エントリー

奈良“西ノ京”を歩く

  • 2013/06/13 09:36
 梅雨入りと言われながらほとんど雨の降らない週末の6月8日、いつものように山の神先導で近鉄西ノ京駅そばにあり、世界文化遺産に登録されている唐招提寺と薬師寺を訪れることにした。京都駅から近鉄に乗り換えて確か50分弱で西ノ京駅に着き、そこから徒歩で10分も歩けば初めて見る唐招提寺があった。唐招提寺と言えば鑑真和上とつながるが相変わらずその内容は空白で、いつものようにWikipediaにすがるしかなかった。Wikipediaは唐招提寺と鑑真について次のように言う。
 「唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有する。唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
 『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の『招提』は、サンスクリット由来の中国語で、元来は『四方』『広い』などの意味を表す語であったが、『寺』『院』『精舎』『蘭若』などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、『唐僧鑑真和上のための寺』という意味合いである。
 鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。
 鑑真は仏教者に戒律を授ける『導師』『伝戒の師』として日本に招請された。『戒律』とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき『規範』『きまり』を意味し、一般の仏教信者に授ける『菩薩戒』と、正式の僧に授ける『具足戒』とがある。出家者が正式の僧となるためには、『戒壇』という場で、『三師七証』という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、『具足戒』を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。
 こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。
 遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。」
 こうして来日した鑑真は東大寺での5年間に戒壇を整備し、後にこの唐招提寺を建立したとされる(1枚目の写真)。初めて見る唐招提寺金堂は簡素なたたずまいで、しかしおきな柱が立ち並ぶちょっと変わった建物で、パンフによればギリシャの建築様式がシルクロードを通って日本まで伝来した様式であるという。そして巨大な廬舎那仏坐像、薬師如来立像そして十一面千手観音菩薩立像が観る者を圧倒していた。当日は鑑真和上坐像が特別公開されていたのでその参拝に御影堂という建物にむかった。これも簡素な建物でそこに鑑真和上坐像が置かれており、それを参拝させていただいた。そこには東山魁夷が描いた襖絵などがあり、それも鑑賞することができた。それにしても、5回の渡航失敗にめげず、6度目にやっと来日した鑑真の仏教伝来にかける執念にはただただ驚かされる。私の友人に10度のベトナム脱出を試みて失敗し、やっと11度目に渡米を果たした家族がいる。突き動かすものが違うとは思うが、ひとはそこまでできるのだと知ることは大切なことであろうと思う。

 唐招提寺を出て10分も歩けば薬師寺である。私は二度目であるが、調べてみると面白いことがいろいろある。しかし、ブログとしては長すぎるのでほどほどにしたい。薬師寺についてのWikipediaの記述を短く拾うと次のようになる。
 「薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇、道昭、義淵である。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は山田法胤である(2009年8月着任)。
 薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。」とある。
 2枚目の写真は、世界文化遺産登録の印と與楽門とそれを通してみる大講堂とそこに納められている薬師如来の台座である。その台座の四面には白虎などの守り神が彫られている。3枚目は金堂と西塔で、いずれも新しい建物である。実は平城京に移転された薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の兵火で多くの建物を失った。創建当時から残っているのは東塔だけだと言われ、現在は7年かかりでの解体修理が行われている。それが見られるのは2018年である。
 4枚目の写真の上部分の左に高い囲いに囲まれた建物がある。それが東塔を収めているものである。下の部分はたまたま修学旅行の中学生に若いお坊さんが薬師寺についての講義をしているときの写真である。このお坊さんは話上手で、ユーモアを交えて軽妙に生徒に語りかけ、我々のような一般の人もたくさんそれに聞きほれていた。ここまでに薬師寺の本尊・薬師如来などについては写真を撮るわけにはいかないので何も書いてないが、言うまでもなく、その姿は何も言う必要がないほど美しい。この像の説明をしているのが写真の下部分である。彼曰く、薬師如来はお医者さん、日光菩薩は昼間に働く看護師さんで月光菩薩は夜寝ずに働く看護師さん。“皆さん寝ずに私たちの面倒を見てくれているんですよ”との言葉はなかなか説得力があった。さらに“塔”という字は土と草に出会うところでお墓、日本の“衣裳”はツー・ピースを表しているなど沢山面白い話を聞かせていただいた。感謝の一言であった。
 最後にこの二つのお寺ですごく気になったものがあった。アルバイトのお姉さんに聞くと、それは“シビ”であるという。ネットによれば「鴟尾(シビ)瓦と言います。棟の両端を反り上げる後漢の頃の様式が装飾として変化したもので、その後、鯱(シャチホコ)に変化します。恐らく、金色に塗られるのかな?金箔?」(http://blogs.yahoo.co.jp/arc3391/50388530.html )。それが最後の写真で、左上と右下が唐招提寺のもので、右上と左下のが薬師寺のものである。

