にいた多くの多才な画家や仏像師などの存在を私たちはそれほど知ることなく過ごしてきたことは異常でもある。丁度、敗戦後に私たちを含めてそれ以降の世代が近代史の教育を全く受けてこなかったことと同様で、何かが欠けているような気がして嫌な気分である。チャンスがあれば今後もできるだけ観ておきたいと思う。
 最後は大阪市自然史博物館における「発掘!モンゴル恐竜化石展」である(4枚目の写真)。この博物館では前回巨大な海獣展を観たが、今回は恐竜である。どんな種類のどんな大きさの恐竜がモンゴルのゴビ砂漠(もとは必ずしも砂漠ではなかった)を跋扈(ばっこ)していたかを、目の前の様々な化石から想像することができて楽しかった。その恐ろしい恐竜の姿に比べてその頃からひそかに始まっていたちっぽけな哺乳類の姿は痛々しかった。しかし、いまや立場は逆転したのである。その原動力はいまだ不明だが、それが“進化”である。最後の写真は巨大な骨格化石の恐竜であるが、その名前はタルボサウルス。写真は一緒に恐竜展を楽しんだ菅原氏からいただいたもので、ここに感謝の意を表したい。なお、モンゴルでのこのような発掘作業に大金を投じてきた林原のメセナ事業に大いなる拍手を送りたい。

ユーティリティ

<<<2025年09月>>>

1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

過去ログ

Feed