わたしの弱点である「ふくらはぎ」の故障防止策を考える

  • 2013/05/19 15:49
 私は長距離を走り出してから20年程になるが、腰やひざは安定しているが2年に一度はふくらはぎに故障を起こしている。今年も2月に法隆寺ハーフで転倒して肋骨を骨折し、その回復途上にふくらはぎに軽い肉離れ(と思われる)を起こした。軽いといっても、いつものことだが、治りかけて走り出してはまた再発させる悪循環をを繰り返すと結局1か月から2か月と言うかなり長い故障になってしまう。全く悩ましく、本当に嫌になることの繰り返しである。
 どうしたらこれを食い止められるかと長い間考えてきたが、名案は浮かばず、ひょっとしたらキネシオテープを使うことかな、と考えて本まで買って読んではみたが、なかなか本格的に実行するには至らなかった。その最たる理由は、キネシオテープの効用についての説明で、私を納得させる内容は明確には見つからなかったからである。
 そんなとき、4月28日の読売新聞に大阪マラソン関係で面白い記事を発見した。それは、和歌山大学の本山教授を取材して書かれていたもので、キネシオテープと思われるテープを腰や太もも、膝、ふくらはぎ、足首などに貼ってマラソンを走ったランナーの場合、貼らなかったランナーとは筋の破壊が大幅に減少すると書かれていたのである。その記事は、ふくらはぎと膝のお皿の下へ貼ることを強調していたことからその部位への効果が大きいと私には感じられた。しかも、その効用は走行中の筋肉や関節の「ぶれ」を抑えることと保温効果もあるのではと書かれていた。私はこの「ぶれ」抑制という考え方が実に新鮮に聞こえた。なぜなら私のふくらはぎ故障は、寒い時期でなくても起きるからである。
 この説明に特に魅かれた理由は、私の経験による。私はレースにはほとんどの場合ワコールのCW-Xという下半身全体を覆うコンディショニングウェアを着用しており、これまで一度もレース中にふくらはぎ故障を起こしたことがないことが理由である。しかし、レースではなく通常のトレーニングで走る場合にはそのウェアは面倒なこともあって着用しないが、そんな時に限って故障を起こしてしまうのである。さらに、私のふくらはぎはほかの人に比べて大きいことも「ぶれ」が強く私の興味を引いた理由である。
 キネシオテープを貼ることは筋肉のブレ防止につながるとの主張に魅かれた私は、未だ回復が十分でない左ふくらはぎを実験台にしてテーピングの効用を確かめようとした。この左ふくらはぎは治りかけては再発を繰り返している部位で、左だけではなく右ふくらはぎにも同様に貼ることにした。貼り方については、写真のように75ミリ幅テープ1枚を腓腹筋に貼る場合と、その1枚を端5センチを除いて真ん中で切ってアキレス腱から腓腹筋に沿って上にV字型に貼る場合の二つの貼り方を試した。また、V字型に貼る場合には幅40ミリ程度のテープを切らずにそのまま張ることも試みた。
 結果は、いずれの貼り方の場合も右ふくらはぎについては問題はなく、左ふくらはぎについては違和感の感じ方が遅れ、貼らない場合に比べて安心して走れる時間が伸びることは明らかである。しかし問題はある。しばらく走っているとまだ回復途上ということがあるのであろうが、腓骨とヒラメ筋との境(あるいは腓骨筋とヒラメ筋との境)に強い違和感が発生した。あるいは別の時には脛骨とヒラメ筋との境あたりに同様の違和感が発生した。そこで、思い切って右ふくらはぎに貼ってあったテープをはがして左ふくらはぎの違和感のある場所に沿って縦に貼ってみると、直ちに違和感が消失した。このことは、テーピングが筋肉の動きにかなり強い影響を与えていることを示していてすごく興味深い。なお、この違和感消失は、私の場合には、少なくともテープの保温効果ではないといってよいと思われる。
 これは二度同じことを経験したので、ふくらはぎへのテーピングはかなりその位置が微妙で、貼る位置によっては筋肉のブレ防止に差が生じて新たな違和感や肉離れなどの発生がありうると感じている。もちろん、私の実験台が回復途上のふくらはぎであったことも原因であろうが、その全面を均等に貼ることが必要なのかもしれない。あるいは、私の使ったテープが本山教授が使用したテープとは違っているのかもしれない。これは検討課題である。
 そこで私がとった処置は、テープの代わりにふくらはぎ用の「レッグカバー」(「カーフサポーター」あるいはふくらはぎの「スパッツ」?)を履くことであった。メーカーはいくつかあるが、私が買ったのはTIGORAのもので、これを履いて走ってみるとテーピングの不均一を特に気にすることもなく、安心して走ることができた。履かない場合と履いた場合を改めて注意深く感じてみると、履いた場合には明らかにふくらはぎの「ぶれ」を防いでくれているようである。ここ数日、連日のようにレッグカバーを付けて走り続けているが、ふくらはぎの違和感は完全に治癒したと実感している。
 今回の読売新聞の記事は私にとっては非常に貴重で、ランニング中の筋肉の「ぶれ」が故障に大きな意味を持っていると思っていなかった自分を恥じている。そのことを頭に入れてコンディショニングウェアなどの説明書を見ると、そのようなことが書かれており、意識されていたのだと分かる。しかし、それがどの程度に重要であるかは確かなデータをもって語られていないようで(会社のデータだからか?)、その意味でも和歌山大学の本山教授の研究から多くの貴重なデータが出てくることを強く希望している。

こんな政治家ばかりを持っている日本国民は悲惨だ!

  • 2013/05/17 16:02

 ここ数日の橋下大阪市長関連のバカバカしい、また大変失礼な慰安婦問題への発言をみて、1か月半ほど前の大阪市職員への政治活動調査に関する彼の発言をまた思い出した。それが1枚目の写真である。記事は読売新聞3月25日の夕刊である。
 それは大阪市が市職員の政治活動に関して市特別顧問野村修也弁護士らに委託して2012年2月に行った調査に関するもので、市職員労働組合連合会側が大阪府労働委員会に救済を求めたものである。そして結果は、極めて異例な「市による組合に対する支配介入に当たる」として、市にそのような調査は行わないことを誓約せよと府労働委員会から命令されたのである。
 このことについて読売新聞は「不当労働行為が認定された労使関係は明らかに不健全だ」と断罪し、橋下市長は「大変申し訳なく思っている」と命令の受け入れを表明した。ところがである。翌朝市長は、その表明を撤回し、こんなことで組合に大きな顔をされてはたまらないと述べ、異議申し立てに至った。
 次は別の人である。東京都の猪瀬知事はニューヨークで4月26日記者会見を開いて東京招致を宣伝したあと記者団の質問に答えた。そこでトルコの候補都市に関して「イスラム諸国は互いに争いばかりしている」「トルコの人たちが長生きしたければ、日本のような文化を作るべきだ」などと禁じられている他都市の批判を述べたと言う。ニューヨーク・タイムズから明確に批判されて後もツイッター上で強気なことを繰り返していたようで、彼は以前から危うい発言を続けていたと都幹部が述べていたと読売新聞は報道している(2枚目の写真)。このような発言から判断すると、我々の周りの政治家には多様な価値観に対する配慮がなく、おごりのようなものを強く感じ、驚きを通り越して極めて不快である。
 続けざまで恐縮であるが、またまた橋下市長の慰安婦問題に関する発言である。その発言について少しまとめたような紙面が5月17日の読売新聞朝刊の記事である。3枚目と4枚目の写真である。4枚目の写真の一番上に「あれだけ銃弾の飛び交う場で、命かけて走っていくときに、そんな猛者集団、精神的に高ぶる集団を、やっぱりどこまで休息じゃないけど、そうゆうことをさせてあげようと思ったら、慰安婦制度、必要なのは分かるわけです」とある。そしてこの文脈の延長線上で沖縄米軍に対して、沖縄女性への性犯罪防止のために「風俗業の活用」を「進言」したのだと言う。
 橋下市長に言われなくとも米軍基地の周りには風俗業の店が集まることぐらい司令官は分かっているし、人権問題との関連で性的犯罪を減らすことに多くのエネルギーを割いている人たちに対して「風俗業の活用」を説くとはどうゆう神経なのだろうかと、ただただ唖然とするだけである。「活用」されれば多くの沖縄の女性が「活用」されることになるのは当然であろう。そんなことが分からないのであろうか。そして、問題の多い大阪市の職員の犯罪防止にも同様に「風俗業の活用」は有効であるとも述べている。全く神経が分からない。あの「みんなの党」の渡辺代表が「コメントの価値なし」と切り捨てたのも当然であろうか。
 これまで橋下市長は度々危うい発言を繰り返し、間違っていれば謝罪すればよいと繰り返してきた。彼には止まってよく考えて発言するという習慣がないのであろうか。口からでまかせで語っているように見える。彼は元弁護士でその職業上絶えず間髪をいれずに相手に応答する術を身につけてきたのだろうと思うが、逆に言えばじっくりと考えて発言するという、政治家として最も大切で基本的な術を鍛えてきてはいなかったように思う。そのためか、彼の発言には弱者に対する思いやりに欠け、ペイすることのないイベントや文化事業、また労働者に対しては著しく厳しい対処が見られる。
 このような人物の振る舞いは、安倍首相の発言や閣僚の靖国神社参拝、さらにタカ派として有名な石原元都知事の後任である猪瀬都知事の不適当極まりない発言と相まって、日本の右傾化を韓国や中国のみならず、アメリカなどにも強く印象付けることになるのであろう。安倍首相なども彼の発言がアメリカから強い反発を受けたりするとすぐに軌道修正をするようであるが、なにを考えて一つ一つの発言をしているのであろうか。かれらは国を背負っているという意味をはき違えているのではなかろうか。強がりを言っていれば国の利益は守られるとでも考えているのであろうか。かって日本は明らかにアジアにおいて「侵略と植民地支配」を行ったのである。自国民を入れて1000万人以上の死者を出した戦争の責任者である。そのことをなぜもっと謙虚に考えないのであろうか。腹が立つ。こんなことを繰り返していると、尖閣問題などで頼りにしているアメリカもどっちを向くかは知れたものではない。
 これを書いていてちょっとネットを見ると、なんと「日本維新の会」の西村真悟衆院議員が今日の午後の代議士会で「日本には韓国人の売春婦がうようよいる」と発言したようである。そして離党するらしいが、政治家を辞めて当然である。しかし問題は、何かあるとそんな発言するような政治家がぞろぞろいることなのである。河野談話に関する高市政調会長だって同じだった。だから、そのひとつひとつに対して韓国や中国は反発を繰り返してくる。当たり前である。私もこれまで度々韓国人や中国人を蔑視するような発言をする人を何度も見てきた。残念ながら私たちの心のどこかにその意識が潜んでいる。日本が引き起こした戦争に巻き込まれた人々はそれを問題にするのである。決して一握りの人がそうなのではなく、多くの日本人にその意識が刷り込まれているのを残念に思う。だから、それを払しょくするのにまた何十年もかかると私は思うのである。
 でも、一般の方々はともかく、訳の分からない政治家が多いのは、それは選挙民が選んだからである。猪瀬知事にしろ橋下市長にしろ、橋下市長の発言を正当化している松井大阪知事にしろ圧倒的多数の票を得て当選している。だから彼らは何をしてもよい、何を言ってもよい、選挙民の負託を得ていると思っているのである。はたして、例えば橋下市長は一体なにを成し遂げてきたのだろうか?恫喝まがいのことを言いつつ予算を切り刻んできた以外に何をなしたか、水道事業は彼が思うように統合されたか、市の交通はどうなったか、美術館などの文化事業はどうなったのかなど、彼を支持する方々には考えてもらいたい。私は大阪市民ではないが、例えそうであったとしても彼や彼らに選挙で票を投じることはない!

追記:
 このブログを書いて2時間後、テレビ報道によれば「維新の会」幹事長の松井大阪府知事は、西村議員からの離党届を受理せず除籍処分にするとの方針を示した。では、この混乱を引き起こし国際的にも日本の立場を悪化させた橋下市長も除籍処分だと私などは思うのだが、いかがであろうか。

ユーティリティ

<<<2025年09月>>>

1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

過去ログ

Feed